薬害エイズ厚生省ルート刑事裁判 控訴審の経過 | ネットワーク医療と人権 (MERS)

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薬害エイズ厚生省ルート刑事裁判 控訴審の経過

(文責:特定非営利活動法人 ネットワーク医療と人権 事務局長 太田裕治)

 「薬害エイズ」刑事裁判

 1980年代の輸入血液製剤(海外血漿を原料とする非加熱濃縮血液凝固因子製剤)によるHIV感染事件、いわゆる「薬害エイズ」は、1996年3月の民事訴訟和解を経て、産・官・学、各界の責任者が業務上過失致死罪で起訴される刑事事件へと展開しました。それぞれの裁判の経過を概観すると、旧ミドリ十字の歴代3人の社長が被告となった裁判は、1審(大阪地裁)、2審(大阪高裁)ともに有罪の判決が下り、現在被告が上告して最高裁へ審理の場が移っています。また、血友病の専門医であり初代エイズ研究班(エイズの実態把握に関する研究班)の班長を務めた安部英・元帝京大学副学長を被告とする裁判は、1審(東京地裁)で無罪とされ、検察側が東京高裁へ控訴して審理が行われていたものの、結審前に安部氏の病状が悪化して公訴自体が停止している状態にあります。そして、現在(2004年)唯一事実審で審理が継続している裁判が、元厚生省薬務局生物製剤課の課長であった松村明仁被告の業務上過失致死事件です。

 当時マスコミ等によって企業、行政、医学界の癒着が産んだ構造薬害とか複合薬害と評された「薬害エイズ」事件は、これら3つの刑事事件に集約され、それぞれミドリ十字ルート裁判、帝京大学ルート裁判、厚生省ルート裁判と呼称され現在に至っています。

 二つの公訴事実

 エイズ上陸当時の報道や「薬害エイズ」をよく知らない人のために、まず、これら3つの刑事裁判の公訴事実となった事件の概要を述べることにします。

 これら事件の被害者の1人は、帝京大学医学部付属病院で治療を受けていた血友病Aの患者であり、右手首関節出血の治療のため、1985年5月から6月にかけ、3回にわたって非加熱濃縮第8因子製剤「クリオブリン」(日本臓器社製造の血液製剤)の投与を受けてHIVに感染し、その後悪性リンパ腫などエイズを発症して1991年12月に死亡しました。当時、帝京大学付属病院第一内科の主任教授であった安部英被告は、当該第一内科における治療方針を決定できる地位にあったにも関わらず、HIV感染の危険性がある非加熱濃縮製剤を漫然と患者に投与したがために、この患者をエイズにより死に至らしめたことによって、逮捕、起訴されました。これがいわゆる帝京大学ルート裁判であり、この裁判では、日本で最も権威のある血友病医として血友病治療に精通していた立場とエイズ研究班の班長としてエイズ情報に最も接する機会のある研究者の地位を兼ね備えた安部氏の1985年当時における非加熱濃縮製剤によるHIV感染並びにエイズ発症に対する危険性の認識(結果予見可能性)が大きな争点となりました。なお、当時治験が行われていた加熱処理した第8因子製剤は、1985年7月に厚生省が製造・販売を承認しています。

 もう一つの事件はミドリ十字ルート裁判の公訴事実となったものです。被害者は1986年4月に関西の大学付属病院で食道静脈瘤の硬化術を受けた肝臓病の患者であり、この患者は、術後3日間で3回にわたって非加熱濃縮第9因子複合体製剤「クリスマシン」(ミドリ十字社製造の血液製剤で本来は血友病B患者の治療に使用される)を投与され、時の経過とともに体調不良に陥り、1994年にHIV感染が確認されました。その後この患者は、非定型抗酸菌症など日和見感染症を起こし(エイズ発症)、1995年12月に死亡しました。被害者のHIV感染の原因となったクリスマシンは、他社の第9因子製剤とともに、ウイルス不活化を目的として加熱処理された製剤が1985年12月に厚生省より製造・販売の承認を受けており、1986年には市場に出荷されている状況にありました。それにもかかわらず、旧製剤である非加熱の第9因子製剤「クリスマシン」は回収されることなく、当該被害者に止血剤として医療機関で投与されたのでした。ミドリ十字の歴代3社長は、加熱製剤の承認後もHIV感染の危険のあった非加熱製剤を出荷停止することなく、クリスマシンの原料が日本国内献血であると虚偽の安全性を強調して販売を促進し、非加熱製剤による被害者を出した事実をもって逮捕、起訴されました。

 これら二つの事件は、全国的なレベルで非加熱製剤による血友病患者らへのHIV感染被害が起こっていたなかにあって、たった二人の被害者についてのケースではありますが、被告加害者の立場性及び加害行為時期ないし被害者のHIV感染時期からみて「薬害エイズ」の本質が如実に現れた事案と言えると思います。それは、まさしく第1の公訴事実に関与した専門医師らにおける当時の危険認識の度合いとそれに伴う行動の規範が社会との隔たりを感じさせると同時に、第2の公訴事実を惹起した企業における絵に描いたような利潤優先体質を暴露し、製薬企業としての社会的責任や医薬品の安全性確保義務の放棄を露呈したものです。

 そして、この二つの事件に関与する行政官の責任を問うたのが厚生省ルート裁判であり、当時、薬務局生物製剤課の課長の地位にあった松村明仁被告は、HIV感染のおそれのある危険な血液製剤が使用されるのを漫然と放置したがために、2人の患者をエイズで死亡せしめる結果を招いたとして逮捕、起訴されました。

 厚生省ルート裁判

 厚生省ルート裁判では、先の二つの公訴事実が訴因となっていますが、事件当時の厚生省官僚であった被告につき、その職責に照らして、それぞれの時期において結果を回避するような措置をとるべき法的責任があったのかどうかが審理されています。したがって、この裁判では一行政官の職責と権限が大きな争点と考えられます。

 松村被告は、1984年7月中旬から1986年6月末にかけて、厚生省薬務局生物製剤課課長の職務に就いていました。前任者はエイズ研究班を設置(1983年6月)してエイズ対策に取り組んでいた郡司篤章氏です。生物製剤課は血液製剤などの「生物学的製剤」の製造業・輸入販売業の許可及びそれら製剤の輸入・製造の承認、検定、検査などの事務を扱っており、松村被告はそれらを統括する地位にありました。当時当課では、血液凝固因子製剤とHIVにおける対策としては、ウイルス不活効果を期待して加熱処理した製剤を優先的に審査しておりました。

 一審の東京地裁は、厚生省ないし薬務局内の各課の所轄事務に照らすと、血液製剤の原料血漿へのHIV混入によるエイズ発症・死亡を防止する措置を検討すべき部署は生物製剤課であったとし、当課の課長は血液製剤の安全性を確保し、その使用に伴う公衆に対する危害の発生を未然に防止すべき立場にあったとの判断を示しています。

 その判断のもとに裁判所は、第2の公訴事実では、ウイルス不活化に有効な加熱製剤が既に認可され、非加熱製剤に比してもエイズに対する安全性や、その結果としての有用性においても有意に優っていた製剤(加熱濃縮凝固因子製剤)が十分使用可能な時期にもかかわらず、生物製剤課長であった被告が、製薬会社への行政権限を発動(行政指導)しなかったこと、あるいは関係部局と協議して薬事法上の行政措置(承認取消、緊急命令、回収命令)や医師に対する指示(医師法24条の2)を行使する手段を講じることもなかったと認定しました。第一審東京地裁は、松村被告には結果を回避する義務がありながら、非加熱製剤の取扱いを製薬会社らの意向に任せて漫然と放任した被告の不作為が被害者をHIV感染・エイズ発症・死亡という結果に至らしめたとして有罪としました。

 しかし一方で一審は、第1の公訴事実となった帝京大学病院での非加熱製剤投与によるHIV感染事件に関しては、当時の研究者らのHIV・エイズの認識にはなお不明な点が多く、各血友病専門医らの医療現場においても非加熱製剤が常時使用されていたことから、松村被告に血友病治療医らをして治療方針を転換させるべき結果回避義務はなかったとして無罪としました。

 控訴審の経過

 上記のように第一審では一部無罪(第1公訴事実)、一部有罪(第2公訴事実)の判決が下されたのですが、検察、被告ともにこの判決を不服として控訴しました。昨年(2003年)12月18日に東京高裁において開かれた控訴審第1回公判では、双方から簡略的に控訴理由が陳述され、検察は、原審判決に対して事実認定及び量刑ともに不服とし、改めて被告が1984年11月には非加熱製剤によるHIV感染・エイズ発症の危険性を認識しうる立場にあったこと、並びに当時被告には血液製剤に関する情報を能動的に収集する職責と非加熱製剤によるHIV感染被害の拡大を阻止すべき法的義務があったことを主張しました。一方被告側は、原判決が本件当時の知見に基づいておらず、事件に対する社会の反響を考慮したものであるとし、被告には販売中止や回収を指示する職務上の権限はなく、個々の医療行為やその評価を信頼するしかない立場にあったと主張しました。

 その後、本件控訴審はこれまで5回の公開法廷が開かれ、本年(2004年)2月19日の第2回公判では、当時の松村被告の部下で審査係長の職務に就いていた乗松正幸氏の弁護側主尋問と検察による反対尋問が行われ、第3回公判(3月18日)から第5回公判(7月27日)までは被告弁護人、検察双方からの被告人質問という形で松村氏への尋問が実施されました。

 控訴審での証言と争点

 本件控訴審での証人尋問、被告人質問は、弁護人からの申請によるものであったため、公開の法廷では主に第2の公訴事実に関連する当時の状況についての事項が尋問されました。それは、加熱製剤が承認された以降の非加熱製剤の処理を巡って、厚生省内及び省内に設置された委員会ではどのようなやり取りが行われ、刻々と入ってくる情報や委員会などの決定に基づいて、生物製剤課や松村被告らがどのような対応をしていたのかという点です。端的に言えば、松村被告はどのような情報を得ていて、彼の職務権限によって、どの時期でどのような対策(警告、販売中止、回収など)を講じるべきであったのか、ということが論点となっています。以下では尋問でのやり取りから重要と思われるものを抜粋してみました。

血液製剤調査会及び同特別部会での審議

 1985年から1986年にかけて、本件で問題となっている血液凝固因子製剤など血液製剤の安全性や有効性の評価及び承認の審議は、厚生省内に設置されている中央薬事審議会の小委員会である血液製剤調査会と血液製剤特別部会で行われていました。事実上の審議は血液製剤調査会が行い、その決定事項は上部組織である特別部会に報告されていました。これらの審議会には、生物製剤課の職員が事務方として出席し、議事録の作成を担当していました。その議事録は課内の供覧に付され、血液製剤について部会で審議された事項やその内容は課長である松村被告も把握し決裁印を押印していました。

 第3回公判では、松村被告は弁護人の質問に対して、薬事審議会に属する部会は非常に重い(重要な)組織だったので、血液製剤調査会及び特別部会の指摘事項には忠実に従っていたと答えています。

昭和60年第8回血液製剤調査会と第4回特別部会

 1985年(昭和60年)12月19日に開催された第8回血液製剤調査会では、新たに申請された加熱製剤(加熱第9因子製剤)の承認の可否が正規の議題でありましたが、審議の冒頭で非加熱製剤の取扱いが議論となり、委員会の座長から議事録作成を担当していた乗松氏(本件証人)に対して、「加熱製剤が承認されれば、非加熱製剤は使用させないように厚生省が指導すべき、という意見が出た。なお、非加熱製剤は一旦回収されるべきである、との意見が出された。」と議事録に書くよう指示があり、乗松証人はその指示に従って議事録に記載したと証言しています(控訴審第2回公判)。

 その後、1985年12月26日に開かれた第4回血液製剤特別部会では、前記血液製剤調査会の座長が調査会での議事報告を行いましたが、この議事録には「非加熱製剤は承認整理等を速やかに行うべき、非加熱製剤しかない業者については、早急に加熱製剤の開発を厚生省は指導すべき。」と記載され、前述の「非加熱製剤は使用させないように・・・」との記載と表現が違っている点が証人尋問及び被告人質問でクローズアップされました。

 この表記の違いについて、第8回血液製剤調査会の議事録を作成した乗松証人は、「別の担当者が作成した第4回特別部会の議事録の記載と表現は違うが、座長は同様趣旨の発言をしたと思う。単に記載方法の違いである。」と述べ、「議事録作成者と記述の違いで議論したこともなかったし、違和感もなかった。課内や特別部会でもクレームは付かなかった。」と証言しました。また、第8回血液製剤調査会での座長及び委員らの発言は、「自分としては、加熱製剤が承認された後に、非加熱製剤の整理をすればよいという意味に捉えた。」と語りました。

承認整理の意味

 第3回公判での被告人質問では、前記特別部会でも出てきた「承認整理」という言葉について、弁護人から松村被告に質問がなされました。その回答を要約すれば、「承認整理とは医薬品の製造等の承認証を返上することであり、合理的な意味合いがある。それは、もう造らないということがはっきりするし、使用させないという点からも意味があり、ユーザーにも、もう使用できないということが示せるからである。」と説明し、松村被告は前記2つの議事録における表現の食い違いはとくに感じず、上部組織である特別部会の「承認整理」という言葉に意見が整理されたものと理解したと述べました。ただ、この点については、乗松証人の見解とは若干の食い違いがあり、乗松証人は「承認整理」という言葉は委員の先生方が使う用語ではないので、特別部会の議事録作成者が表現したものだろうと証言したのに対し、松村被告は「委員は通常数年間続けているので、ある程度委員会では通用していただろう。」と答えています。

 いずれにしても、承認整理には、「取消」・「回収命令」など、行政権限発動のような強制的な意味合いはなく、最終的にはメーカーの自主性によるものなので、当時被告らがメーカーには承認整理を指導したものの、結局は各社の非加熱製剤の承認整理は1986年3月から4月にかけて行われました。承認整理された時期については、ほぼ同時期になるように操作されたのではないか、との尋問が検察から証人及び被告に対してなされましたが、明確な回答は得られませんでした。

 また、加熱製剤承認後に非加熱製剤が市場に併存したことに関する質問に対して、松村被告は、「加熱による凝固因子活性の力価(効果)の低下や、ウイルスを完全に不活化しているかも懸念していて、思わぬ副作用を危惧していた。」と答え、当時は非加熱製剤と比べても「加熱製剤の信頼性は流動的だった」ことを強調していました。

生物製剤課の職務権限

 第4回公判でも弁護人からの被告人質問が行われ、主に薬事法など法令上の行政権限と薬務局内各課の所管事務(当時)について尋問が行われました。対象となった法令上の権限は、薬事法上の「回収命令」、「承認の取消」、「緊急命令」及び医師法上の「医師に対する医療等に関する指示」についてでした。これらに関する弁護人の質問に対して、松村被告は、まず、どの薬事法の規定も本件における非加熱製剤のHIV汚染に明確に該当するものがないこと、及び医師法の規定は実効性がないことなどを説明した上、これらの規定に基づく権限の発動は生物製剤課の所管ではなく、すべて他課の権限によるものであると答えました。

 しかし、この点については、裁判長が何度か介入し、医師法等の適用を待つまでもなく、行政指導、ドクターレターあるいは(医師法上の医道審議会の意見を聞くまでもなく)知事を通じての指示など(簡易な決裁によって)、医師らに非加熱製剤の不要不急の使用を制限させる方途があるのではないか、と質問しました。これに関しても被告は抵抗を示しましたが、私は、裁判長が、法令上の根拠がなくても行政指導的なものによって、生物製剤課主導で何らかの措置が可能であったという自らの心証に確信を持ったように思えました。

 その他、「副作用モニター制度」や「医薬品の再評価制度」に質問が及びましたが、これらの制度についても、被告は他の所管事務であると答弁しました。これらの答弁を聞いていて、やはり縦割り行政の域を出ない印象を持ちましたが、「相議」と呼ばれる他課、他局との情報交換の場(システム?)があって、HIV・エイズの問題や血液製剤については情報を共有していたようでした。そのためか、各課のHIV・エイズに対する情報及び認識に差はなかった、と述べていました。

 なお、第5回公判では、検察が生物製剤課による1987年2月の肝炎発生に伴う「フィブリノゲン-ミドリ」の回収命令発動事例を挙げて、前回(第4回公判)の被告の答弁(回収命令の発動は監視指導課の所管)をくつがえす場面がありました。

松村被告の危険認識

 薬害の発生及び拡大を防止するためには、厚生省の担当部局に医薬品に関する能動的な情報収集機能と各課横断的な医薬品の監視指導機能及び行政権限が必要と考えられますが、権限発動の前提としての行政官の危険認識は当時いかなるものだったのか、ミドリ十字ルート裁判で明らかとなったように、やはり製薬企業が医薬品に関する情報を圧倒的に保持しています。しかも、企業は自らの不利になる情報を容易には出さないとなれば、厚生省はどの時点で非加熱製剤による危険を認識して対策を講じるべきであったのか、厚生省ルート裁判でも松村被告のHIV・エイズに対する危険認識が問われました。

 控訴審では、被告の危険認識について、主に第5回公判で検察により被告人質問が行われました。その前に第3回公判の弁護人による被告人質問で、HIV・エイズに対する認識が変化したのはいつ頃か、という質問に対し、松村被告は「1987年2月の神戸事件が起こった頃である。これをきっかけにエイズの恐怖を認識して、政府としてエイズの問題に真剣に取り組みはじめた。教育、労働、医療、その他一般の生活の問題に本腰を入れはじめたと理解している。」と答弁しました。

 「薬害エイズ」に関する刑事裁判では、被告人ら(証人、学者、専門家などを含めて)の危険認識や結果予見可能性を判断する上で4つの基準時がしばしば登場します。それは、

  1. CDC(米国疾病管理センター)の血液学者ブルース・エバット氏が日本に招かれて基調講演を行った第4回血友病シンポジウムが開催された1984年11月
  2. 第1公訴事実の被害者が1回目の非加熱クリオブリンの投与を受けた1985年5月12日
  3. 加熱処理した第Ⅸ因子製剤が承認された1985年12月
  4. 第2公訴事実の被害者が最初に非加熱クリスマシンの投与を受けた1986年4月1日

の各時期です。

 これらの時期に松村被告がどの程度の危険認識を持っていたかが焦点となりますが、特に1985年4月に米国アトランタで開催された国際研究会議(CDC、WHOの共同企画で、HIV、AIDSに関する当時の世界最先端の知見が発表され、日本から当時鳥取大学の栗村敬教授、順天堂大学の塩川優一教授らが出席)は、研究者、学者らのHIV・AIDSの認識を変えさせた重要なターニングポイントとみられています。松村被告は、日本から出席したウイルス研究者らの報告を聞いてHIVに対する認識が変わらなかったのか、CDCが発行するWWMR誌(疾病週報)から逐次情報を得ていたのかなど、検察から、生物製剤課として能動的に情報収集を行っていたのかどうかを質問されていましたが、アトランタ会議については、どのような報告を受けたのかも曖昧で、特に認識が変わったことはないと強調していましたし、どの時点でどのような情報を得ていたかは「記憶が定かでない」ということに終始していました。

 また、1985年当時のCDC報告、栗村教授の研究(抗体検査)データ、エイズ調査検討委員会での報告などを見聞きしても、「血友病患者は同性愛者に比べてHIV抗体陽性者のエイズ発症率が低いという認識だった」とし、「血友病患者の抗体陽性者は今後も発症しないのではないかという専門家もいた」と答弁していました。しかし、検察から時を追うごとに血友病患者の発症例報告数が増えてきているデータを示され、松村被告も徐々に増えてきていたとの認識があったことは認めざるを得ませんでした。

 控訴審の結審と判決期日

 厚生省ルート裁判の控訴審は次回10月5日に第6回公判が開かれ双方の弁論が行われて結審し、年内に判決が出される予定です。そうなると、すべての刑事裁判がひととおりの証拠調べを終了することになるのですが、果たして3つの判決内容を総合的に検証すればどのような構造が見えてくるのか、また加害者・被害者を特定した刑事裁判ではありますが、この薬害の背景に存在するものや薬害が起こった真相の究明がどの程度明らかになるのか、すべての裁判に表れた事実が明らかになることによって、いよいよ「薬害エイズ」の総括に向かっていくことが予想されます。