MERSイベント「ご存じですか? サリドマイドのこと」:第1部 講演 | ネットワーク医療と人権 (MERS)

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MERSイベント「ご存じですか? サリドマイドのこと」:第1部 講演

MERSイベント「ご存じですか? サリドマイドのこと」
第1部 講演『サリドマイド被害を受けた私と家族の人生』


≪講演者≫ 増山 ゆかり サリドマイド被害者


 ただいまご紹介にあずかりました増山です。話を始めたいと思います。

 中学校か高校の教科書に、アルタミラの洞窟の壁画が載っていたと思うのですが、記憶にあるでしょうか。私は最近読んだ本の中で知ったのですが、このアルタミラの壁画を発見したのはスペインの侯爵とその娘で、侯爵はもともと考古学にはすごく造詣が深かったのですが特に専門ではなく、趣味の範囲で行っていて、あるとき自分の領地で洞窟を発見したのですね。犬がたまたま迷子になったので、それを追っかけていくうちに洞窟に入り込んで、ここには人が住んだ形跡があるということに気がつきました。

 あるとき娘を連れて洞窟を探索しに行き、侯爵は数日かけて洞窟を調査しました。人が住んだ形跡というのは地面に最も残るらしいです。それで一生懸命地面を調べていたら、娘が「お父さん、牛の絵よ」と声をあげました。それであの偉大な壁画が発見されたという経緯があります。ただ話はそこからで、この人は1年かけてお金をつぎ込んで考古学の学会で発表しました。しかし、あまりのその絵の美しさで当時の人が描いたとは思えない、だいたい1万年前から4万年前ぐらいの間に描かれた絵なのですが、おそらくデマカセではないかと思われたそうです。それで誰からも相手にされなかっただけでなく、考古学会への出席も禁じられ、そのまま失意のうちに亡くなりました。

 そのあとに、ある若手の学者がたまたま絵の話を聞いて、おもしろいのでということで調べた結果、それが本物だったということが分かるわけですね。それは1880年代ですので、一番初めに侯爵が発見したのはかなり前の話なのです。後に何十年か経って、それが本物だっていうのが分かったときに、それをピカソが見るわけです。ピカソがその絵の美しさに、すごく感動し「人類は何も発達していないじゃないか!」と言ったのです。

 つまり、「今自分が描いている絵とその当時に描かれた絵の技法というのは、基本的にはほとんど差がなく、むしろ自分はその絵に負けているというふうに感じた」と言っています。

 ピカソはそう思ったかもしれませんが、私はこの話を読んで感じたのは、変わっていないのではなく、人間というのはもともとすばらしいものを持っていた。それは年代とか年令に関係なく、発展してないのではなく、発展しようがないほど高度な知識や教養を持っているのではないかということです。

 サリドマイドとは直接関係ないのですが、私にとって人生の中で大切にしているものに、この絵の話がこれに通ずるものがあると感じているからです。一つは人間の持っている可能性のすばらしさを感じ、もう一つは逆に人が生きるということは、なぜこんなにつらいものなのかなというのを、私の中で深く知りたいと感じています。アルタミラの牛の壁画はあまりの見事な出来栄えで、専門家すら信じられず偽りだと決めつけ、でも、それを本物と見抜く人々が現われ、何十年もかかりましたが考古学の歴史は訂正されました。壁画を描いたのは紛れもなく何万年も前に生きた先史人類で、それを見た後世の著名な画家さえうなだれてしまう、ここに人の愚かさや虚栄心、生きることの苦しみを垣間見ました。

 話をしている最中に、私が普段どのように生活を送っているかというビデオを流していただきます。ほとんどプロモーションビデオみたいになったのですが(笑)。サリドマイドということは、私にとって重度な上肢障害を持っていることで、足を使った生活上で切っても切れないものがあります。普段、障害を持つ人がどのような生活をしているのか知らない方が多いと思いますので、いい機会ですので見ていただければと思います。

 ご存じの方が多いと思いますが、まず簡単に、サリドマイドがどういう薬害事件だったかという話をしたいと思います。このサリドマイドというのは、1957年に西ドイツで睡眠薬として開発された薬です。当時日本では、海外の有名な製薬会社で作られた薬で既に承認を受けていれば書類審査のみで製造販売ができるという内規があって、それに基づいて、サリドマイドは書類審査のみで日本国内に入ってきました。ただその時点で製造の承認を受けてはいましたが、実際ヨーロッパでも製造販売の準備をしていた段階で、その薬で治療を受けていたという患者さんはいませんでした。

 睡眠薬というのは、今考えれば特殊な薬のような気がしますが、当時は戦争が終わって、やっと人々が混乱の時代から抜け出して、自分たちの力で国を再建して、またそれぞれが幸せになっていこうとすごく切望した時期でした。そういう背景もあって、体が元気で健康に日々送っていくことが幸せの中の最低条件であるという感じで思われて、ある種健康ブームが起きて、それにのって睡眠薬は爆発的に売れました。だいたい各家庭の救急箱に一瓶は睡眠薬が置いてあるという状況でした。また、サリドマイドには子供用の睡眠薬もありました。それは液体で、夜、映画など見に行くために外出する親たちが子どもたちを寝かしつけるために用いたので「シネマジュース」と呼ばれたりしました。

 医薬品の開発には薬剤の毒性を調べる検査があるのですが、どれぐらいその薬を動物に与えれば、その動物が死んでしまうかという致死量を測定する検査です。サリドマイドはどんなに与えても動物実験では動物が死ぬことがなかったということから、やがて安全無害な薬と謳われ、なぜか日本に届いたときには「妊婦が飲んでも安心」と大々的に宣伝され、のちに胃腸薬としても売り出されたときには「つわり止め」として売られました。

 だいたい世界で45カ国以上、1960年代前半の数年間売られただけでしたが、世界中で多くの被害を出しました。また被害が西ドイツのお医者たちが発表した数字では、およそ8000人から1万2000人ぐらいが被害を受け、その半分近くが亡くなっていると報告しています。私も薬害防止活動をするまでは、これほど死亡率が高かったのかということをあまり意識していませんでした。サリドマイドは世界を巻き込んだ最初の薬禍で、大量の被害者を出し、多くの死者を出した悲惨な薬害事件です。日本では公式な記録はないのですが、ある都内の大きな産院で調べたところ30%ぐらいしか生存できなかったという報告が残っています。それをずっと不思議に思っていました。それで最近当時をよく知る人から、あるいは被害児の親から話を聞くことが増えたのですが、それによるとこんなことのようです。

 日本は奇形児が生まれるということを忌み嫌うわけですね。生まれたときに手も足もない子が生まれてきた場合、それほどの症状で生まれてくると相当手当をしないと助かりません。その当時はおそらく放置をして、そのまま衰弱死させていたのではないかと思われるのです。というのは、実際、サリドマイド被害児の親たちは子どもが生まれたときに「お子さんはこういう症状で生まれてきているのですが、処置はどうされますか。」と先生に聞かれたそうです。

 私の両親の話になりますが、北海道の片田舎の伊達市というところで小さな雑貨屋を営んでいて、祖父母とそれから父と母と兄の5人家族で生活していました。私はそこの6人目の家族として、今(2003年)から40年前に生まれ、新しい家族のひとりとして加わりました。兄のときとは違い、私を身ごもったときから母は体調がすぐれず、臨月に入ると母は入院し、当時の田舎では珍しいのですが、私は日赤病院で生まれました。お産は大変な難産になり、出産後も肥立ちが悪く、周りの人々が母の身体を気遣い、私が無事に産まれたということを知らせませんでした。

 お医者さんは父だけを呼んで「お子さんの手がちょっと」というふうに告げました。サリドマイドはかなり内部障害があったり、あるいは耳に障害があったりと、腕の障害についてはすごく知られていますが、実は体全部にその症状が出て、循環器系あるいは消化器系のいろんな閉塞とか、あるいは欠損など様々な病気を持っています。私の場合はそれと直接関係があったかどうかはわかりませんが、心臓に孔が開いていて、そのせいで不整脈が続いていました。お医者さんは父に「お子さんは東京の大きな専門の病院に連れて行けば、もしかしたら誕生日が何回か迎えられるかもしれませんが、ここでそのまま治療を受けるということになれば、十分な設備がないので、おそらく誕生日を迎えることは難しいです。」というふうにおっしゃって、それで父は「じゃあ、すぐその東京の病院に移してほしい」と申し出ました。ただ、当時は父にとって、東京で子どもに治療を受けさせるということは、すごく経済的にも精神的にも大変だったと思うのですが、それを即決したという父の暖かさに今の私はすごくありがたいと思っています。結局生まれて3週間ぐらいで東京の病院に移されるのですが、その移される日にお医者さんが「ではお母さんに会わせましょう」ということで、母の病室に看護婦さんがだっこして連れて行きました。母は体調を崩していたこともあって、生まれたことは知らされていたのですが、小さな腕のことは母には告げられていませんでした。ショックを与えられないということで、お医者さんは母を気遣って私に会わせませんでした。けれども、やはりもうしばらく会えないし、いつまでも隠しておくわけにもいかないので、「じゃあ、会わせましょう」ということで親子の対面をさせることにします。母は「もうとっくに赤ちゃんは亡くなっているのだ」と、「ただ自分の体調が良くないからそれを誰も告げられずにいるんだ」と思って覚悟していたので、看護婦さんが私を連れて行ったらすごく喜んだそうです。私自身はどうだったかというと、いきなり知らない人に預けられるのでぴーぴー泣いていたわけです。でも母にだっこされたとたん、ぱっと泣きやんで笑ったのか、まぁぐずるのをやめたのですね。そしたら看護婦さんが「もう赤ちゃんは誰がお母さんなのか知ってるのよ」と声をかけてくれたそうです。もちろん腕に障害を持って生まれてきたというのは、母にとってはショックだったとは思うのです。まして、当時はその薬が原因だというのも知りませんでしたので、自分が子どもをこんなふうに産んでしまったという責任を感じていたのではないかと思うのですが、でもそれよりも赤ちゃんがこうして無事にいるということを知って、すごく嬉しかったと後になって何度もこの話を聞かせてくれました。

 サリドマイドの特徴としては、ひとめ見てわかるほどの欠損や奇形があるという外見も一つの特徴に挙げていいのではないかと思います。やはり相当差別は受けました。これだけ障害がはっきりしていると隠せないですからね(笑)。どんなふうにかというと、例えばお店に買い物に入ろうとすると(小さいときのことですから今から何十年も前のことになりますが)、野良犬みたいに石を投げられ追い払われるんですよね、こっちに来るなって。それから子どもたちなんかは善悪が分からないので、わぁーと私を囲んで、たちまち私は浦島太郎に出てくる亀のようになってしまうのですね、みんなに突っつきまわされるわけです。そんなふうに幼少期を送ったのですが、ただそのときにほんとに私にとって理解できなかったのは「なぜ腕が短いということだけで人にこんなにいじめられるのか」というのがどうしても子どもの心では理解できないのです。そうやって誰もが私に対してとても攻撃的になるというのは、私が人々にとってそういう存在なのだということを認めざるを得ないのです。哀しいと思いながらも、「少なくとも私自身は誰かをいじめる人には自分はならないんだ」ということは分かるわけですね。変な言い方ですが、それがすごくうれしかったんです。だって、心の痛みを知ることが人にとって難しいことだとするなら、私は他者を傷つけることなく、それを知ることができるようになるのですから。

 体が病弱だったということもあって、入院したまま私は東京の病院でだいたい10歳ぐらいまで過ごすことになります。家族に会うことのないまま育ったので、初めて家族にあったときの記憶があるのですね。それはどういうことかというと、小学校に入ってからですが、その時はずいぶん体力が回復して、実際に不整脈もほとんどなかったということで、お医者さんから許可が出て「北海道に1週間ぐらい帰っておいで」と言われて帰りました。それが私にとって、物心がついてからの初めての家族との再会でした。父が千歳空港まで迎えにきてくれた日はすごい真っ青な空の日でした。カリフォルニアの青空にも負けないくらいです。私はずっと病院でしか暮らしていないので、それだけ強烈な色彩の中に自分がいるという経験がなかったせいか、いつまでも風景やその日の出来事を鮮明に覚えています。父が「こっちがお母さん、こっちがお父さんで、おじいちゃんで、おばあちゃんで、お兄ちゃんだよ」と紹介してくれるんです。私はぺこりと頭を下げて「はじめまして、ゆかりです」と挨拶しました。

 それまで自分は心臓が悪かったこともあって、走ってもいけなかったし、実際に3歳くらいまでは歩けなかったのです。やはり手が使えないと、伝い歩きができないため子どもは歩けないものです。それまでは寝たっきりという状況だったので、自分の故郷に自分が帰れるという日が来るなんて、到底思ってないわけです。広い大地に何処までも続く道を、今日まで私は忘れられません。その日の記憶というのは鮮明で、ずっと千歳から伊達のお店(小さなお店なのですが)に行くのに、当時4時間ぐらい車に揺られて帰ったと思います。その時に汽車は通るわ、牛はいるわ、馬はいるわ、なんだか別世界なんですよ。「うわぁ、こんなに世界は美しいのだ」と思いました。誰にも故郷には一生忘れられない思い出が一つや二つあると思うのですが、その日のことが私には強烈な記憶となっています。まぁせっかく帰ったのですが、はしゃいだせいで私は次の日から熱を出してしまい、せっかくウチに帰ってきたのに、またそこでほとんど寝たきりの1週間を送ってしまい、それでウチの親が懲りてしまって「しばらく帰ってこんでえぇ」とか言われて、しばらく帰れなかったりしたわけですが、初めての帰郷というのはそういう感じでした。

 やっと小学校の高学年に入って、ほとんど通常の生活はできるようになりましたが、最初は受け入れ先がないのですね。「これだけ障害が重くて、なんかあったら責任持てない」ということで、北海道の病院ではなかなか受け入れていただけなかったのです。なかなか戻れなかったのですが、その頃になるとそろそろ「受け入れていいです」という病院が出てきて、それで北海道に戻ることになりました。ただですね、そこからが結構、その当時の私にとっていちばん苦しい時代だったのかもしれません。やっぱり自分が人と違うということをだんだん認識するようになってきました。はじめは自分が違うということに気がつかないのです。なんかみんなと同じ動作ができないことは気がついているのですが、だんだん「私はほかの子と違うんだ」と思いながらも、先生にどうしてこうなったかと聞くと、「薬のせいだよ」と言うのですね。「じゃあ薬でそうなったんだったら、薬で治してください」といつも先生にお願いしていたわけなのです。先生は「分かった、分かった」と言うだけでしたが、私はそれをずっと待ちこがれていました。そういう施設にいると定期検診というのが結構頻繁にあって、その時に腕の長さとかを測るのです。私は少しでも手が伸びていてほしいので、自分の足で腕をつまんで引っ張ったりするのです。友達にも引っ張ってもらったりして「絶対長くなってやるぞ」というふうに思っていた時代もありました。ただ、私は腕が短いぐらいはいいやと自分で思って、「そんなことよりも人をいじめるような人にならなければいい」というふうに子ども時代はすごく思っていました。

 北海道に戻ってきて、その直後に両親が離婚をしてしまいました。実際、まだ母と父には数回しか会ってなかったので、あまりショックではなかったです。それよりはやっぱりお医者さんとか看護婦さんと離ればなれになる方が辛かったように思います。「親が離婚したよ」と病院で聞かされて「まぁ仕方ないかな」と思い、夏休みが来て自宅に帰ったときは母が実家に戻っていて父だけが家に残っていました。その間に、父がちょっと事業に失敗して、店をたたまなければならなくなって、経済的にすごく追いつめられて、それで私を育ててくれるのが無理になってしまい、それで私はそのあとずっと親戚に預けられて育つのです。当時は「なぜこんなに人は苦しみに耐えなきゃいけないのだろう」と思いましたね。とても理不尽な事が多くて、もちろん薬害を受けたということが発端だったと思いますが、人間っていうのはみんな一生懸命生きていて、みんな幸せになりたいとか、よかれと思っていろいろ行動を起します。ですが、それがうまくかみ合わなくて、結局父が仕事で失敗したというのも、私が10歳の時にサリドマイド訴訟が和解し、和解金というか賠償金が下りて、それを元手にさらに事業を拡大して、それで失敗して結局すごい借金を背負うようなことになったわけです。それで実際に私は自分で和解金を使わずに全て無くなってしまったのですが、それでも自分にはまだそんなに悲壮感はその時は無かったです。とにかく毎日が大変でして、勉強しなければいけない、次から次といろいろ降ってくるので、それに一生懸命になっていました。苦しいと感じる余裕がなかっただけのことかもしれませんが。ただ、一度だけどうしてもつらかったと思うのは、私の三つ違いの兄が引き取られた親戚とどうしても合わなくて、母の方に引き取られることになったことでした。やはりその時は何か自分の中で「ぱきっ」と折れる音が聞こえ、世界の真ん中で一人とり残されたような気持ちになりました。

 障害を抱えて生きている人は一度や二度は思うのではないかなと思うのですが、やはり「何が楽しくて生きているだろう」とやっぱり思うわけです。「これで私の人生ってもうほとんど終わっているのかなぁ」というような気持ちになってしまうことです。伊達の実家というのは歩いて10分ぐらいで海があるところです。もうどうしても嫌になったので、そこにとことこと歩いていくわけですね。伊達っていうのは北海道の中では暖かい地方でそんなに雪が降るというのは珍しいのですが、すごい雪が降っていました。「あぁ、私はここで終わりなのかもしれない」と思って、ずっと歩いていて海岸に着いたとたん、目の前に初めて北海道に帰ったあの日の青い空が見えるのですね。何でか分からないけれど見えるわけです。「私は何もかも無くしたような気がしていたけれど、あの青い空が心に残ってたんじゃないか、それだけでいいんじゃないかな」と思うのです。「この空を私は美しいと思い、そしてどんなに苦しくても、それに感動できるという気持ちがまだ残っている、という命のたくましさはやっぱりすごい」と思って、それで自分の中で道が開けたような気がしました。実際にそのあたりを境にすごく体も調子が良くなって、寝込むとかというのが段々無くなってきました。今はむしろ「風邪をひかない体質だね」と言われるぐらいすごく元気で、「はり倒してもなんか倒れそうにもないよね」とか言われるぐらいなのです(笑)。

 やっと高校を卒業して世の中に「さぁ出よう」とした時に、実は手に障害がある人は就職先がほとんどないのです。私も「それは仕方ないなぁ」と思うわけです。ただ、すごくラッキーだったのは、私が卒業した年というのが国際障害者年という年の始まりで、当時すごく企業が積極的に障害を持っている人の就職に力を入れた年でした。あり得ないような話ですが、私に「是非ウチにきてほしい」っていう企業がありまして、それで就職することができました。ただ北海道内で探すことは難しかったので、やっぱり東京に戻ってくることになりました。それから東京で18歳から一人暮らしを始めました。当時すごく驚きだったのは、私はずっと施設でリハビリを受けながら、養護学校とかそういう病院でしか生活をしてこなかったので、一般の人がどんな風に生活しているのかあまりよく知らなかったのです。喫茶店で食事をするなんて事も到底なくて、とにかく何をやっても新鮮で、すごく楽しんでいたのです。

 ただ本当に驚いたのは、世の中には当時まだ全然バリアフリーな場所はなくて、障害を持つ人が一人で生活するには、多くのハードルを越えなければなりませんでした。「私は世の中の人々から拒絶されてるのだな」とやはり思いました。なぜかというと、私自身が自分の障害を何も感じないで生きていられる場所をどうしても見つけることが出来なかったのです。例えば私は当時、恵比寿に住んでいたわけですが、恵比寿は今みたいに高級住宅地になる前の話ですが、そこに住んでいた時に渋谷に買い物に行っても、渋谷に私が使えるお手洗いがないのですね。私は買い物中にトイレに行きたくなると、わざわざ30分ぐらいバスを待ったり乗ったりして一回家に戻って、それでお手洗いをすまして、もう一回行くというようなことをしていました。また、コンサートに行っても、コンサート会場にやっぱり自分が使えるトイレが無かったりして、途中で帰って来るということもありました。「なんで、世間の人はこんな簡単なことにも気がついてくれないんだろう」と思いました。例えば、この世の中に「女性用のトイレしかここの映画館はありません」とか、「ここの学校は男性用しかありません」と言われたら、みなさん「おかしいじゃないか」と非難すると思います。けれども、障害を持っている人が使えるトイレが無くても誰も気にもとめないのです。あと実際、私も当時生活していて、同じように重度の障害を持っている人に会う機会はほとんど無く、どうしてだろうと思っていました。友達にそれについてどう思うかと聞いたら「そんなことが変だって思ったこともなかった」と言われて、それが当時の日本の現状なんだと思いました。

 そういうこともあり、少し福祉の勉強をしたいと思うようになりました。アメリカには自立生活プログラムというのがあるのですが、障害を持った人が自立生活をするためにはどうすればいいかというノウハウを伝えるような機関がありまして、7ヶ月ほどそこの生活センターと向こうにある障害を持っている人の施設に研修でボランティアとして働いていたことがあります。今はそのような度胸のあることは多分出来ないとは思うのですが、当時は当たって砕けろというタイプでしたので、そこで英語もたどたどしく、何を聞かれているかよくわからないのですが、そのようなことをしていました。ただ、その時に「世の中もおかしいけれども、私自身も世の中が変わるのを待っていたのでは駄目なのでは」と少し感じました。それで、やはりもっと世の中を変える、変わっていくにはどうすれば良いのかということを考えるようになりました。

 少し話は戻りますが、私がすごく幸運だったのは、就職先の社長さんは満州で終戦を迎え、帰国後は人のためになる仕事をしたいということで、医薬品や医療品を輸入する会社を興して、一生懸命働いて会社を大きくした苦労人で、社員一人一人に対してとても目を配る方でした。「君は腕が使えないのだから、やっぱり腕を使わないで出来る仕事をしたほうがいいんじゃないか」というふうにおっしゃっていただいて、当時は中国語の通訳が少なかったので、英語ではなく中国語の通訳を目指すことになりました。中国語の通訳専門学校で3年ほど勉強して、卒業後は貿易部で通訳の仕事に就いて、北京市に駐在することも経験しました。中国へ行ったこともまた一つの転機だったと思うのですが、中国は当時、やはり日本よりまだまだ生活水準は高くなく、それでも家族が助け合いながら一生懸命働いている姿を見て、私自身も「自分がどう幸せになりたいのかということを考えなければいけないんだ」と思いました。その当時は「就職できてちょっとラッキーだった」とか「一人でとにかく生活が出来るようになって、良かった」と思うだけで、自分自身がその自分の生き方についてそれほど主体性を持って生きていたわけではなかったので、「やはりもっと自分自身がどうありたいかを考えなければいけないんだな」と気づかされました。ただ、やはり人は幸せになろうと思ったからなれるものではないし、そう思ってなれる幸せってそれほどのものでもないんですよね。そのことを自分が当時すごく考えたので、後で考えるとなんか安易だったなと思うのですが、そう思い会社を辞めたのです。「もっと自分がどうしたいかっていうことを真剣に考えたい」とか言って、1年くらいロシアや中国、欧州など放浪の旅に出ました。

 今日このように個人的な話を人前ですることは初めてで、少し戸惑うところも自分の中であるのですが、人から見ると多分とても大変だったんだなという感想を持たれるかもしれません。けれども、私自身はとにかくあっという間に今日まできてしまったという気持ちなのです。ただ、その中で確かに薬害に遭うとか障害が重いとか、両親や家族が離ればなれになったとか、それ自体はすごく理不尽で、やはり、それは不幸と言っていいと思うのです。けれども、私自身が一番深く考えたのは、そのことに振り回されるより、もっと私自身がどんな自分かをすごく知りたかったのです。例えばどんな本を読んで感動するのか、どんなふうに恋をするのか、どんなものが好きなのか、どんな自分でありたいのか、ということを見つけたくて仕方がなかったわけです。障害を持った人のいろんな本が出版されていると思うのですが、そのような本を読むのが好きではありません。なぜかというと、そこに描かれている障害を持った人というのは、普通の人にとって「こうであってほしい」という障害者が描かれているだけなのです。私の印象かもしれませんが、ある種それは障害のない人にとっての癒しであって、本当に障害を持っている人が「『こうであってほしい』と思っているわけではないのでは」と感じているからです。なぜなら、私自身が障害を克服するとか、障害を持っていても頑張るということをそれほど立派なことだとは思っていなくて、それを美化するということは他者だから出来ることで、本当に自分に障害があったり、病気があったりすれば、それは本当につらいことです。それを受け入れるということがどれだけ難しいかを知らないから、簡単にそう思うわけで、どんな人にも本当にこれ以上自分は続けられないという瞬間は必ずあるはずなのです。できれば、どれだけ苦しみながら、それを受け入れるかということ、闘っているのかというところを見てほしいのです。また、そのために何かできるかというと、人が出来ることは本当に限られているので、何かの行動を起こせなくても私はいいと思うのですが、ただそんなふうに生を受けた事実と、やはり向き合ってみてほしいと思っています。

 時間が少し無くなってきたのですが、私と同じようにサリドマイド被害を受けた母のことを話します。

 母は1999年にガンで亡くなりました。父が私を育てられなくなって私は父方の親戚に預けられ、兄は母方の親戚に預けられました。それからは家族の誰とも連絡を取りませんでした。居場所を知らなかったのですから、取れなかったというほうが正しいですね。雪のない正月を何度も小さな部屋で迎えました。

 26歳のときでした。夏が終わり、季節は秋に向かっていて彼岸花が咲き始めていました。親戚から父の危篤を知らせる電話がきました。驚くことに、父は私が住んでいた同じ沿線の先に住んでいました。何十年ぶりかで父に再会するのですが、父はあっと言う間に亡くなって、自分はよくよく家族とは縁がないと思いました。が、父の葬儀の後で母や兄が親戚つてに私を引き取りたいと申し出てきました。母とは小学校の低学年の時に別れたっきりです。私は既に成人していましたし、就職もして東京で暮らしていたので、再会はしましたが帰郷の際に話をするだけで、これまでのつらかった日々を思うと、今になって温かい言葉を掛けられたところで、母を慕う気持ちになれませんでした。そんなとき母は定期検診でガンが見つかりました。ガンと宣告を受けた母は呆然として、私に泣きながら電話をかけてきました。母はすごく健康な人だったので、これまで大病はしたことがなく、病気に戸惑い、すごく苦しんでいました。私は看病のため帰郷しました。ぎこちなかった母との関係が徐々に修復されていきました。それでいろいろ話をするようになりました。それまであまり自分が生まれた当時の話とか、私がサリドマイドに生まれてきたことをどう思ったか、そういう話はほとんどすることがありませんでした。母はすごく「からから」とした人で、「私がこういうふうに生まれてどうだったの」とかと聞いても「まぁ別にたいしたこと無いよ」という「あっさりした」反応しかしなかったのです。けれども病状が悪化して、だんだん体が動かなくなって、点滴とか、モルヒネなどの痛み止めを注射するんですが、そうなると意識が混濁するのか自分でコントロール出来ないのか、多分今言わなければ言えないのではないかと思ったか、私が生まれたときのことを何度も言っていました。「こういう体で産んでしまい、ほんとうにすまなかった」と、何度も、何度も私に謝るのです。私自身はずっと母が「そんなに気にしてない」と言っていたものだから、母がそんなにそのことで苦しんでいたことを全然知りませんでした。どうしてもっと早くそのことを言ってくれなかったのかなと思いましたが、もうほとんどその時には意識が朦朧としていたので、うまく会話が出来ない状況でした。その時に、本当に初めてサリドマイドの被害を受けたことが私自身の問題だけではなく、家族全体の問題であって、一番苦しんできたのは母だったのだということを感じました。サリドマイドに生まれたことを一番後悔した瞬間だったのではないかと思います。

 今日は「サリドマイド被害を受けた私と家族の人生」というテーマで話したので、家族や自分のことについて率直に話をしましたが、何でも打ち明けることが良いと思っているわけではありません。今日いらっしゃる方で病気を持ってらっしゃる人も多いと思います。

 例えばHIV感染者の場合は、自分が感染しているかどうかという話をしない方もいらっしゃると思います。でも私はそれでいいと思っています。「言ったほうが楽になるのではないか」といろいろ思うかもしれませんけれども、やはりその人が障害を持っている、あるいは病気を持って生きているというのは、その人のありかたに深く結びついているものなんです。本当に自分がどうありたいかということを考えた上でのことですので、さっきの障害の話もそうですが、「障害を持っている人が元気に明るくやってくれたらいい」というのは、全く本人の気持ちを理解していない考え方ではないかなと思っています。

 痛みを持って生きている人の心に触れるということを、そう安易に考えないでいただきたいということ、お願いしたいと思います。とりとめもないの話ですが、これで終わりたいと思います。

 質疑応答(写真は当日流された増山氏のビデオより抜粋)

Q:足を使ったり、日常生活のためのこういう訓練はどこでするんですか。

 そうですねぇ、私が小さいときから日本ではそうなのですが、障害を持っている人が自立するということは、自分で何でも出来るっていうこととイコールになっていて、とにかくなにがなんでも自分で出来るようにという訓練を受けてきます。今回はそういう映像はないのですが、例えば、お裁縫なども全部足でやります。サリドマイドは世界に被害者がいるので、世界的にネットワークがありまして、何年かに1回か不定期ですが国際会議があります。その時にいろんな海外の障害を持ったサリドマイドに(サリドマイダーと呼びますが)、向こうのサリドマイダーたちと話をしていろいろ情報交換しています。海外のサリドマイドというのは、すごく不自由なんです。どうしてかというと、海外では障害を持っている人が自立するということは、自分でなんでもできるということではなく、障害を持っていても自分の生きたいように生きる。例えば自分が就きたい職業に就くとか、そのようなことにすごく力を入れていて、自分の生活にはちゃんと介護の方が付いて、フォローしてくれるというそういうシステムができています。おかげで、ほとんど何も自分では出来ない人もいますね。だから、ちょっと日本のサリドマイドは世界の中でも特殊な立場にあると思います。

 サリドマイドはやっぱり薬害だったということもあって、自然発生的には存在しないわけです。だから私たちが生まれる前にサリドマイドはいませんでしたし、日本国内は私たちが生まれた後にサリドマイドが生まれることもありません。

 皆さんすごく興味津々ですね。私の足は左利きで、手は右利きなのです。そういうこともあって、すごく皆さん器用なんです。手みたいでしょ。なんか外国に行くと「日本のサリドマイドは何でそんな器用なのですか」と指摘されます。


Q:(ビデオを見て)台所やキッチンは使い易いように改造しているのですか。

 水道が足元で出来るようになっていて、レバーがあって、ポンとそこを叩くと水が出るようになっています。

 塩とか砂糖は壺に入れているのですが、ねじって開けるのが大変なので、掴んで開ければ使えるようなものにしています。

 工夫していることの一つに、換気扇をボタンで出来るようにしています。これはバリアフリーグッズではなくて、スーパーやホームセンターみたいなところで売っています。

 さっきの障害者の自立ということは、重度の障害を持っている人にとっては、とても大切なことで、日本ではここまで頑張らないと生活出来ないというのは、実際あるわけです。

 私は、今年から横浜で料理教室を開いています。私は料理が好きなのですが、決して上手なわけではありません。障害を持っている人というのが、すごく料理に苦労しているというのを知っていて、いろんな障害を持っている人が集まって、一緒に楽しく料理が出来ないかというのをずっと前から思っていました。それで私自身は誰かに教えてほしかったということがあったので、今自分の出来る範囲内でみんなで楽しくやりましょうという料理教室です。そのときは、私は手でも足でも料理が出来るので、場所は自分の家ではないので、その時は手を使います。料理教室は、例えばどういうことかというと、片手でリンゴをむくにはどうしたらいいかということを、障害を持ってない方が来た場合はその方に、障害を持っている人が来ればその人にやって頂いて、普段どうやってむいてるのと、情報交換するという、そういう料理教室です。

 私はずっと施設で暮らしていたので、実は料理を憶えたというのが学校を出てからの話なのです。初めはめちゃめちゃで「卵焼き作れ」とか言われても、卵をどうやって叩いて、どうやって割っていいかも分かりませんでした。もちろん、旅館なんかは生卵が出てくるのですが、病院などでは割ったまま出てくるので、ほとんど自分でそのようなことやったことがありませんでした。

 私が生活をしていてよく思うのは、どうやってやるという情報を交換する場というのは意外と無くて、みんなそれぞれ苦労して、それぞれ何とか自分の出来る方法を見つけるのです。けれども、それは時間がかかりすぎるので、出来れば、もっとそのようなことがオープンになってくれればよいのですが。ちょっとは抵抗あるんですよ。「こういう風に生活しています」というのをお披露目するっていうのは。でもそういうことはすごく大切じゃないかなと思って、今回は気合いを入れて(ビデオ)作ってみました。

 車は、私たちはまず足で運転するのですが、この後に車を運転しているところの映像入っています。足で運転できる車は特注で、その辺に売っているわけではなく、見本があるわけでもなくて、今はホンダしか作っていません。ホンダ車の改造だけを手がけている会社があって、その会社に相談して自分にあった車を作ってもらってから、車が出来たところでそれを教習所に持ち込んで車の免許を取ります。そのときに、私の車だと全額がちょうど2台分かかってしまうのですが、残念ながらそういう費用に補助は残念ながら全く出ません。だから自分が運転できるか分からないまま、そこまで投資しなければいけない状況があって、なかなか普及しないんです。

 だから、例えばドイツとかヨーロッパでは、そういう福祉車両に対して、改造費に関してはほとんど補助金が出るので、日本ではこの過去20年間で50台ぐらいしか生産されていないのですが、足で運転する車に関しては、ドイツでは1000台以上出ています。それだけ開きがあるというのは、制度の違いじゃないかなと思います。


Q:中国でのサリドマイド被害はあるのですか。

 中国本土ではないのですが、当時日本で薬が回収されて売れなくなったので、日本の企業は台湾に持ち込んで売ったということがあって、台湾でサリドマイドの被害は確か30人ぐらいだったと思います。

 当時『典子は、今』という映画があって、サリドマイドの九州の女の子ですが、その映画が中国語に訳されて放送されたということもあり、中国でサリドマイドはすごい皆さんご存じでした。「あぁー、典子さんね」と「いや、私は違うんです」と言っても「典子さんね」と言われるぐらいサリドマイドは有名で、すごく親切にされました。


Q:このビデオは誰に撮ってもらったんですか。

 夫に頼みました。


Q:こういうことをしていて、足腰は痛くならないんですか。

 やはり負担はかかります。私たちはだんだん中年期になって、そろそろ体のいろんな事が心配になっていて、その二次障害だと思うのですが、腰痛を訴える人が結構増えてきました。

 梨を剥いているところなのですが、丸いものを剥くことはすごく大変で、是非この剥き方だと片手でも剥けるので、参考にと思ってちょっと加えてみた映像なのです。普段こんな感じで梨を剥いています。これ一つ出来ると、リンゴも剥けるようになって、すごく重宝なんです。

 何か質問があれば、是非。私はこだわりのない人なので、何でも聞きたいことがあれば。


Q:一人で何でも出来る支援体制か、それとも何も出来なくても生きていける支援体制かどちらを選びますか。

 はい、ありがとうございます。いい質問です。自己決定権があればいいのではないかなと思います。自分がやはりどういうふうに生きていきたいかということがすごく大事だと思います。自己決定権に関しては、私はあまりこだわりはなくて、私は出来るように教育されたので出来るようになりました。障害を持っている人でもほんとにいろいろあって、自分で自分のことはやりたいという気持ちを持ってらっしゃる人もいるし、日常生活なんかはそれが出来たからどうなんだって思っている人もたくさんいるし、みんな自分がどうしたいかということを基準に考えてもらえればいいかなと思っています。