ハンセン病シンポジウム -元ハンセン病患者の人権は回復されたか- | ネットワーク医療と人権 (MERS)

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ハンセン病シンポジウム -元ハンセン病患者の人権は回復されたか-

MERSイベント2002 報告
ハンセン病シンポジウム -元ハンセン病患者の人権は回復されたか-


【司会進行】
 松浦基夫氏 -市立堺病院  内科医師

【シンポジスト】
 森川重信氏 -大島青松園
 千葉龍夫氏 -退所者
 青木美憲氏 -邑久光明園  医師
 坂本団氏 -ハンセン弁護団  弁護士

本シンポジウムの資料は こちら

 森川重信氏 講演

 香川県高松市の北東、海上8キロのところにあります国立療養所『大島青松園』の森川重信です。今日は私が青松園で体験したことについて話をさせていただきます。

 ハンセン病療養所は全国に国立が13カ所と私立が2カ所あって、現在の入所者数は4千人余りです。『大島青松園』は明治42年に中国・四国の8県連合立として開設され、昭和16年に国立に移管されたのですが、開園以来今年で93年になります。入所者が最も多かったのは昭和20年代の終わりで、730人余りでした。現在はその3分の1以下の200人ちょうどとなっております。平均年齢も75歳近くなりました。

 私が青松園に入園したのは昭和19年10月25日、14歳のときでした。当時は私たちに対する世間の目が特に厳しく冷たかった頃でした。

 まず、強制収容についてお話しします。国は「らい予防法」の規定に基づいて療養所を開設した明治42年から昭和30年くらいまで強制収容を強行し続けました。中には自ら入所した者もおりましたが、それは世間の強い偏見と差別のために、家にいることができなくて、やむを得ず自分から入所したのであって、本質的には強制収容と同じでした。ハンセン病を発病したことがわかると、警察官がやってきて、ほとんどの場合、有無を言わさず強制的に連行されました。農作業中にやって来て、着替えをする時間も、家族と別れを交わす時間も与えられずに連行されたケースもあったようです。

 手錠こそかけられなかったけれど、それは犯罪者の連行と同じでした。その後、家の内外を白くなるほど消毒されましたから、そのことはすぐに近所中に知れ渡って、偏見と差別の強かった当時、残された家族は言いようのない苦しみを強いられることになりました。

 それから当人は列車で護送されるのですが、貸し切りの車両に2、3人とか4、5人とか一緒に乗せられて連れてこられたようです。そして高松港から大島までは園の船には乗せてもらえず、小さな伝馬船に乗せられ園の船に引っ張られてきたそうです。私の妻も昭和8年9月、姉と一緒にその伝馬船に乗せられたそうですが、大島桟橋に着いたときには波のしぶきで着物がびしょ濡れだったそうです。

 その後、園の船に特別に患者席という船室をつくって乗せてもらえるようになりましたが、この入園者と職員の船室が別々ということは、昭和50年代まで続きました。園内でもまた、歴然とした差別が行われていました。私たち入園者地区と職員地区は有刺鉄線と高い板塀で区分されていました。ですから私たちは有刺鉄線の向こうへ足を踏み出すことは許されませんでした。

 また、入園の時に連れてきた健康な子どもたちを収容する保育所という施設がありました。そこの子どもたちと週に1度親子の面会が許されるのですが、それは有刺鉄線越しの面会でした。いくら母親が小さな我が子を抱きしめたいと思っても、それは叶いませんでした。子どもへの品物も直接には渡せず、後で分館へ持って行って消毒をしてから渡すことになっていました。一般の面会も面会室の土間の中央に机が置いてあって、双方から椅子に掛けて話しをすることになっていました。網格子こそ無いけれど、それはまるで刑務所の面会のようでした。

          森川 重信 氏

 当時の私たちの日常生活ですが、24畳の大部屋に12人が雑居生活をしていました。食事もまた相当ひどいものでした。昭和19年といえば、太平洋戦争がいよいよ激しさを増して、日本の敗色が次第に色濃くなってきたときでした。従って一般社会ではいろいろな物資が欠乏して、食糧難は日を追って厳しさを増していました。園の食事はそのひどさに輪をかけたようなものでした。主食の量はまずまずだったのですが、丸麦が70%に米が30%のご飯は当時でもとてもおいしいとは言えませんでした。副食は、朝は野菜の味噌汁、昼は野菜の煮付け、そして夕食は塩だけでした。杯に一杯くらいの塩だけが、1週間分のおかずでした。朝食と昼食の野菜も自分たちで作ったものでした。

 北の山の麓にかなり広い畑があって、自治会はその畑を30人の元気な者に耕作を委託してありました。耕作者はその収穫の10%を自分の物にして、残り90%は自治会へ供出することになっていました。自治会は買い上げた野菜のうち必要量を給食へ提出して、残りは現物のまま順次入園者へ配給していました。

 食糧事情が良くなって、給食へ野菜を提出する必要がなくなった昭和28年にその畑を希望者に配分することになり、希望者を募ったところ、250人余りもいました。あまりにも希望者が多かったので、一人当たり畳6、7枚分くらいの広さになりましたが、それでも新しい楽しみを見つけた一同は野菜作りに精を出しました。

 中でも盛んだったのはスイカづくりで、昭和30年後半の最盛期には1年に8万kgのスイカが採れたと言われています。現在は老齢化と健康の低下のために畑作りを辞める者も多く、また手間のかからない果樹作りに切り替える者も増えています。

 次に園内作業についてですが、国は療養所を開設したときから、維持経費をできるだけ安く上げるために職員の数を極端に減らして、必要な管理作業は安い作業賃で全て入園者にやらせました。病棟や不自由寮の看護を始め、包帯、ガーゼの再生作業、食事運搬、洗濯、理髪から火葬に至るまで50種類くらい、300余りの作業がありました。作業は全て強制、または半強制だったのですが、家から送金のない者がほとんどでしたから、無理を承知で作業をしては多くの者が手や足を痛める羽目になりました。

 特に大変だったのは病棟の看護でした。現在は40人近い看護婦と介護員が当たっていますが、私たちの場合は病室のベッドの一つを介護人用にあて、そこへ布団と日用品を持っていって24時間体制で15日間看護に当たりました。夜は当直の看護婦が一人しかいなくて病棟へは来てくれませんから、注射なども自分たちでやりました。また、現在のようにストレッチャーも車椅子もありませんから、病人を治療棟へ運ぶには一人一人背負って行きました。男の場合はまだいいのですが、小さな女性が背負っていく姿は痛々しくて見ていられませんでした。

 この病棟看護は強制でしたから、1年に3、4回は順番が回ってきました。戦争が終わって、昭和30年頃から職員の数も次第に増えていき、昭和40年代になってやっとこうした管理作業を少しずつ園の方へ変換できるようになりました。そして、ほとんどの作業を変換し終えたのは昭和50年代の終わりでした。

 次に、園内結婚についてお話しします。園内での結婚は早くから行われていたようですが、それには二つの理由があったと思われます。

 その一つは、周囲7キロほどの小さな島で、有刺鉄線の囲いの中で、故郷の肉親とも音信を絶って暮らしている身です。生きていく支えに出来たのは愛情しかなかったと思います。お互いに病む身を寄せ合って、助け合いながら、励まし合いながら生きてきたのでした。そして二人で手を取って納骨堂へ行った夫婦は数え切れません。

 もう一つは、国が結婚を奨励したのです。昔はハンセン病を発病すると家を出て、あるいは出されて各地の神社仏閣などへ集まり放浪生活を余儀なくされました。四国の場合は八十八カ所のお寺を廻ったようです。一般のお遍路さんは一回りすれば家へ帰りますが、ハンセン病の者たちは何回まわっても帰る家はなく、死ぬまで回り続けなくてはなりませんでした。そうなると心が荒れるのは仕方のないことで、喧嘩も多かったようですし、中には悪事をはたらく者さえいたようです。開園当初はそうした者たちを主に強制収容したのですから、園内の空気が良いはずはありません。

 そこで国はその緩和策の一つとして、結婚を奨励したのです。ただし、この結婚には絶対の条件が付いていました。国は子どもを絶対に産ませない方針でしたから、それに従って結婚前、男性に断種手術を強制したのです。これは、人権を無視した本当にひどい話でしたが、当時は黙って従うしかありませんでした。また、園内の結婚は一般社会の幸せな結婚にはほど遠いものでした。結婚した後も、昼間は男性、女性、それぞれ自分の部屋で過ごします。男性が夕食を食べずに、奥さんの部屋へ持っていって、一緒に食べ、夜を過ごした後、朝二人でお茶を飲んで、男性は朝食の時間までに自分の部屋に帰るといった毎日でした。女性の半数くらいは結婚していましたから、夜は24畳の部屋に6組くらいの夫婦と6人くらいの独身者が一緒に寝ていました。何か大事な話をするときは、山や海岸へ二人で行って話しました。

 園内全体が雑居生活でしたから、個人のプライバシーなど問題にされなかった時代で、それは夫婦といえども同じことでした。こうした状態は開園以来、昭和26年まで40年余りも続いていました。昭和26年の春になって、ようやく少数の夫婦寮が建設され、結婚歴の古い者から入居しました。やっとできた二人だけの部屋は、洗面所も流しもトイレもない、4畳半一間の部屋でしたが、二人にとってはどんな豪邸にも負けない素晴らしいもののようでした。

 ようやく人並みの結婚生活がおくれるようになって、みんな結婚していて良かったと心から喜んでいました。夫婦寮はその後も建設され、昭和30年には夫婦全員が入居できました。独身寮もその後24畳の大部屋から12畳定員4名の部屋に改造され、しばらくしてまた個室に改造されました。

 私が結婚したのは昭和29年10月、24歳の時でした。翌30年の4月に妻が中絶手術を受けました。国の力によってこのように産まれてくることを拒否された私の子どもは男の子でした。妻はそれから長い間、手術の日を命日として毎月お供物をして冥福を祈っていました。その2ヶ月後、私も断種手術を受けました。もうその頃には、結婚の条件としての手術は行われていなかったのですが、妻にあんな思いを2度も3度もさせるわけにはいかないと思い、私が手術をする決意をしました。その後で、もう自分は子どもを持つことのできない体になったと思うと、何とも言えない寂しさがこみ上げてきました。この思いは若かったあの頃よりも、年を取った今の方が私の胸に大きくのしかかってきます。

 もしもあの子がこの世に生を受けていたら、今年47歳になるのですが、同じ年の人に会うと、「どんな人間になっていたのかな」とよく思います。妻は昨年11月にこの世を去りましたが、昭和30年からの45年間、二人の間であの子の話が出たことは一度もありません。意識して話さなかった訳ではないのですが、二人とも何となく話したくなかったのだと思います。

 「らい予防法」では外出は認められておりませんでしたが、特別な事情があれば園長の裁量で帰してもらえることがありました。例えば親が亡くなったときや、当人が帰らなければどうしても片づかない話が起きた場合、2~3日から長ければ1週間くらい帰してもらえることがありました。昭和30年頃から、外出制限も次第に緩くなって、外へ買い物へ行ったり、遊びに行けるようにもなりました。

 昭和38年から、園の8人乗りの車を使ってレクリエーションが行われることになったのですが、大きな問題が待っていました。それは7人もの人数がどこから上陸するかということでした。高松や庵治(あじ)の桟橋から上がることなど、とても考えられないときでした。そこで園と自治会の幹部が船で下見に行った結果、庵治半島北端の人家の全くないところから上陸することになり、園の船が小さな伝馬船を引っ張って行って、それで乗り降りをしました。

 なぜこんなことまで、という思いもありましたが、それよりも外へ出られるという喜びが大きかったので、大勢の者が参加しました。翌年は庵治桟橋から上がったのですが、周りの人がみんな仕事の手を止めてこちらをじっと見ているので、身のすくむような思いがしました。ですが、2年、3年と経つうちに慣れてくれたのか、私たちに見向きもしなくなってホッとしました。

 昭和43年、藤楓(とうふう)協会の斡旋でバスが支給されて、「やしま号」と命名されました。そのバスを使って、四国4県だけでなく、中国地方や近畿方面へも行けるようになり、バスレクの楽しみが増えました。現在は3台目のバスがいろいろな方面に活用されています。このバスレクによって私たち自身も外に行くことに慣れたせいだと思うのですが、昭和40年代になって、高松の町へ買い物に行く者が増えてきました。

 それに伴って、様々なトラブルも発生しました。県の当時の予防課へ、「最近、らい患者が町をウロウロしているのをよく見かけるが、どうしたことか」という抗議の電話が何度かあったそうです。また、食堂へ入ると空席があるのに満席だと言って断られたり、店へ入ると品物があるのに「今、品切れです」と言われたり、お釣りの硬貨を上の方から手のひらへポトリと落としてくれたり、というようなことがいろいろあって、本当にイヤな思いもしました。

 しかし、月日が経つにつれ、高松の人たちも私たちに慣れてくれたようで、そうしたことも次第に少なくなって、今では買い物のとき財布の中からお金を取ってくれたり、品物を袋に詰めてくれたり、いろいろ親切にしてもらえます。本当に良かったと、一同、心から喜んでおります。

 現在、私たちの最大の関心事というか心配事は、療養所の統廃合が行われて、どこか他の園へ移されるのではないかということです。もうこの年になって、よその園へ行かされるくらいなら、死んだ方がましだと言っている者はたくさんいます。私たちは数十年もの長い間過ごしてきた第2のふるさとであるこの島で、生涯を終えたい。そして2千人余りの先輩たちが眠っている納骨堂へ行って、一緒に眠りたいと願っています。

 先日、この度の裁判の結果を受けて、謝罪のために来園された坂口厚生労働大臣が「皆さんのお気持ちはよくわかりました。皆さんが終生この園で暮らせるようにします。」と約束してくれました。私たちはその約束を信じて、これからの余生を安心しておくりたいと思っています。

 次に、この度の「らい予防法違憲国家賠償訴訟」についてお話します。九州の『菊池恵楓(けいふう)園』と『星塚敬愛園』の13名が熊本地裁へ提訴したのは4年前のことでした。その話を聞いた私は、これまで公にはほとんど取り上げられることのなかったハンセン病のことが裁判という形で問題にされるのは、勝っても負けても大きな意義のあることだと思いました。

 その後来園された九州の弁護士たちから、「大島の皆さんも是非一緒に立ち向かってください」という話がありました。その時見せてもらった、被告国側の準備書類を見て本当に驚きました。そこには強制収容など一切したことがない、強制労働もさせていない等、よくもこんなことが言えたものだということが羅列してありました。怒り心頭に発した私たち60数人が早速原告に加わりました。こうした波は各園にも広がって、原告数は飛躍的に増えていきました。

 そして昨年の5月11日、熊本地裁において私たちが思っていた以上の画期的な勝訴判決が出ました。次いで5月23日、国が控訴を断念してくれたことによって、私たちの勝訴が確定しました。私たちは90年来の胸の支えが降りたような大きな喜びを覚えました。また、無念の思いを抱いて各園の納骨堂へ行った2万3千人余りの先輩たちもこれで安心して眠ってくれることと思います。

 この度の勝訴は、多くの弁護士や支援の方たち、証言に立ってくださった先生方、また裁判のことを大きく正確に取り上げてくれたマスコミなど、多くの力が加わって勝ち取れたものであります。また、裁判史上例がないと言われる出張裁判のために青松園まで来てくれた熊本地裁の杉山裁判長、辞表を懐にして総理に控訴断念を迫ってくれたと聞く坂口厚生労働大臣、私たちの代表8人の話を目に涙を溜めながら真剣に聞いて、決断してくれた小泉総理の人間としての温かさによるものと思っております。もしこの3つの席に別の人が座っていたら、また別の結果が出たのではないかと思います。この度の勝訴によって、90年という長い間奪われ続けてきた人間の尊厳を取り戻すことができたことは、私たちにとって生涯忘れられない大きな感激でした。

 私には以前から願っていることがあります。それは、私が病気になったばかりに長い間肩身の狭い思いに耐えて生きてきた、私の身内の者たちが胸を張って生きてゆける世の中、すなわちハンセン病に対する偏見と差別が完全に消え去った世の中が1日も早く来て欲しいと言うことです。私たちは、これまでそのことに対して精一杯の努力をしてきましたし、これからもまた続けていかなければならないと思っています。

 6年前に「らい予防法」が廃止されて、その日が近づいてくるごとに確信が持てました。また、この度の裁判の結果を受け、その日が一段と早くなったことも実感しています。私はこれからもできるだけ長生きをして、その日が来たことをこの目で確かめてから死にたいものと思っています。会場の皆さんも、今日私の話を聞いていただきましたことをご縁に、ハンセン病に対する偏見と差別の解消にお力を貸していただけますように心からお願いを致しまして、私の話を終わらせていただきます。

 千葉龍夫氏 講演

          千葉 龍夫 氏

 こんにちは。この度、4月28日に大阪の今里に復帰して参りました。私は昭和15年生まれで今年62歳です。ハンセン病にかかったのは、小学校6年の頃で12歳の時でした。その時の状況からお話させていただきます。

 私は布施の生まれで、布施第7小学校で12歳の時、学校の身体検査でハンセン病が判りました。そして、県の担当官やら、いろいろ来られまして、長島愛生園に行かなければならなくなりました。昭和27年、戦後7年当時の話ですが、当時は大阪府そのものが「無らい県運動」をしていて、当時の私にはわかりませんでしたが、大阪にハンセン病・らい患者がいるということは恥であるということで強制収容という形で連れて行かれました。その時に家は真っ白になるまで消毒されました。父親も母親も兄弟もそこには到底住んでおられないという状況にさせられました。大阪から岡山まで貸し切りの貨車で行くのですが、貨車に乗る時にも、私が歩く後ろから母親と県の担当官が消毒をしました。周りで見ている人たちは、どんな恐ろしい病気があるのかと怪訝な目で見ました。とても恥ずかしい嫌な思いをして行きました。

 岡山に着いたら、今度は囚人護送車で虫明(むしあげ)というところまで約1時間半から2時間かけて行きます。大島とは少し違いますが、長島愛生園も島なので、30分ぐらいかけて船で行きます。長島愛生園には二つの療養所があり、青木先生がおられるところは邑久光明園ですが、愛生園と光明園という2つの国立療養所があります。光明園の場合、虫明から手が届くようなところにありますが、長島は若干離れています。ポンポン船でおよそ30分くらいかかります。そこから収容桟橋までくるのですが、降りたときのことは、今でも、もう50年になりますが忘れられないことがあります。

 ちょうど降りたときに、左手の山に納骨堂、その右側に火葬場、その右側に監房、その右側に収容所があり、着いた途端に係の人が来て、「おまえが死んだらあそこへ行くんや、おまえが死んだらあそこで焼かれるんや、おまえがこの中で悪い事したらあの監房に入れられるんやからな。」と、11、12歳の子どもに言うわけです。

 私は何のことか当時はわかりませんでしたが、ただ恐怖を感じました。そのようにして、収容所に連れて行かれたのですが、収容所に着いた途端に今度は裸にされて消毒風呂に入れられました。クレゾールだと思うのですが、体がひりひりして、「ああ、いつ殺されるんかな」という事を感じました。

 一緒にきた母親は、私が大阪に帰ると言いだしたら困ると思ったのか、あるいは職員の人に早く帰れと言われたのかしれませんが、私が消毒風呂に入れられている間に船で帰っていきました。まだ、11、12歳です。母親、肉親が恋しい気持ちが人一倍強い年代です。母親がいなくなって、気が狂わんばかりの思いでした。すぐに追いかけて行きましたが、船は遙か彼方に行ってしまいました。その桟橋で一日中泣き明かしました。

 先ほど森川さんもおっしゃっていましたが、当時は収容所でも、患者が患者を診るという制度でした。皆さんにも見ていただいたらわかりますが、今、私は末梢神経がいかれて、左手の握力がありません。右手は曲がっています。目は肥厚して下がって口も曲がっています。今、目も不自由で、色眼鏡をかけているのは眩しいからですが、視力も左が0.1、右が0.04で、夜になるとほとんど勘で歩くような状況です。社会復帰して今里のマンションを借りて生活していますが、来たばかりの時は段差がわからなくて転げて怪我しそうな事もありました。それくらい目も不自由です。左足は義足ですが、これも傷をこじらして、結果的に昭和58年に切断しました。

 みな強制労働させられたり、重労働した結果、このようになりました。私は今、というより、ずっとそうなのですが、病気であるために強制収容させられて強制隔離させられて撲滅されるということに関して、とても憤りをもっていました。病気をすることが悪いことであるならば、世界中の人間、病気にならない人は誰もいないわけですし、そういった不条理をとても感じていました。なんとかこの長島愛生園から逃れることはできないか、何回も逃走を試みることがありました。

 長島愛生園で当時そのような形で母親と苦しい、切ない別れをしたのですが、愛生園に入り、昭和27年頃、ちょうど少年舎がありました。子ども専用の病舎で70~80人くらいいました。5歳から18歳までが少年舎です。みんな、自炊していました。当時食料不足でしたから、小さい子どもに全て負荷がかかりました。小さいものほど病気も悪くなりました。先輩が年下をかばう余裕がないわけです。

 例えば、少年舎では8畳ほどの部屋が1舎に4,5つあり、一部屋を4人で使う。飯ごう当番があり、長島愛生園は山坂が多いので、20人分か30人分のみそ汁とご飯を飯ごうに入れて山の下から上の方まで上がって行くわけです。すごい重労働です。私は当時12歳でしたが、これをやらされるのが本当にいやでした。食べ物がありませんから、自分たちで周りの畑を開墾して野菜や果物を作ったりしました。肥たご(こえたご)をかついで二人でいくのですが、肥を担ぐのでも山坂になると互い違いになる。上に居る人は楽ですが、下の人は肥をかけられるかたちになります。そんなことを子どもにさせて、大人も全員見て見ぬふりをしていました。

 私が昭和27年に行ったときは戦後7、8年でしたが、それでもそうした状況でした。なんとかこの島から抜け出して、お父さん、お母さんに会いたいという思いも強かったので、そういうことばっかり考えていました。家に帰りたいときは帰省願いを出すのですが、絶対に出してくれませんでした。そんなときは、父親や母親を危篤にさせるのです。手紙で「おかあちゃん、電報を打ってくれ。チチキトクハハキトクって電報打ってくれ」って。このように何回か父親や母親を嘘ですが殺しかけたことがあります。らい予防法がありましたから、そうしないと家に帰れなかった。それでもなんとか帰りたい。

 ハンセン病は風邪よりも感染力がないということは当時でもわかっていたのです。ただ、末梢神経がいかれているので、口がゆがんだり、見た目に悪いものですから、忌み嫌われました。また、長島愛生園では、初代園長光田健輔は医者ですが、彼は私たちを集めて、「おまえたちは『ざしきぶた』だから、ざしきぶたはざしきぶたのような生活をしなさい」と言う。私たちは人間じゃないわけです。そのことが子ども心に悔しくて悔しくてしょうがなかった。みんな、そういう風に人間じゃないと思わされてきたのです。

 先ほど森川さんも言われましたけど、その中で結婚を奨励されて、結婚した人もいますが、みんな逃走を防ぐために結婚を奨励したのです。好きな人ができれば、その人のためを思って、どちらかが逃走をあきらめるだろう、そうした政策にのせられた面もあります。ただ、結婚するためには断種、堕胎ということが約束でしたから、私の場合はそれにはやはり人間としてのプライドがありましたから、結婚には踏み切らなかった。でも、残念は残念です。自由が一切なかったですから。

 私はこの裁判が終わり、40年ぶりくらいに母親を捜しあて会えましたが、当時中学校の時一時帰省したときに、大阪で母親が「てっちり」を食べに連れて行ってくれたとき、母親の愛情をものすごく感じました。私がハンセンになっても、やはり自分が生んだ子どもだと。私は7人兄弟ですが、そのてっちり屋で、「龍夫、この5本のどの指噛んでも痛いんやで。お前が病気であっても、兄弟みんな同じようにかわいい。」そういって私を抱きしめてくれた事がずっと忘れられなくて、何とか親孝行したいという思いがありました。父親は私が二十歳の時に亡くなります。7人兄弟で、上は男4人、下は女3人ですが、ちょうどその時母親が私にこう言いました。「おまえはもう家に帰ってくるな。おまえが帰ってくれば、妹や弟は結婚も出来ないよ。」めちゃくちゃ悔しい思いでしたが、事情がわかりました。

 それから私は40年も母親と会うことはありませんでした。それでも経済的に母親に楽させてあげれば、私を受け入れてくれるんじゃないだろうかという思いで、長島愛生園から何回も逃走を試みました。実際には無断外出ですが、逃走と言われていました。私は平成5年に長島愛生園に帰ってきましたが、外へ出て、始め私は学力もなく手に職もありませんから、最初は港湾労働や土方などきつい仕事しかできませんでした。そうした無理をしたため、後遺症が増して昭和58年には結果的に左足切断になりました。

 それでも、なんとか経済力をつけて母親を楽にさせてあげたいという思いがありましたが、悪循環が巡り巡って少し良くなれば傷をつくったり、ハンセンが騒いだりしました。結果的に平成5年に帰ってくるわけですが、私は外で20数年生活してきましたが、その時にもハンセン病だということを言えませんでした。らい予防法があるために言えば通報されるので、ハンセン病のことは絶対に口に出しませんでした。私の場合、後遺症がかなり進んでいましたので、原爆に遭われた人には非常に申し訳ありませんが、「原爆症である」と嘘をついて世間の目を欺いていました。そういう風にしか生きて来られなかったのです。

 最初出た頃は、重労働では体がめげるので、やくざになろうと思いました。やくざでもうまく行かなかったのですが、当初は梅田の地下でテキ屋をやっていたことがあります。「ひめうずら」という、うずらのひよこを売っていたことがあります。もちろんそういう商売をしてはいけないところです。それでも、やくざの親分に子分にしてもらおうという気持ちでした。好かれよう、そういう道に入ろうと努力しましたが、やくざでさえ私を受け入れてくれませんでした。

 仕方なしに、やくざから逃れて東京へ行きました。何のあてもありませんでした。力仕事でなければ何でもやろうと新聞の拡張員もしました。最終的には何十年も新聞の拡張をしましたが、アウトローでしか生きていけないわけです。学力もなく手に職もなく、そういうときでもハンセン病を言えませんでした。今から考えたら本当に悔しいです。

 2002年4月28日に社会復帰して、今私が思うことは、これからはハンセンのことは絶対隠さない、絶対正々堂々と病気のことは言っていこう、公開していこうと思いました。病気になったということが罪であるならば、世の中の人間みんな罪だと思うのです。病気にならない人は誰一人いないと思います。

 今日はネットワーク医療と人権の招待を受けてこうして話をさせていただいていますが、ハンセンが恐ろしい感染力のある病気だとしても、それで人権がなくなっていいものでしょうか。これは私ではなく、ある人が言っていたことです。確かに私はそうだと思います。どんな恐ろしい病気であっても、その人の人格は失われていいわけがないと思います。

 だから、私は社会復帰してから、自分が50年間も国の誤った政策で強制隔離されてきたことは公にしていきたいと思っています。この裁判に勝った時に思わず言いました。マスコミ、皆さんの前で、「ああ、これで人間らしい生活ができる、人間らしく生きていけるかな。」そう思いました。道はまだまだ険しいとは思いますが、病気であったことは恥ではないと思っています。恥であると思わされてきました。これからは人間としての誇りを持って生きていきたいと思っています。

 今は母親に40年ぶりに再会できました。最初、母親は私を見てすごく戸惑っていました。母親は私を捨てたという思いがありましたから、最初の会話はぎくしゃくしてどうにもなりませんでした。私も母親に捨てられたという思いがありましたから、わだかまりもありましたけど、それでも、会えば涙が流れてしょうがなかったです。母親も7人も子どもを抱えて女手一つで今まできたので、もう会った瞬間に私はすぐにわかりました。やっぱり親子だなと思いました。もう、母親は私を捜すに捜せない状況にあったわけです。そのことがよく分かって、私が裁判で勝ち取った少ないお金ですが、それで母親を経済的に楽にさせてあげられればいいなという思いもありましたし、少しでも親孝行したいと。今母親は80歳ですが、残り少ない人生を少しでも孝行ができればいいなと思っています。

 今、私は今里に住んでいます。母親は今、八尾です。近鉄沿線で、約10分くらいで行き来が出来ます。私は在日ですので、小さいときに母親が作ってくれたキムチやナムルなど、朝鮮料理が食べたくて仕方がなかったです。今帰ってきて、母親が時々そういうものを作ってきてくれます。嬉しくて嬉しくてしようがないです。ただ、いろいろ経済的にまだまだ大変なこともありまして、私がある程度援助しなければならないですが、それでも、そういう状況があるということが私としたら良かったと思います。

 「薬害エイズ」の被害者の方で、世の中の偏見差別を受けている人もたくさんおられますが、病気であるということに対する偏見差別を絶対なくしていかないといけないと思います。国の間違った法律を許してはいけない。そのために、私はこのような下手な話をこれからもしていきたいと思っています。聞き苦しいところがあったかもしれませんが、あとで坂本先生からもフォローはしてもらえるでしょうが、質問等ありましたら是非お聞き下さい。今日はここで話を終わらせていただきたいと思います。ありがとうございました。

 ハンセン弁護団 坂本団氏

 日本のハンセン病政策がどういう流れで行われてきたのか、その中でハンセン病に関する法制がどういう役割を果たしてきたのかについて、歴史的に簡単にお話し致します。

 日本に於ける最初のハンセン病政策は、1907年(明治40年)『らい予防に関する件』という法律が制定されました。この法律は、一応感染症対策立法の形を取っていますが、実は感染症対策と言うより、これから目指す世界の一流国として恥ずかしくないためにつくられたものでした。当時ハンセン病は「呪われた病気」「汚らわしい病気」とされていましたから、そういう病気の人が路上で寝ていたり、或いは四国八十八カ所巡りをしていたり、或いは神社や川原に集落をつくって住んでいたりすることは、文明大国になろうとしている日本としては恥ずかしいことであると考えられていました。そのためハンセン病患者は、施設の中に閉じこめて、人の目に触れないようにするのが良いのではないかということで『らい予防法』がつくられたのです。

 最初『らい予防法』が対象としていたのは、世話をする者もなく路上生活となった療養の途なき者だけを施設に収容していました。強制的に収容するために「これは感染症である」と言っていたのです。1930年(昭和5年)になって、当時の内務省(現・厚生労働省)は『らいの根絶策』を発表します。今までは「療養の途なき者」という規定でしたが、「そもそも日本の中にハンセン病の者が存在すること自体いかんのである」というふうに方針を徹底させ、日本に存在する全てのハンセン病患者を施設に収容するという『絶対隔離絶滅政策』を発表して、それに基づいて1931年に『らい予防法』を制定します。この法律では、前の『らい予防に関する件』にあった「療養の途なき者を対象とするだけでなく、ハンセン病の全ての患者を対象に施設に入所させる」とされます。

 この1930年という年は非常に意味のある年で、世界的に見ると、国連の「らい委員会」で「ハンセン病患者の中でも、他人に感染させる可能性のある患者もいれば、らい菌を体外に排出していない患者もいるようだ」ということが明らかになり、「隔離する必要があるのは感染の可能性のある患者だけで、それ以外の患者を隔離するのは全く意味がない」ということが宣言された年であります。この当時、ハワイは非常にハンセン病が流行していた地域でありました。19世紀の終わりくらいから、ハワイのモロカイ島という小島にハンセン病療養所をつくり、そこに全てのハンセン病患者を隔離するという、後に日本が行ったような政策をとっていたのですが、このハワイでも1930年頃に「全員を隔離することは意味がない」とされました。従って世界では、ハンセン病患者を孤島の施設に強制的に収容するといった政策がおよそなくなった年であります。この年に日本は、何故か敢えて全てのハンセン病患者を施設に収容するという政策をとって、翌年それに根拠を与える法律をつくりました。この旧『らい予防法』を制定した以降、国はますますハンセン病患者を施設に収容するという運動を進め、1940年頃、全国の都道府県に『無らい県運動』を徹底してやるようにと指示します。それに基づいて、第二次大戦中も患者狩りがずっと行われていました。1945年に日本は敗戦し、1947年、人権についていろいろ美しく宣言している『日本国憲法』が制定されます。そこで医学的に何の根拠もないハンセン病政策は転換を遂げるべきだったわけですが、日本は何故かそこでも反対の道を辿ります。

 一つは、1948年の『優生保護法』の制定です。断種堕胎も法律上何の根拠もなく、何となく行われてきたことで、しかしこれも憲法制定後改正されるどころか反対の道を辿ります。「法律の根拠もなく人権侵害がされているというのであれば、法律の根拠を与えよう」ということになり、1948年「ハンセン病患者に対する優生手術をしてもよい」ということが法律で制定されます。さらにその頃厚生省は、全国のハンセン病患者に対する調査を行い、結果ハンセン病患者は全国には1万3千人ほどいるとされ、その患者の全てを収容させるべく対策を取りました。それが1950年に発表されたのです。

 その翌1951年、国会で「三園長発言」というのが出されます。全国のハンセン病療養所の中から3人の園長、光田健輔、宮崎松記、林芳信が、「ハンセン病というのは恐ろしい感染病であるから、もっと隔離政策を徹底しなければならない」、或いはハンセン病患者を古畳に例え、「古畳は叩けば叩くほど埃が出る。隔離政策を徹底すればするほど出てくるであろう」といったことを発言したのです。これを受けて、1953年、この当時は既に特効薬もできて、世界的にはあらゆるハンセン病患者を隔離する必要はないとされてきた時期であるのに、日本では新『らい予防法』を制定して、全てのハンセン病患者を施設に収容することを継続しました。新『らい予防法』には、罰則をもって強制する外出制限の規定があるのに、病気が治って退所するときについての規定はなく、入所したら死ぬまでそこにいてもらうというものでした。こういった法律がずっと継続し、1996年にようやく廃止となりました。世界でも特異な日本のハンセン病政策に国の力で法的根拠を与え、それによって差別や偏見が強まり、社会の中に根強い偏見を与えた原因になったのです。

 質疑応答

         松浦 基夫 氏

松浦(司会):
 
らい予防法廃止ということがきっかけになって、ハンセン病を巡る状況は大分変わったと思います。おそらく千葉さんの場合も、こういう国賠訴訟勝訴ということをきっかけに園から出ようと決意されたのだと思いますし、森川さんの場合は園にずっと暮らしたいということですが、やはり二つの出来事の影響はかなりあったのではないかと思います。その辺のことを少しお聞かせ願いますか。つまり、らい予防法廃止と国賠訴訟勝訴によって何がどう変わったかということです。お願いします。

千葉:
 先ほども言いましたが、私個人、森川さん、病気になった人もそうですが、一番の被害者はやはり家族・親戚・縁者です。私の場合は大阪に帰ってきましたが、まだひとり、九州に嫁いだ妹がいますが、連絡がとれません。親戚は大阪にいっぱいいます。私が帰ってきているということは、テレビやラジオ・新聞等で分かっています。私は住所も知らせていますし。それでも、まだ、訪ねてこられないような状況なんです。やはり、怖いのだと思います。親戚でさえ来られない、というのは、それはやはり痛みを感じているから来られないと思うのです。はかりしれません。森川さんも私もそうですが、人生そのものを奪われてきたわけですから、人間じゃなかったわけですから。私は裁判に勝ったときに思わず「これで人間になれる、人間として生きていける」と言いましたが、ある種、強がりでもあるわけです。そういうふうに思いたい、そうならんといけない、という願望的なもので、それぐらい人間として生きて来られなかったのです。だから本当に悔しいです。お隣にお医者さんの青木先生がおられますが、本当に医者に対して不信感があります。初代園長の光田健輔他何名かの権威ある医者が国会で語り、世間を語ってこの偏見差別を生んだ訳ですから。一握りの力ある医者が、何万人、何十万人もの人を苦しみに陥れたわけですから。偏見差別をこれから除去していくというのは不可能に近い事だと思います。でも、私は生きている限り話していかなければならないと思います。

 私は今から4年前に熊本の原告13人と裁判を始めましたが、私は長島愛生園にいまして、その裁判が始まる前に裁判を起こそうとして右往左往したことがあります。具体的には、神戸弁護士会にも日弁連にもあたったのですが、問題があまりにも大きすぎるということで相手にされなかった。やはり、世の中全体がハンセンに関しては、見ざる・言わざる・聞かざる、何でもふたしてしまえ、今さらそういうものをほじくりだすな、という雰囲気が全体にありました。でも、私は悔しくて悔しくてしようがなかった。私が入った昭和27年には、すでに世界ではハンセン病は恐れるに足りない病気である、隔離しなくてもいい病気であるということはわかっていながら、適切な治療も受けられないような状況に置かれて隔離され、人間的な歪みをつけられたまま、40年も50年もそこに居させられたわけですから、もう、そのことですごく悔しかったのです。だから、裁判を起こして、この思いを晴らさなきゃ気が済まないという思いがありましたが、当時は日弁連でさえ二の足を踏んだのです。

 そうこうしているうちに、熊本の13人が立ってくれて、たまたま西日本の弁護団の徳田靖之弁護士が立ち上がってくれました。当時は13人の原告団に140人の弁護団がつきました。やはり司法の責任を感じる人がその時にいてくれたから現在があるわけです。昭和28年にらい予防法が制定されたときにも、全国の13ある療養所の中で、らい予防法は間違っていると運動もしてくれたわけです。患者が組織あげて闘争したわけです。国と戦ったわけです。その時にはやはり弁護士は付いてくれずに、らい予防法は1996年まで廃止されることはありませんでした。

 今回はたまたま西日本の弁護団がやってくれましたから。その時、私は弁護士を脅したことがあります。どこから見てもこの裁判は負ける裁判じゃない。当時は弁護士でさえ勝てるという感じじゃなかった。理屈は勝てるのですが。今まで国を相手に国賠訴訟で完全に勝ったことはなかったのです。そういうことで弁護士も危惧されていたと思います。私たち原告からすれば、何が何でも勝たなければいけないと思っていましたから、徳田弁護士も瀬戸内の弁護団も脅したことがあります。こんな裁判で負けるようなことがあったら地の果てまで追いかけていくぞ、と。それぐらいの思いがみんなにあったのです。

 でも、あの療養所の中に居た人は50年も60年も閉じこめられているものですから、それが当然の生活になっているのです。例えば、私は4月28日まで長島愛生園にいましたが、そこでは朝5時半に起床です。6時45分になったら朝食です。11時になったら昼食です。4時になったら夕食です。8時が消灯です。こういう生活を否応なしにやらされるわけです。自分の意志でやるのではありません。職員の仕事の時間に合わせて私たちは生活しているわけです。今、夕食4時に食べる人ここにおられます? 絶対いないと思います。夕食4時に食べたら、また7時、8時におやつを食べなくてはどうしようもないでしょ。でも、それが当たり前になっている。それを変えてくれるなと思うくらいに骨身にしみてそういう生活させられてきたものですから、自分が被害を受けたことすら意識できないような状況に立たされているといっても過言ではありません。この病気だと言うことだけでこのようにされる。私は法律で人権を奪われたということに対して小さい頃から反骨精神があり、すごく憤りを感じてきました。園内の仲間のなかでも、ずっと「変なやつだ、おかしいやつだ」と思われてきた人間です。悔しくて悔しくてしようがなかったのです。だから裁判も出来たのです。そういう中で、この奇跡的な勝訴になったのです。もう、嬉しくて嬉しくてしようがなかったです。

 でも、まだまだ国はあいまいにしようとする姿勢があります。先日も厚生労働省に行って来ましたが、進まない問題がたくさんあります。例えば、住宅問題。今、私は自費でマンションを借りて生活しています。本当は国がきちんと住宅補助をしなければならないわけです。謝罪しているわけですから。だから、まだまだ国は心から謝罪しているとは私は思っていません。それも、まだまだ世間が知らない、世間に声が届かないということなのです。皆さんわかっているようで、まだまだわかっていない。わからなくて当然ですが、国はまだまだ私たちを苦しめようとしています。今まで誤った政策をしてきて、また同じ事を繰り返すのです。そういう意味からでも、私はつたない話ですが、皆様に分かっていただけるためにどこでも話していこうと思っています。支離滅裂になりましたが、どうもありがとうございました。

森川:
 
今までと変わっていることは、来園者がすごく増えたということと、来てくれる人の心構えが昔とは全く違ってきているということだと思います。昔は来園者のことを視察者と呼んでいました。そのころ来てくれる人は、離れ小島に生涯収容されているかわいそうな気の毒な人たちを慰めるために来てくれたと思いますが、最近はそうではなくて、ハンセン病というものをはっきり知らないけれど、どういうものか正しく知りたいと思って来ていると思います。特に変わったことは、最近子どもさんたちがたくさん来てくれるようになりました。昔は子どもさんが来てくれるのは皆無でした。今は小学生、中学生、高校生が、20人、30人のグループでよく来てくれます。まだまだ社会の偏見と差別が消えるには時間がかかると思いますが、その点について最近、将来を背負って行く子どもさん達が沢山来てくれるということは、昔と違って大きな期待が持てると思います。昔はハンセン病に対する差別と偏見が消え去るなんてとても考えられなかったが、今はそのうちそういう日が必ず来ると確信できるようになりました。それは本当に大きな事だと思いますし、私達にとってこんなに嬉しいことはありません。外でこういう集会が催されるということも、その効果のひとつではないかと思います。私はそれを期待しています。

会場より(女性):
 
ありがとうございます。私はハンセン病のことはよく分からないので勉強しようと思って来ました。かつては差別を与えている側にいた立場かもしれません。非常に強く反省しています。今日は森川さんと千葉さん、お二人おいでいただいて、ご本人からの話を聞かせてもらうということが、私達無知なものには非常に大きな力を与えてくれますので、感謝申し上げたいと思います。ご高齢にだんだんなって行くわけですが、元気で出来るだけ長生きして、行動してくださるということが先に亡くなられた方々に対する供養でもあるかと思いますので、どうかこれからもお元気でお過ごし下さいますようにお祈り申し上げます。

 次に坂本弁護士にお聞きしたいのですが、先ほど名前を変更したという資料を見せていただいたのですが、日本では安易に姓名を変更することは通常は許されていませんね。例えば、私が結婚しても強制的に夫の名前、どちらかの名前になります。自分が本来もともと持っていた名前を結婚という無関係の行為をしたために奪われてしまうという政策が行われているときに、姓名を変更するということは、戦争中に朝鮮の人々の名前を強制的に改姓させていましたが、同じような行為で行われていたのか、どんな風に名前が変えられたかおたずねしたい。

 もう一つは、森川さん、千葉さんにおたずねしたいのですが、お二人は収容所に閉じこめられて一般の社会から隔離された状態になっていますが、この裁判が勝つ、あるいはそれ以前から政治参加・投票権はどうなっていたのか、きちんと確保されていたのか、たとえ確保されていたとしても、どういう人がどういう政権を持っているかなどの情報はなかなか入ってこないのではないかと思うのですが、その辺をお聞かせ願いたい。

 次に、森川さんは先ほど裁判に勝ったときに小泉首相に対するいささか感謝の念のようなお言葉があったのですが、彼はハンセン病患者の人権を尊重したいということで控訴を断念したのではなくて、自民党の政権を保持したいがためにしたのであって、私は彼に感謝する必要は決してないと思っております。未だに靖国神社に行っている。教科書は一方的に著しい偏向を受けている。現在の国会ですが、有事立法はどうなるか、憲法9条があるにもかかわらず若者たちをこれから戦争に引っ張り出す、誰を敵にするか分からないような法律を作って、それに反すると公務員などには全く罰則はなくて、疎開をしない国民だけに罰則規定を設けている。そういう法案を予定している。また、この大阪市内には太陽が全く見えない、風も通らない不良マンションを全部有効にして建築させようとしている。限りない不法行為を製造しているのが現在の小泉政権だと思います。これを打倒し、著しい危機感をあたえない限り、ハンセン病患者の人権は回復しないのではないか、投票権を持っている私達国民の責任は非常に重大だと思います。以上、意見と質問あわせてお願いします。ありがとうございました。

松浦:
 ありがとうございました。一つ目は氏名を変えたと言うこと。これは青木先生の方が詳しいのではないかと思いますが。

          青木 美憲 氏

青木:
 正式なものではないということです。先ほど偽名と書きましたが、あくまでも仮の名前です。いわゆる、ペンネームのようなものです。

森川:
 姓名を変えた一番大きな理由は、ふるさとの家族に迷惑をかけないためです。本名で園内に暮らしていると、どういう都合で国に伝わるかわからないから、一応名前を変えて、もし名前がわかっても家族に迷惑がかからないようにする。ですから、全員が偽名を使ったわけではないのです。してない人もかなりいます。また、時期によっては園が入園の際に偽名を勧めた時期もあります。最近は偽名から本名に戻す人がかなりいます。

青木:
 園の台帳には本名が載っていますが、これはトップシークレットです。スタッフでも知り得ることの出来ないことです。本名は伏せています。台帳を見られる人は限られています。

森川:
 
選挙の投票券は本名で来ますから本名がわかります。国選選挙の場合は新聞やテレビを通じて情報はかなり入ってきますし、地方選挙の場合は船の上から拡声器で演説しますからわかります。投票権はいつからあったのかはよく知りません。

千葉:
 
ちなみに私は在日ですので、投票権はありません。

会場より(男性):
 
私も在日です。同胞とは思いもしませんでした。出会いというか、胸がつまりました。インドネシアには人権省というのがあるのですが、それがどのような機構なのかを伝える報道がない。例えば、日本に人権省があって機構の働きが地域に及んでいたならどういうことが起こるか。人権問題に関して行政が権力を持って解決する努力をすると思います。常識ですよね。そう考えれば、日本に一番必要とされるのは人権省ではないかと思います。この省があったら、子どもの問題、女性の問題、障害者の問題が行政の権力でもって人権を侵害するものに対して闘うことができます。ここのレベルまで導く展開を開く側にハンセン病の方々や家族の方々が立ってもいいのではないかと思います。なぜなら、当事者のみなさんは身にしみて感じているからです。国籍は関係ありません。こういう運動をマスコミや世論に訴えて、省の設置のために何が必要なのか問う必要があると思います。韓国には去年2月1日、女性省が生まれました。朝日新聞で少し紹介されました。韓国では女性運動がすごいのです。私はいつの日か、日本に女性省が生まれるのではないか、そのような機構・働きをする人たちが公にはなっていませんがあるのではないかと思います。テロや社会不況など、こうした時代にふさわしい国家・機関・機構の設立が今もっとも要求されています。私個人が書いていることですが、交流省や、機構の次元で地球全体を守るための地球生命機能省など。生命というのは人間だけではなく、鳥や海の中の命たちも含みます。こうした機関・機構の働きを視野に入れるべきです。森川さんや千葉さんには、これからいろいろな人と交流されるので、いろんなメッセージを世の中に伝えてほしいと思っています。

会場より(女性):
 
私はハンセン病に興味を持つ前に、長島愛生園で精神科医として何年か通っておられた神谷美恵子さんの著書で「生きがいについて」シリーズが愛読書でした。その中でいろいろなハンセン病患者が紹介されていますが、島日記というのがあって、当時、昭和20年から30年くらいにかけての島の生活や光田健輔さんの様子などがたくさん書いてある部分があります。その中では、光田先生のことを褒めているのです。島の患者から慕われているとか、先生の医学の研究に対する熱意はすごいとか、ある戦争の後などは毎日のように死者が出て解剖があったとか、そのようなことをずっと読んでいると、なぜ3つの園長が集まって国会に隔離政策を提言したのか、いろいろ読んでいるのですがどこにも書いていないのです。なぜ責任を追求されないのか。あれだけ権威であった人たちが、なぜそういう過ちを犯したのかということを知りたいのですが。

会場より(男性):
 
私は1995年から2年間にわたりまして全生園でハンセン病の取材をして、「ひいらぎの檻」という本をつくりました。その後、関西支援連絡会でハンセン病の訴訟支援の方が大事なのではないかと思い、支援し続けてまいりました。瓜谷と申します。神谷さんの本は私も読みました。神谷さんは患者に対して哀れみの心を持っていらしたが、人間として扱っていない。個人として尊重したのではなく、高みに立って、哀れな人たちとしてハンセン病の患者さんたちを憐れんでいた。こういう立場からあの本ができあがったのです。中にでてくる光田健輔は、確かに患者にはいろんな形で対応しています。それも人間の一面でしょう。しかし、それだけをみて、あの当時光田健輔と対応するかたちで小笠原登という人がいました。京都大学の皮膚科の先生で、その人がハンセン病に対して、「忌み嫌われる病気でもないし特別な病気でもない。なぜ絶対的に隔離しなければならないのか」という人がいた状況の中で、なぜ光田健輔なのか。なぜ小笠原登を選ばなかったのか。この辺になりますと、明らかに自分は高みに立ってハンセン病の患者を見下す立場に立っている。ある意味では「光田健輔は慈父のような」とおっしゃるとおりですが、それでいいのか。そういう見方でもってあの本はできあがっておりまして、到底事実ではないとおっしゃることには頭から賛成しかねます。

千葉:
 
私は長島愛生園でしたから、園長の光田健輔はよく知っています。国賠訴訟の裁判は、ある意味で光田健輔を糾弾する裁判でもあったわけです。長島愛生園の近くには虫明という地区がありますが、そこで光田健輔は恐ろしくない病気だとすでにわかっていたにも関わらず、ハンセン病はおそろしい、ハンセンを見つけたら通報しろと一軒残らずしらみつぶしに言っていったわけです。一番偏見差別が残っているのは近くの虫明地区です。この裁判で分かったのですが、遺言としてこのらい予防法・隔離政策をとっていきなさいと遺言として残していったのです。

 たまたまこの裁判をすることによって、NHKからの資料がでてきたのです。そういうことを皆さんは知らないのです。だから小川正子さんにしても、みんな光田健輔を敬愛していました。小川正子さんの本が今問題になっています。教科書に載った事があったことで、各療養所からそれはまずいんじゃないかという意見があったりして取り消しになったこともあります。過去のらい文学は歪められたものです。お涙ちょうだい的なものもありました。変な話ですが、憐れみという点では皇室がかんだということもあげられます。6月25日でしたか、救らいの日というのもありました。貞明(ていめい)皇后でしたか、らい患者を憐れんで慰めようという日にしました。光田健輔は一旦医者として言い出したことを、間違っていても間違っていると言えないような状況だったのではないかと思います。結局光田健輔を糾弾できたから私達は裁判に勝てたのです。糾弾できなければ負けていたと思います。

会場より(男性):
 
ハンセン病の人権回復について、法的措置、国は責任があるという事を裁判では明らかにしましたが、国は今のところ責任をとろうとはしていないという状況です。私達は国民の責任でもあると考えます。全てのひとが自由であるために、私たちは市民として、国民として、人権を奪われた人の回復の為に闘わなければならないと思い、大嫌いだった市民運動に加わりました。最近、日本ハンセン病学会について、医者としておたずねしたいことがあります。周りの医師会がこのハンセン病に対して反応を示したことがあるか。ハンセン病医学会に至っては、「患者に迷惑をかけました。すみません。」と言っただけで、なぜ光田健輔を輩出して、あの政策に従って何もしてこなかったのか。この責任について何も考えていない。療養所の所長に至っても、なぜらい予防法に向き合うことができなかったか明らかにしていない。責任の所在を明らかにしていない。今の医師会にお願いしたい。人工的な生活ネットワークを作る中でハンセン病に対して医者がとってきた態度に責任を感じられるなら、社会復帰をされた方々のカヴァーの為に積極的に援助をしてほしい。また、医療ネットワークを作ってどのような支援をするのか、おたずねしたい。そのような動きはどうなのでしょうか。

松浦:
 一つはらい学会がどういう反省をしているかということと、一般の医師が社会復帰にどういう努力しうるかという二つの問題が指摘されました。

 後者について、一市民病院の医師として、私は協力の要請があればいつでも答えたいと思いますし、実際に例えば千葉さんが私の病院の外来に来られたら、問題なく診療出来ると思います。そういう形での協力はいくらでも可能です。ただ、僕のような立場の医師はごく一部であることは間違いないことで、どこの病院に行っても「はいどうぞ」と受け入れられるかはわかりません。おそらくハンセン病問題に興味を持って関わってきたことで、僕に関しては協力します。

 『らい予防法』改正の時に、医学界そのものが絶対隔離政策を維持する方向で働いた。それ以降40数年にわたって医学界はそれを放置してきて、ようやく1995年『らい予防法』を廃止するべきであるという見解を出したのです。これは、らい、ハンセン病に関わってきた医師の中でどう総括されているのか、青木先生からお願い致します。

青木:
 
古くからハンセン病に関わってきた何人かの医師に、隔離政策について話を聞いても、非常に感覚が鈍いという印象です。最初お話ししましたように、本来医療従事者は被告席に立たされるべきではないかと思います。特にハンセン病学会、昔のらい医学界だとか、医療のしくみを扱う公衆衛生学会、所長連盟などは、絶対責任逃れのできない立場にあると思います。

 ある入園者の方が裁判の終わった後に「所長連盟の責任はどうなのだ」と園長に言われたことがあったそうです。その園長は後で私に「所長連盟は謝罪する必要があるのだろうか」と聞いてきました。こんなことでは本当に情けないとしか言いようがないし、こんなことだから今まで予防法がほったらかしのまま放置されてきたのだろうと思います。そして、法の廃止にしても、責任を曖昧にしたまま中途半端な形での廃止になったのかなと思います。やはり医療に身をおくものが、患者の思いに対して非常に鈍感であり、傲慢であったのではないかと思います。そして、まだそれは解決されていないのかなと思います。

会場より(男性):
 
私は小児科と精神科の医者をしております。薬害エイズの問題にもずっと関わってきました。私が医者として一番感じるのは、医者は病気を診るだけでなく、生活のことについても真剣に考えなければならないのではないかということです。先ほど千葉さんからお話があったように、光田医師の場合は、医者としての権威を大事にしたために、自分自身の医療に対する初心を忘れてしまった、いわゆる専門家意識がついてくるに従って、医者は医者らしく、権威は権威らしくなってきて、だんだん自分を縛っていったのではと思います。

会場より(男性):
 
この問題の真相を究明することは、長きにわたる歴史の中での政策の誤りに関する真相究明ということになります。具体的にどのように真相究明を、どのくらいの規模で行うのか、一定の道筋ができているのでしょうか。

坂本:
 
訴訟において、和解するときに真相究明をするということになりました。それは原告団が求めてきたものですが、国もそれを約束していました。控訴断念から和解までの間に坂口厚生大臣がそのことを国会でも答弁しています。行う枠組みは去年の夏くらいまではできつつあったのです。

 しかし、国というのは転んでもただでは起きないところです。私たちが求めてきた真相究明とは、再発防止という観点でのものでした。厚生省の役人が考えていた真相究明とは、熊本地裁の判決で出された国の責任を、少しでも薄める方向で結論を出してもらうためのものでした。従って人選についても、あまりよくわかっていない人を委員にして、事務方がいろいろ資料も含めて整理をし、厚生省の狙うような結論に持っていくと、厚生省が歴史的にいつもやってきたような、そういう研究班を考えていたのです。原告団、患者の立場からすると、そんな真相究明をされたのでは何のためかわかりません。それを許さないために、その委員会に原告団の代表や弁護団の代表、或いは原告団・弁護団の推薦する歴史学者や医学者を参加させるように運動しました。そういう方向になり、国は委員会に2千万の予算をつけ、調査研究をきちんとしていく、いったんはそういう形で去年の9月くらいに動き始めたかに見えました。しかし、ここでまた国はそれをご破算にして、「こういう形でしてはどうか」という案を年末くらいに急に出してきました。「そうすると、今までの研究班の位置づけはどうなるのだ」という議論をだいぶしました。「そもそも真相究明とは再発防止のためのものなのだ」ということを毎回国との協議会の中で議論をしないといけない状況でした。そこで一応「わかった」ということになっても、次に国が出してくる案はまたよくわかっていないようなもので、一向に前に進まず、もう1年以上も経ちますが、まだ具体的には調査研究は始まっていない状況です。これについてはきちんと監視していないと、「熊本地裁判決は間違っていた」というような結論が出る恐れがないとも言えません。

会場より(男性):
 私はハンセンの問題についてよく知らなかったのですが、皆さんのお話を聞かせていただいて、このハンセンの問題は薬害エイズの問題と、ものすごく重なっていると思いました。

 人から忌み嫌われ差別される病気が発生する、それにどう対応するかというときに、エイズの問題のときでも「ハンセンのように瀬戸内海の島に全部囲ってしまえ」という意見を堂々と言った人がこの時代にもいるのです。それは人の対応として、私たちの中に内在しているのだということを、まずみんな自覚する必要があると思います。

 かつて、血友病治療医が少なく誰も治療してくれる人がいないときに、安部英医師や何人かの医師ががんばりだした。それこそ安部医師をいまだに慈父のように慕っている血友病患者もおられます。その後の経過を何が狂わせていったのか。エイズの経過で見るならば、国は自分たちのやりたい法案を通すために参考人を呼んで、その意向に添った人に発言してもらうという形を取ることが極めて多いです。

 先ほどのお話でもありましたが、療養所の外に出たいと思っている方を囲ってしまうことは良いことではありません。しかし、行くところがなく、園の中で生涯を終えたいと思っている人たちを、あの時点で「大丈夫な病気ですから出てください」ということになっても、果たして国が皆さんの生活を保証できたでしょうか。そうすると、何人かの人たちはまた四国の町をまたお遍路さんしなければならなくなるのではないか。そういった表と裏の部分をどの程度考えていたか、検討されていたか、審議されていたかということをお聞きしたいのですが。

千葉:
 
今のお話は第三者であるから言えることだと思います。私は50年間、人間でなかった。私としたら、この50年、裏も表もないのです。私はこの問題にはやはりマスメディアの責任も大きいと思います。今でもハンセンの問題は何も解決していません。マスコミがもっと社会正義に根ざして取り上げてくれれば解決する問題もあるのです。日本全体が商業ベースにのっている、そういう傾向であるから、このハンセンの問題も90年もの間『らい予防法』が続いたのです。非常に情けないことです。何事も物事には裏表があるということは確かにわかります。しかし、真実を見極めようとしなかった側にもいろいろ問題があるのではないでしょうか。

 控訴断念の時、私は総理と直接お話しました。この裁判は政治的解決になったわけですが、あのとき小泉首相との会見は10分の予定でしたが50分くらいに延びました。私たちの状況を見て、私たちの話を聞いて、総理はずっと泣いていました。あまりにもひどい状況、隔離の実態に言葉を失われていました。そのとき、マスコミでは絶対控訴だと報道していました。しかしその日、小泉総理は私たちに会って、人間として感じたと思うのです。私はそういうふうに思いたいです。だから、ものの1時間もしないうちに控訴を断念したのです。それはあのとき、我々も弁護団も本当は信用できませんでした。

 しかし、まだまだ問題が解決しないのは、やはりマスメディアの力が大きいと思います。

青木:
 
この度こうやって集会が持て、裁判でも良い結果が出ました。これは薬害HIVの裁判が良い結果を出せたことによるものだと思います。HIV裁判でがんばってこられた原告の方、支えてこられた支援の方、弁護士の方に本当に感謝したいと思います。

森川:
 
一つ言っておきたいことがあります。全国原告団の会長は、私と同じ園におられて、全患協(全国ハンセン病患者協議会)運動の先頭に立って20数年やってきた、ものすごく気性の激しい、はっきりと物を言う人です。その人がいつも、今回の国の責任を問うた後でも、「もし療養所がなかったら、私はたぶん生きてこられなかっただろう。確かに国の責任は裁判の結果のようにものすごく大きいものであるけれど、反面そうしたことで感謝の気持ちは持っていたい。」と言われておりました。私もその気持ちに同感致します。