安部英医師に対する無罪判決について考える | ネットワーク医療と人権 (MERS)

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安部英医師に対する無罪判決について考える

(文責:ネットワーク医療と人権 事務局長 太田裕治)

 帝京大ルート刑事裁判判決の日

 3月28日、東京地方裁判所は、「薬害エイズ」に絡む業務上過失致死事件で起訴された元帝京大学副学長の安部英被告に対して無罪の判決を言い渡した。私は傍聴していなかったが、裁判長が判決主文で無罪を告げたとき、傍聴席にはどよめきが起こったと聞く。傍聴人の一人であった故石田吉明さんのお姉さんは、定例の起立を終えた瞬間の「被告人は無罪」という言葉に唖然とし、何か叫びたい気持ちを必死に抑えていた。また、ある被害患者は、無罪と聞いたとたんに頭の中が空白になり、その後も淡々と判決理由を読み上げる裁判官の声を機械音のように聞いていて何を言っているのか理解できなかったと言う。傍聴席の3分の1を占拠した記者も含めて、関係者の誰もが安部被告の有罪は免れないとして、判決後の声明やマスコミ取材に対するコメントを用意していた。

 私は、無罪判決の速報を聞いたときには、この日午後6時から行われる判決の報告集会と民事訴訟和解5周年を兼ねたイベントに参加するため、大阪の事務所でイベントに使用する原稿を作成しようとしていたのだが、間もなく、マスコミから判決理由の骨子(後記に掲載)がFAXで送られてきて、無罪に対するコメントや感想を求められた。無罪判決を理由づけるその骨子には、安部英という医師が特別の存在ではなく、当時の状況下で通常の血友病医師ならどのような選択が可能であったかを判断すべきであるとし、1985年半ばに安部英帝京大学第一内科部長のもとで行われた非加熱血液製剤投与によって患者をHIV感染させた医療行為に過失はなかった、と判断する経緯が書かれていた。この時点で、私はマスコミに対して、被告が血友病の“権威者”であり、エイズ研究班班長であった事実に踏み込んでおらず、自ら司法の限界を露呈した判決であるとコメントした。そして、詳細な情報は後ほど集めるつもりで東京へ向かった。

 東京弁護士会館で行われた報告集会は、「医師が裁かれた日  薬害エイズ・和解から5年」というタイトルにも現れているように、血友病患者らの運命を変えた安部英医師の責任が裁判によって明確になる日と、国と製薬企業に加害責任を認めさせたあの勝利的和解から5年を経過しようとする区切りの時に合わさることを契機に、また新たに次の展開を目指そうとするイベントのはずであった。しかし、無罪判決の現実は会場の薬害被害者やその関係者に重くのしかかっており、各界の発言者の内容も怒りや悔しさに満ちた発言が続いた。開会の冒頭で挨拶した主催者たるHIV訴訟原告団の代表・花井十伍氏の顔は青ざめ、「今日の判決は、被害の重大さや患者の視点が全く抜け落ちているもの」と訴えた。そう、被害の重大さもさることながら、この裁判では結審まで50回以上公判を重ね、膨大な検察側の証拠資料提出と多数の証人尋問が行われたが、判決では、当時のAIDS(以下、事件の性質上AIDSをエイズと記述する)ウイルス(=HIV)の知見に関する検討に大半を割き、安部医師によるエイズ発症の危険性認識(非加熱濃縮製剤投与~HIVへの暴露~HIV抗体陽性~感染成立~持続感染~エイズ発症率)を極めて低く認定している。

 この裁判を含めて現在継続中の三つの刑事裁判で、民事裁判(HIV薬害訴訟)ではついぞ出てこなかった当時の重要書類と証言の数々が審理されているが、これ以上ない重要事実を総合的に判断しても、厚生省エイズ研究班の班長として君臨し、全国5000人の血友病患者の命運を握った血友病権威者の失態には法的責任はなかったということなのか。

 起訴事実と検討材料

 いろいろ釈然としないものを感じながら、安部判決全体についてもう一度考えてみることにした。まず起訴事実であるが、この刑事裁判は、1985年5月から6月にかけて帝京大学病院第一内科へ手首の出血で受診した当時HIV抗体陰性の血友病A患者に対して、合計3回の非加熱血液製剤(血液凝固第Ⅷ因子製剤)を投与してHIVに感染させ(裁判所は本件製剤投与以外に感染する原因がないと認定)、エイズ発症後死亡(1991年12月)に至らしめた行為に対し、東京地検が被害者遺族の告訴により(告訴状は殺人罪)、当時当科部長を務める安部医師を業務上過失致死罪で起訴したものである。

 事件を検証する上での要点はいろいろあると思うが、私-医師でも法律家でもない-が安部医師の責任を考える上で重要と思う点は、①安部医師は、1983年6月に設置された厚生省薬務局生物製剤課課長・郡司篤晃氏の諮問機関であるエイズ研究班(エイズの実態把握に関する研究班)の班長に就き、自身が診ていた免疫不全の血友病患者がエイズであるということを他の班員に説明していたこと(この事実を新聞記者や医師仲間にも発表している)、②当時、血友病“権威者”としての彼の見解は製薬企業及び全国の血友病医師に対して多大な影響力があると見られ、実際、安部医師は認可が急がれた加熱血液製剤(米国ではFDAが1983年3月認可、日本では1985年7月1日認可)の治験統括医師として、適用認可の速度(治験の方法、ガイドラインの策定)を掌握していたこと、③HIV感染の原因となった非加熱濃縮製剤が主流となる前の血友病A治療薬であるクリオプレシピテート(クリオ製剤)の開発者であり、輸入濃縮製剤の危険を察知できれば国内血液由来(ワン・ドナー)のクリオ製剤転換に思い至ったはずであること、そして、危険性認識については、④自らもエイズ発症した血友病患者を2例(1983年)抱えており、1984年9月には帝京大病院血友病患者48名の血液をエイズウイルス発見者であるロバート・ギャロ博士に送って、その年の11月に23名がHIV抗体陽性であることを確認していることである。

 以上の表面的事実だけを見ても、私には当時の安部医師に予見可能性(非加熱製剤投与に因るHIV感染とエイズ発症の危険認識)が十分あるように思えるし、結果を回避(HIV抗体陰性患者への治療変更)出来た人物に見てとれる。

 実際、判決でもこれらの事実を認定している記述が散見される。例えば、安部医師が血友病権威者として「血友病においては抜きんでた学識経験と実績を有すると目されていた」と評価しており、エイズ研究班に関して、判決は、「郡司課長は、~中略~ 我が国の血友病患者にもエイズが伝播する危険性があるとの危機感を抱き、我が国におけるエイズ発生状況の調査及び血液凝固因子製剤(血友病治療薬としての血液製剤)に関するエイズ対策を検討するため、エイズ研究班を設置することとし、被告人がその主任研究者に選ばれた。」として血液製剤及び血友病患者とエイズとの関連性を十分認識した性質の研究班の責任者として安部医師が着任したことを指摘している。そして、その研究班では「昭和58年(1983年)7月に帝京大学病院第一内科において死亡した血友病患者の症例(いわゆる帝京大第1号症例)が検討の対象となり、被告人は同症例がエイズであったと強く主張したが、他の班員の反対意見によって、エイズと認定することは見送られた。」として随分早い段階から血友病患者のエイズ症例を経験している事実を述べている。また、当研究班及びその小委員会(血液製剤問題小委員会)において、血友病治療に使う「血液製剤に関するエイズ対策として国内自給体制が議論され、班員からは第Ⅷ凝固因子製剤(血友病A治療製剤)を自国で賄うことを現実的な目標にするのであれば、クリオ製剤を併用すべきである。」などの討議が行われて、研究班が被害拡大回避の具体策を検討していたことを認定している。

 これらの事実をもってしても、事件が起きた1985年5~6月という大勢が明らかになりつつある時期に、安部医師は、輸入非加熱製剤を投与すればHIVに感染して、将来エイズを発症して死に至る可能性を十分認識していたと言えないのか(結果発生の予見可能性)。また、非加熱製剤投与を思いとどまるなり(あと1、2ヶ月で、加熱製剤が認可)、クリオ製剤への治療変更などに踏み切れなかったのか(結果回避義務)。あるいは、安部医師の地位や権限を発揮して、もっと早い時期に治療変更の方針や加熱製剤の早期認可が果たせなかったのか。そういった疑問点が次々と湧いてくるのである。

 裁判所は、前述したように判決理由の大半を当時(1985年)のウイルス学的知見の検討に割き、結果として当時は世界の誰もHIVというエイズの原因ウイルスとエイズ発症の関係性を明確に論じていなかったと認定し、それゆえに、安部被告に危険性の認識はあったものの、その程度は低いものであったとした。そして、HIV感染者がエイズ発症する確率が10%程度だろうとの認識(安部被告の供述より)では、有効な代替治療法がなかった(クリオ製剤転換への現実性を否定)当時では結果回避ができなかったとしても義務違反に当たらず、1985年5月から6月にかけて3回、HIV抗体陰性の血友病患者に非加熱血液製剤を投与した安部医師の医療行為に過失はなかったと結論づけた。

 すなわち、東京地裁が判決の拠り所としたものは、当時の医療水準であり、未曾有の感染症における認識の度合が確立していないなか、クリオ製剤と濃縮製剤を比較すれば濃縮製剤が優れており、クリオ製剤への変更は実質的に血友病治療の後退との心証を抱いたのである。

 また、本件医療行為の過失認定にあたっては、安部医師を通常の血友病医師としてどのような行為をとるべきであったかを判断しなくてならないとして、当時の主要な血友病医療機関の名称を列挙し、いずれの病院でも加熱製剤が認可されるまでは非加熱製剤での治療を継続していたので、帝京大学のみがクリオ製剤などへ治療変更するのは不可能であったとする。

 安部英は権威者なのか一般の医師なのか

 以上から、もう一度、疑問点や納得がいかない部分を整理してみると、まず、判決は、①世界のウイルス学的知見をことさら重視して、安部医師のエイズに対する当時の認識を過小評価していること、②予見可能性を認めながらも、それが低いものであったと認定して、安部医師の患者2名が早い時期にエイズ発症して死亡した事実を軽視していること(言い換えれば、人の命を軽くみている)、③結果回避するためにいくつかの選択肢が考えられたのに、“権威者”の安部医師ですら何も代替策を採らなかった点を仕方がなかったとしていること、それらに関連して、④安部医師を通常の血友病医師として無罪に導いたこと、そして、⑤一患者の死亡を巡って行われた審理でありながら、当時の患者の症状が不明瞭であり(出血症状が重症なのか軽症なのか判らない)、この時期に非加熱の輸入濃縮製剤を使用する必要があったのかどうか判断できない、ことなどである。

 ①ないし③の点については、裁判所が判断するにあたって、当時の医療水準を厳格に解釈したためであり、新たな事実や証人がでない限り、判断は変わらないのであろう。ただ、HIV感染症/エイズのように、未曾有の疾病が出現したとき、どこで歯止めをかけるのか、あるいは方針転換するのかは、医療界や行政に与えられた課題として肝に銘じるべきであり、その点の指摘がこの判決では期待できない。薬害エイズのようにウィルスの実態・エイズ発症との関係性がすべて解明されてから対処したのでは、既に被害が拡大してしまったあとで遅いのである。

 ④に関しては、もっと突っ込んだ審理が必要と考える。業務上過失致死の構成要件を判例に依拠して遵守するあまり、裁判所が自身で認定した血友病の権威、初代エイズ研究班長としての地位から導いた、安部医師の権威性と矛盾をきたしているし、「薬害エイズ」を知る関係者にとっては一番納得がいかない論理である。また、⑤については、業務上過失致死事件の裁判としては、一番の争点であるとも思われるが、ぜんぜん検討されていない。

 なお、安部医師の権威性や加熱製剤治験と関連して「薬害エイズ」で語られる、製薬企業や行政との関係については、検察が立証してないためか謎のままである。

 安部医師と言えば、権威を固辞したパフォーマンスと特徴のある口調でのエイズや濃縮製剤に対する発言で患者及び世間を翻弄した印象が強い。その点を判決は、「一連の事態に現れた被告人の言動を見ると、血友病治療の進歩やこれに関連する研究の発展を真摯に追求していたとうかがわせる側面がある一方で、自らの権力を誇示していたのではないか、その権威を守るため策を巡らせていたのではないかなどと傍目には映る側面が存在したことも否定できない。」と述べている。

 いずれにせよ、「薬害エイズ」における帝京大ルート裁判は、未曾有の事件に対する微妙な事実認定とギリギリの判断であることには違いない。司法は控訴審で十分審理を尽くして、社会の疑問に答えるべきである。

「薬害エイズ」帝京大学ルート刑事裁判  東京地裁判決 骨子