MERS「NPO設立記念イベント」開催報告 | ネットワーク医療と人権 (MERS)

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MERS「NPO設立記念イベント」開催報告

(文責:特定非営利活動法人 ネットワーク医療と人権 事務局長 太田裕治)


 2002年3月16日、大阪天満橋のドーンセンター(大阪府立女性総合センター)において、MERSとしては5回目の主催イベントを開催しました。特に今回のイベントは、MERSがNPO法人格を取得したことを記念して企画したのですが、大阪HIV訴訟を支える会(ビヨンド)にもご協力いただき、HIV関連グッズや書籍販売などでお手伝いいただきました。

 まず、第1部では、当会が進めている調査研究の委員長を務めていただいている関係から、養老孟司氏をお招きして、「現代の医療について思うこと」というテーマで講演していただきました。氏は現在解剖学を専門とし、北里大学(大学院)において学生を指導する立場にあります。例示のわかりやすさや流ちょうな話し方から、聴講者の反響は極めて評判の良いものでした。当日の参加者数は、養老氏の人気も手伝って120名を数え、立ち見の参加者まででる盛況ぶりでした。

 氏はかつて臨床医の経験があり、お話しはその当時の体験を踏まえながら、独自の思考を加味して現代医療システムを分析し、その欠陥やひずみが現れた原因を鋭く指摘した内容でした。氏は、若いときに体験した臨床現場での失敗談を語ったうえで、現代医療の特性として、医師が患者を個性のある人間として診るのではなく、すべてを数値化した情報を見て判断しているところに落とし穴があると指摘しています。「この人はどうしてこんな病気になったのか。」という原因の究明をせずに、目の前に現れた症状を「治す」ということのみに重点が置かれているのが現代の医療だと指摘した上で、患者個人にはその病因となりうるその人それぞれの歴史がある事を無視していると問題提起しました。

 しばしの休憩をはさんで行われた「薬害シンポジウム」では、薬害エイズ、サリドマイド、スモン、薬害ヤコブ病の被害者それぞれが、簡単な経過報告のあと、現状の厳しさを訴え、聴衆に被害救済への理解を呼びかけました。花井十伍氏からは、過去にあった診療拒否に見られる差別実態と500名以上が亡くなった被害の悲惨さが報告されました。さらに、現在の多剤併用療法の苦しさからくる患者の不安を語り、患者の視点に立った医療の必要性を訴えました。サリドマイド、スモンの方々からは、被害から数十年が経過して、治療研究が進まない現状と、被害の悲惨さが忘れ去られ、薬害事件そのものが風化する懸念が表明されました。また、目前に裁判和解を控えた薬害ヤコブ被害者遺族の発言からは、今まさにぎりぎりの折衝を行っている相手方の国(行政)に対する批判を通して、リアルタイムで被害救済運動が展開している状況が伝わってきました。ただ、全体的には各発言者の時間が少なくて、4人のシンポジストは消化不良であったのではないかと我々企画した側は反省しています。

 第2部:シンポジウム『薬害被害者が医療を問う』

【司会進行役】
 加藤高志氏 -大阪HIV訴訟を支える会運動班・弁護士-

【シンポジスト】
 花井十伍氏 -大阪HIV薬害訴訟原告団  代表-
 増山ゆかり氏 -サリドマイド・財団法人いしずえ-
 佐竹美根子氏 -大阪スモンの会  会長・大阪スモン恒久対策センター  理事長-
 倉内美知子氏 -大阪スモンの会  副会長-
 高原和幸氏 -薬害ヤコブ病大津患者家族の会-

本シンポジウムの資料は こちら(2002年3月当時のものです)

加藤:
 第2部シンポジウムを始めさせていただきます。『薬害被害者が医療を問う』というテーマで4人のシンポジストの方にご発言いただきます。

 本日は皆さまご自身の被害の実態、裁判や和解などでは解決しきれない状況などについて、医療の問題と絡めてお話しいただきたいと考えております。

花井:
 私は薬害HIVの被害者として、被害の実態について皆さんにお話いたします。今日は特に『医療と人権』がテーマということですが、薬害HIVの被害者というと、そのほとんどが血友病患者で、医薬品“血液製剤”によってHIVウイルスに感染してしまいました。血友病というのは先天的に血が止まりにくい病気で、日本に5千人ほどしかいない少数の遺伝子疾患なのですが、この患者集団がみまわれた薬害というのが薬害HIVの基本的な問題です。

 私の医療との関わりは、0歳のときに頭にこぶをつくったのですが、それがなかなか治らず、腫れがどんどん大きくなりました。それを近くの医者に診てもらい、これは尋常ではない、おそらく血友病であろうと、専門の医療機関(奈良県立医科大学付属病院)を紹介され、そこで吉田先生という医師にかかりました。そこで遺伝性の血友病であること、治療法はないということ、長く生きられない可能性もあること、親には私が物にぶつけたり、転んだりしないよう注意をすることが告げられました。

 血が止まりにくいのは、血液の中の止血に作用する血液凝固因子の一部がない、若しくは少ないことが原因とされています。治療にはそれらの凝固因子を補う補充療法が考えられます。当時は供血者の方から血液をその場で抜いて、その場で輸血をするということが補充療法として行われていました。ただし、それはかなりリスクのある方法であるので、よっぽどひどいときに行う程度でした。医学というものはたいしたもので、血液を成分ごとに分けることがされてきました。これは一つに軍事物資として、戦争において技術がどんどん良くなりました。血液製剤には生のものと血漿分画製剤の二つがあります。分画製剤とは見た目には薬のような様相です。これは血漿部分からつくるのですが、これが“クリオ製剤”として1960年代の後半に出始めました。血液に関連して薬害エイズが起こったということは、資料の年表を見ていただいても分かると思います。1975年4月30日ベトナム戦争終結ということが、わざわざ薬害エイズの年表に書いてあることがまさにそのことに関連するからです。

 血友病患者は、医師とはずっと関わり続けるわけですが、そのうちそのクリオ製剤から濃縮血液製剤というものが1970年代の後半くらいから登場します。この頃になりますと、自己注射といって、家庭内で血液製剤を注射するということも行われるようになってきます。正式には1980年代初頭になりますが。この頃から、アメリカで原因不明の免疫不全になる奇病が流行っていると言われだしました。濃縮製剤というのは、たくさんの原料血漿を大きなプールにまとめて、ここから必要な血液凝固因子を抽出するという製法です。血液のリスクと医薬品のリスクとの違いは、血液での状態はそれぞれ千差万別です。人から採るので全て違うわけです。病原体など、それぞれ供血者の中にあるリスクを一つにまとめてしまうということになります。これは設計ミスということになると思うのですが、しかしそれよりも濃縮した必要因子を効率的に補充できるという有効性の方に目がいきますし、患者側にしても輸血や点滴よりも自己注射の便利さの方にいったわけです。しかも、それはほとんどアメリカにおける売血を輸入してつくられたものでありました。

 裁判は1989年に提訴して1996年に和解によって一応決着をしていますが、その中で1500人がHIVに感染し、520人が亡くなっています。その間も患者は医療と関わってきたわけですが、死亡者数は1996年から1997年で減っています。1996年は和解の年ですが、この年初めて、効果的にエイズの発症を抑えるには、“HAART(ハート)療法”という、複数の薬を使って治療する方法が有効であるということがバンクーバーでの会議で発表されました。

 1996年に和解をしたおかげで、患者がHIV医療をつくっていこうという流れになって、厚生省と協議をしながらの医療制度改革等、いろいろとやってきました。その過程でわかった事は、今の医療が患者の視線に立って作られていないということです。例えば、レセプト公開は現在当然とされていますが、患者側が良いと感じる医療はぜんぜんお金にならないという構造があって、患者の理想とする医療をつくろうとすると、今の制度とは全く合わないということがよくわかってきました。それでも何とか制度を整えて、死亡者数は下降線をたどる方向へ向かいました。このときからHIV医療は国策として進行していったし、ある程度医療の正常化が行われてきました。それまでは、マスコミ報道の問題もありますが、「エイズ」という言葉に対するいわれのない差別で、患者の生活に大きな影響を与えました。医療機関での診療拒否、あるいは診療を行おうとする医師が病院から差別されるという状況がありました。制度としてのエイズ医療というのは、日本ではおそらく1996年以降にきちんと整備されていったと思われます。幸いにこのようにして現在エイズの発症は抑えられてきたのですが、実は同じ血液製剤でC型肝炎、B型肝炎にほとんどのHIV患者が感染していて、肝炎で亡くなる患者が非常に増えてきております。私も薬は6種類飲んでいますが、こういった「劇薬」といわれる薬を一生飲み続けることがどういう結果をうむかというのは誰もまだ見たことがありません。薬害に遭っていながら薬を飲みつづけるというのは何だろうと思いながら、多くの被害者は生きたいという気持ちを持って闘病しています。以上がHIVの現状です。

加藤:
 続きましてサリドマイド被害についてお話いただきます。サリドマイドという言葉は聞いたことはあっても、その経過内容についてはご存知ない方もいらっしゃるかと思います。

 簡単に申しますと、1950年代末から1970年代初めにかけて、その頃販売されていた“サリドマイド”という製剤を含有する睡眠薬や胃腸薬を使用された方の被害、特に妊娠初期に母親が服用し、それによって生まれてきた子供に生じた被害というのが日本ではかなり多いと言われています。それでは増山さんの方からお話をよろしくお願いします。

         増山 ゆかり 氏

増山:
 現在、私は財団法人いしずえの仕事を手伝っています。ここは薬害サリドマイド被害者のための福祉センターです。

 サリドマイド被害というのは今から40年くらい前になりますので、どういった障害であるのか、どういった経緯で薬害事件になったのかということは結構知らない方が多くて、だんだんと忘れ去られようとしているのだと、少し危機を感じています。

 サリドマイドはもともとは西ドイツで睡眠薬として開発された薬です。何故睡眠薬でこれほど多くの被害を出したのかということを私も以前から不思議に思っていたのですが、最近読んだ本によりますと、この薬がつくられた1957年というのは世界情勢が非常に不安定であったので、「薬を飲んでぐっすり休んで元気な体を」ということを奨励した時期であったそうです。西ドイツの生存被害者は日本の10倍の3千人と言われています。意外と知られていないことは、サリドマイドは死亡率の高かった薬害で、大体30%~50%くらいの人しか助からなかったのではないかと言われています。というのは、私を見ていただいてもわかるように、サリドマイド被害というのは手などに奇形があります。これはどういう作用によって起こるのかといいますと、毛細血管や体の細胞の成長を妨げる働きをサリドマイド剤は持っていて、その結果手が育つことができずに産まれてきてしまうのです。その作用は体内のあらゆるところに起きるので、あまり知られていませんが、骨格や心臓に奇形があったり、胃腸など消化器系のさまざまな部位に閉塞・狭窄も見られました。このような重篤な内部障害がある場合は、ほとんどが流産や死産となって生まれてくることもできませんでした。

 また生まれたとして、そこでも多くの人が亡くなりました。というのは、手足の欠損が著しいと体温調整ができないからです。手足は皮膚で呼吸をしているので、それが十分に行えないということは体に大きな影響を与えます。サリドマイド児にとって体力があまりない幼児期を無事乗り切ることは大変なことでした。ヨーロッパでは2、3歳までしか生きられなかった人がかなりいたと聞いています。

 ところで、日本のサリドマイド児は他の国の被害者と比較すると障害的には軽いという印象を私は持っています。サリドマイドの国際会議で海外のサリドマイドと会ったときに、手も足もない方が結構いらっしゃって私はとても驚きました。このことをレンツ先生にお会いしたときに聞いたのですが、日本では継続して服用されることが少ない胃腸薬によってサリドマイド被害が広まったのに対して、ヨーロッパでは服用頻度が高い睡眠薬にサリドマイド剤が調合されたことが、被害の程度に影響を及ぼしたのではないかとおっしゃっていました。

 しかし、私は日本には更に特殊な事情があったのではないかと考えています。

 40年前の日本は、これほどひどい奇形児が生まれてしまうと、衰弱死させて闇に葬っていたのではないかと想像しています。というのは、サリドマイド被害の親たちの中には、「お子さんをどうしますか」と医師に聞かれたという話が数多く残っているからです。つまり、子どもの処置について、どうしたいかと聞かれていたのです。奇形児に対する差別や偏見が強く、福祉制度も整っていなかった当時の日本を思えば、子どものためということなのかも知れませんが。絶対に育てたいとがんばった方たちの声しか残っていないので、実際どれだけのサリドマイド児がこのようなかたちで犠牲になったのかわかりません。被害者数など詳しくはお配りした資料をご覧下さい。

 この薬の危険性を最初に発表したのはドイツの医者で、この方は小児科医でもありましたが遺伝学者でもあり、この方のお父さんも遺伝学者でした。ですから、いろいろな奇形児に対する知識があり、サリドマイドを最初に見たときに、「かなり似たような症例のものを診たことがあったけれど、何がおかしいと思ったかといえば、あまりにも数が多い。これはおそらく遺伝で起こる千倍くらいの勢いで奇形児が生まれている。これは間違いなく遺伝病ではない」と感じられたと言われています。それで徹底的に調べ、最終的にこの薬が原因であることを突き止めた方です。裁判では、それを証明できるのかと詰め寄られたようです。当時ドイツは東西に分かれていました。東ドイツは西ドイツのつくったこの薬を輸入しなかったのです。それで東ドイツでは被害者が生まれていません。「なぜこれがウイルスではないと言い切れるのか」と聞かれたとき、その先生はすごく冷静な方で、「では何故ウイルスであればベルリンの壁を越えられなかったのだ」とそこできっぱり答えられたというエピソードも残っています。

 私自身、今こうして元気なのですが、やはり心臓の方に当時は不整脈があり、随分体質が弱かったので、生後3週間から大体10歳になるまで病院で生活をしました。その中で、多くのサリドマイド児がそうだったのですが、医療機関では「こんな症例は扱ったことがない」と受け入れを拒否していました。収容先がなくて、私は生まれたのは北海道なのですが、長い間東京で生活をしていました。私のまわりには何人か親元を離れて病院や施設で暮らしていたサリドマイド児がいて、ほとんどの人が親の顔も覚えていないという状態で暮らしてきました。何が一番辛かったかと言えば、「先天性なのでその苦しさは克服できているのではないか」と周りの医師は思われていたかもしれませんが、私自身は「薬でこうなったのだから、薬で治るはずだ」と根強く思っていました。それで医師に「何とか治して下さい。」と何度も抗議したのですが、今になって思えば、その医師も困っただろうと思います。

 ちょうどこの裁判が和解したのが10歳のときです。和解まで10年、人間が成長する一番大事なときに何の保障もなかったのです。多くの親たちが育てることだけで精いっぱいで、その時期が一番大変であったと思います。サリドマイドは関節が未発達なのですが、もう少し手の長いサリドマイドの人は、関節をしっかりさせるため、あるいはその役割を果たせるように随分手術をしている方がいます。それで今問題になっているのが、先ほど花井さんの方からもお話がありましたが、おそらくそのときの輸血でC型肝炎に感染したと思われる方が何人かいることで、治療が始まっています。

 サリドマイドというのは私たちの前にも後にも起きない障害なので、あまり研究が進んでいません。例えば私が風邪をひいて病院に行っても、サリドマイドだということを主張しないと医者はわかってくれません。サリドマイドの原因は一つですが、症状はいろいろあって、例えば私のような体の人が一般のイメージかと思いますが、中には聴覚障害の方もかなりいて、耳のない人、聞こえない人などが25%くらいいます。サリドマイドの典型的障害というのはなくて、薬を飲んだ時期によって影響を受けるところが違っています。

 最近困っているのは、今の医師はサリドマイドがどういったものか、研究も進んでいないためわからないのです。私は採血するのも大変で、血圧も一度も計ったことがありません。海外のサリドマイド被害者の現在生存者数は5千人くらいで、被害者全体では1万から1万2千人くらいと言われています。彼らの方が障害は重いのですが、一人一人の障害が違うので比較は難しいです。骨がきちんと形成されていないので、椎間板がきちんとなっていなくて、生活の中での無理な姿勢が腰痛や頚椎などの二次障害を生む。こういったことがこれからどれだけ進むのかということが、今問題になっています。

 世の中にこれだけ重い障害を持っているのは、私たちサリドマイド以外にはいません。日本の場合、福祉制度を受ける上でいろんな条件が付いていますが、私たちの場合、それに当てはまる障害がなく、補助を受けることがほとんどできません。福祉制度からこぼれ落ちた障害なのだとよく実感します。医療費も当然自己負担ですし、生活に必要な補助具の助成などもなく、全て自分達でやりくりしなければならないのが現状です。

加藤:
 続いてスモンについてお話いただきたいと思います。スモンとは、キノホルムという成分を含む薬で、日本の場合、それが胃腸薬として販売されていたのですが、その服用を原因とするものです。日本では最大規模の薬害といわれておりまして、この後、薬事法などが改正されました。しかし、結局その経験や法の改正が生かされなかったという事は、その後続発する薬害からも明らかであると思います。

佐竹:
 「大阪スモンの会」佐竹です。私自身も患者で、見た目にはわかりませんが、腰から下が全て痺れていて、何に触れてもさっぱりわからないという状態です。スモンというのは、下痢をしたときや盲腸などの手術後に投薬されましたキノホルムという薬による副作用で、名前の由来は-病名が入る-それぞれの頭文字をとって、SMONという略称で呼ばれるようになりました。日本では亜急性脊髄視神経症という名前です。昭和30年代から40年代にかけて、日本全域にわたり、2万人ともいわれる被害者を出しました。

 スモンの訴訟は昭和54年に大阪地裁でも勝訴しまして、その後20数年、めまぐるしく変わる世情の中ではほとんどが忘れられてしまいました。おそらく今日こちらにいらしていただいている皆様の中にも、スモンをご存知である年代の方はほとんどいらっしゃらないように思います。実際に患者自身の生の声を聞いていただいて、風化してしまったスモンについてご理解いただければと思います。

 本日同席していただいておりますのは、患者の倉内美知子さんです。この方は、20代の終わりに視力さえも奪われてしまいました。これから倉内さんの方から、患者自身の今までの苦労の日々を語っていただきたいと思います。

         倉内 美知子 氏

倉内:
 皆様こんにちは。私は皆様のお顔が全く見えません。今、佐竹会長からお話がありましたように、整腸剤キノホルムによって下半身が麻痺し、痺れと痛み、歩行困難、視神経萎縮ということで全盲でございます。

 振り返ってお話しいたします。昭和39年の7月、私は下痢をして脱水状態になりました。当時、私は一流企業に勤める夫と3歳半の女の子の3人で平和な楽しい暮らしをしておりました。将来の設計図も思い描いて、希望がありました。

 脱水状態になり病院を訪ねますと、入院をして点滴をしなければならないと言われ、そんなひどいことになっているのかと驚きましたが、とにかく早く治って早く帰りたいと、入院をしました。家では夫の母が家事をしてくれていました。私は1日も早く帰りたい思いで、投薬された薬と点滴を受けていました。点滴は2週間ほどで終わりました。8月の中頃、足の先が痺れてきました。私は入院しているため足が弱ったのだなと軽く思っていましたが、どんどん痺れてきます。主治医に訴えても、先生もわからないふうでした。そのときスモンはまだわかっておらず、あちこちで原因不明の奇病が発生しているという報道がされていました。そのとき私はその報道を見ても、自分がその当事者になるとはまったく考えも及びませんでした。そして9月19日頃、軽快退院ということで家へ帰りましたが、10月23日頃になって、激しい腹痛が3日続き、再入院しました。その痛みはお産のときよりも辛い痛みでした。主治医も何が何やらわからないふうでしたが、その痛みが止まった途端、下半身がぱったりと動かなくなりました。シーツが足にぱっと掛かっただけで痛いのです。私は何が何だかわかりませんでした。本当に信じられないことでした。その後しばらくして痛みが治まり、リハビリが始まりました。そして歩行器につかまってやっとぼつぼつ歩けるようになりました。その年、昭和39年12月、向こうから歩いてくる人が真っ黒に見えるのです。どうしてだかわからない。それが私の視神経が萎縮する初めの兆候だったのです。主治医に目の異常を訴えても、先生もよくわからず、1日1日とどんどん視力は落ちていきました。その年は東京オリンピックの年でした。私は10月10日の開会式をはっきりとした視力で見ました。それなのに、明くる年の2月7日、娘の4歳の誕生日に私は30歳で全盲になってしまいました。信じられない思いでした。しかし、まだ入院を続けなければ治す方法はない、なんとか治るだろうとそのときは思っていました。そして4月4日、院内で内科から神経科病棟に移され、脊髄からルンバールという注射を打つなどの治療を受けました。医師も手探りの状態で治療されたのだと思いますが、全く治らず精神的にものすごく落ち込んで、毎日泣いていました。自分で命を絶とうかと考えたこともあります。

 入院中同室であった方に、脳腫瘍で手術をされた方がおられ、リハビリをされていました。その方は私に「倉内さん、元気出してがんばらないと。あなた、かわいいお子さんがあるのでしょう。あのお子さんが賢いことをしたときに『良いこね』って頭を撫でてあげられるのは、あなたしかいないのよ。」と言われました。私は「ああ、そうだ。そうだなあ」と思い、思い直してリハビリに行きながら、何とか生きようという気持ちになりました。その当時、医療費はかさむし、介護してくれる者もいませんので、10歳下の妹が勤めたばかりの会社を辞め、24時間私の付き添いをしてくれました。本当に辛い思いでしたが、私の病気のために、夫の家族、兄弟みんながバックアップしてくれました。治らないままでしたが、姑が「これだったら精神的にも帰ったほうがいいだろう」と、昭和40年の12月、1年半の入院後、一応退院をしました。

 そして、その後は本当に苦しい毎日でした。現在は福祉が少し進んでいますが、当時は本当に貧しいものでした。初めはこれが薬害であるとは分からなかったのですが、「同じ被害に遭った人同士で話し合った方が少しでも救われるのでは」と一緒に行動しました。そして昭和47年3月13日、厚生省から委託された研究班が公式に「整腸剤キノホルムによってスモンは発症した」と断定した報道がされました。私はそれを耳にしたとき、「これで、今まで感染するわけのわからない病気だと言われることから開放される」と思いました。しかし反面、「私はこの病気を治すために一生を台無しにしたの? 将来の希望も、夫の生活も、娘の生活も、みんなの生活を狂わせて、いったい何なのだろう」という思いでいっぱいになり、涙が枯れはてるほど泣きました。

 その後、薬害団体『大阪スモンの会』の一員として、被害の大きさを訴え、二度とこの薬害を起こしてはならないという運動に参加して参りました。この長い37年の年月の間、ドクター自身がスモンをまったく御存知ないという状況の中、大変苦労しました。一昨年、介護保険制度が施行されましたが、それも申請しますと、自分の地域の医者に意見書を書いてもらわなければならないのです。その意見書に私は後遺症が書いてもらえず、「要介護1」がついたのです。それで私は自分自身で後遺症についての本を持っていったり、眼科で視力0という診断書を持って行ったりして、やっとわかってもらって今回「要介護3」になりました。

 そのような状況の中、スモンは本当に風化が進んでしまいました。このスモン薬害はマンモス薬害だったのです。全国でいまでも3千人もの患者がいるのに、治療法はまだ確立されておりません。私は毎日毎日首を長くして、早く治療法が発見されることを待ち望んでいます。まだ諦めがつきませんが、遠い話で私の小さな望みなのかもしれません。私達の「二度と薬害を起こしてはならない」という運動が足りなかったのか、先程お話があったように、HIV被害の皆さんやヤコブの皆さん、薬害被害者が続々と出ています。それにサリドマイド被害者の皆さんからも、私達と同じように風化が進んでいるというお話がありました。どうして日本の厚生省はこんなに処置が遅いのでしょうか。国民の健康をどう考えているのだろうと、私はそのようにいつも感じております。40年前に多くのスモン患者が生まれて、当時薬害であることがわからず、「うつる病気だ」と言われ隠していた人、ある人は離婚し、ある人は自殺し、経済的にも精神的にも口では言い表せない辛い年月です。これからはもう絶対にこのような薬害を起こしてもらいたくない、そう念じつつ、お話を終わらせていただきます。ありがとうございました。

加藤:
 では次に、薬害ヤコブについて原告の高原さんからお話いただきます。この薬害は、今まさに一日一日動きがありまして、新聞等でも報道されていることは皆様ご承知のことと思います。

高原:
 薬害ヤコブ大津訴訟原告の高原です。薬害ヤコブというのは、Bブラウン社製のライオデュラを移植したことによって感染したものです。ヤコブ病の一番の問題点は、この病気が知られていないことです。私は今日福岡からこちらへ参りましたが、福岡ではこちらほど報道がされていません。昨日も同じ職場の人と話をしていたのですが、「その後どうなっているの?」「それはどんな病気?」とすぐ聞かれます。症状は簡単に言うと、動かない、しゃべらない、こういった状態です。この病気の恐ろしいところは、発症するまで診断がつかないことです。

 被害にあったのは、私の義理の母親にあたります。一緒に暮らしていたのですが、当初様子がおかしいと気づいた時は、年齢からくる「呆け」であろうと感じました。北海道旅行に行くことになっていた母は、以前三叉神経痛を患っていて手術をしていました(その手術で硬膜移植されている)。旅行前にもう一度検査をしておこうと、手術をした大学病院に行きました。そこに行って検査をし、帰ってきたときから様子がおかしくなりました。当初はその検査で造影剤などを入れられたことをきっかけに呆けが始まったのかと思っていました。その1ヶ月くらい前に「目がおかしい」ということで病院に行って、緑内障という診断がされました。だいたい多くの患者に視覚異常が早く出ているようですが、この段階では絶対ヤコブとは考えません。生活の中でも、料理の手順がおかしい等、「何かおかしい」これしか言いようがないのです。そして日に日に言葉が減ってきました。6月の中頃、北海道旅行に行って帰ってきても、やはり様子がおかしい。それで手術を受けたその病院に入院させました。うちの場合、他の患者さんに比べてまだ良かった点は、入院して二日目くらいに担当医から、「硬膜を移植していたら、ヤコブかもしれない」と言われました。ものすごく早い発見です。多くの患者さんは診断がつかずに病院をたらい回しにされています。実際ヤコブ病というのは、自然発生が100万人に1人、日本において年間100人と言われます。その100人の患者に医者が出会っているかで診断できるかどうか決まります。

 そしてヤコブ病は発症したら治らない、死ぬということがはっきりしています。ですからその日、医者から「ヤコブ病かもしれない」と言われて、妻から「ヤコブ病って何?」と聞かれて困りました。治らない、死ぬということだけ知っていて、どんな症状になるのかは知らず、言いようがありませんでした。硬膜移植によって発病したことは、医者の間では話題になっていたようです。うちは1997年に発病したのですが、私達は硬膜移植の話も全く知りませんでした。三叉神経痛を2回手術していますが、2回目のときにパイプのようなものをいれたという話を聞きましたが、硬膜移植の話は聞いていませんでした。結局医療器具として勝手に移植されて、そのせいでヤコブ病に感染したのです。

 このヤコブ病が世の中に知られていないことで、やはり多くの偏見があり、病院の中でも偏見があることをつくづく感じました。入院しているとき、「病院で洗濯をしないでくれ」と言われました。私の家の近くの大学病院には脳神経外科しかなかったものですから、同じ大学の脳神経内科のある大学病院に移りました。そこでも洗濯物を持って帰らなければなりませんでした。

 ヤコブ病の診断がされたとき、「硬膜移植が原因では」と尋ねても、脳神経内科の医師は認めませんでした。入院当初「ヤコブ病かもしれない」と言った主治医も、自分の病院で硬膜を移植したことがわかると、翌日には「言い切れません」と否定しました。そんな中、ヤコブ病と診断した医師に「日常の生活をどうしたら良いのか」尋ねているうちに、「原因の“プリオン”が手について、体の中をとおって脳に達するという確率は0に近いから、洗濯物などもそこまで気にされなくていいですよ」と言われました。「直接くっつけない限り移るものではない」と言いながら、「硬膜移植が原因である」とは言いませんでした。普段の生活では感染することがないのに、多くの医師や看護婦が感染症というだけで嫌います。結局、そのために多くの患者さんが衣類やオムツにものすごい費用がかかっています。うちの場合は、手術をした病院で死ぬまで入院をしました。1年7ヶ月くらいです。そのときの医療費は、私自身に知識があったこともありますが、“特定疾患”のポスターがたまたま貼ってあり、その一番下にヤコブ病と書いてありましたので、すぐに手続きに行きました。それで医療費が免除になったのです。また病院側も責任を感じているものですから、食事や点滴の費用、病室代も負担してくれました。途中、診断を下すため大学病院をかわったとき、個室に移されたので、「感染しないのに何故だ」と文句を言ったこともあります。

 いろんな被害がありますが、病院側が受け付けてくれない、これがいちばんたいへんなことです。では、自宅介護ができるのかといえば、環境が整わないと家ではとても無理です。妻も家で介護したいと言っていましたが、子どもが3人まだ小さかったこともあり、無理でした。妻は毎日病院に通って世話をしていました。母の最後は力尽きるように亡くなりました。当初ヤコブ病は発症してから1年の命と言われましたが、1年7ヶ月生き抜いてくれました。

 この裁判の中で一番腹が立ったのは、Bブラウン社のいい加減な製造法で感染が起こったことです。あと、国が何故責任を認めようとしなかったのか。国は責任を認めないことで、救済をしようとしないのです。原告たちはそのことに強い怒りを感じています。医療費はものすごくかかりますが、私たちの場合は、先ほどお話ししたように特定疾患の申告をして、どうにかやっています。しかし感染症ということで、その他にもいろいろと必要で、たいへんお金がかかる。しかし、この保障は何もないのです。裁判を進めていく中で、国がもっと早く被害の拡大を防ぐ手段を打てたことが明らかになりました。しかし、これをやっていなかった。裁判を始めた当初より、裁判が進んでいく中で国に対する怒りが沸いてきました。

 今、やっと大津も東京も和解案が提示され、最後の大詰めの話し合いになっています。今後、本当に薬害を起こさないようにするには、やはり国側が責任を認め、謝罪することが一番であると思います。二度と薬害が起こらないでほしい、これが私の願いです。

加藤:
 ありがとうございました。あともう少しだけシンポジストの方々にお話を伺いまして、その後、会場の皆さまからのご質問等も受け付けたいと思います。

 今日のテーマでもあります、医療機関との関係についてお伺いします。それぞれの薬、あるいは製剤は、医療機関から投与された場合であっても、それぞれの裁判については、医療機関、医師を被告とはされていません。そのことについて、皆様でおわかりになっていること、或いはお考えのことをお伺いしたいです。もう一点、被害者の患者の方は、今日までずっと医療機関とのつきあいがあるわけですが、その中で感じておられることについて、お話ししていただきたいと思います。

花井:
 今まで繰り返し起きてきた薬害は、国は何をやっているのだと思わざるを得ない構造ですが、患者と医薬品を結ぶには、医療現場なしにはあり得ないわけです。今まで薬害といえば、どうしても国の責任ということに終始していたわけですが、現在国が負っている責任は、承認の段階、市販後の監視です。今度の薬事法の改正でも市販後の監視を強化するという方向にいっていますが、結局こんなことをしても、処方する医師がいるからこそ初めてそれは薬であるわけです。薬害という切り口で言えば、この抗HIV薬なんかは、HIVに感染していない人間にとっては100%毒であると言えます。しかし、HIV感染者の、更にその中の一部の適応する人にとっては命を救う薬ですから、認可して貰わなければなりません。一人の人間がリスクを背負ってでもこの薬によって生きたいという気持ちは踏みにじれないと思います。医療現場において、医師は患者の一人一人を見て、毒か薬かを判断することをしてもらわないと、薬害は繰り返されると思います。

増山:
 去年の12月、『神と悪魔の薬  サリドマイド』というサリドマイドの復活について書かれた本が出版されました。これはアメリカで解剖学及び発生学の学者で、約25年にわたりサリドマイドの研究をしているトレント・ステファンという人と、小説家で歴史研究家のロック・ブリンナーという人が、裁判にいたるまでの経緯やサリドマイドが何故いま復活なのかということが詳しく書かれています。

 サリドマイドの復活という話ですが、サリドマイドというのはこれだけ大きな薬害を出したにもかかわらず、ハンセン病の治療に効くということで細々と使われてきた薬でもあるのです。最近では、癌の治療に使えるのではないか、或いはHIVの治療に使えるのではと、いろんな話が交錯しています。最初に私がこの話を聞いたのは、3、4年くらい前で、ブラジルのサリドマイド被害者の事務所から手紙が来て、ハンセン病治療に使われているサリドマイドの使用法が徹底されていないせいで、ブラジルでは今でもサリドマイド児が生まれていることが問題になっているということが書かれていて、2年くらい前の手紙には、60数人生まれていることを確認したということでした。私自身サリドマイド復活についてどう思っているかというと、最初に聞いたときは、サリドマイドが他の誰かにとって有益な作用を及ぼすものだったのかという驚きを感じました。最近聞こえてくる情報によると、一定の効果はあるのかもしれないと感じつつあります。私は医療的な知識はないので、ただ情報を鵜呑みにしていて正しくはないかもしれません。結論を言いますと、もし利益がリスクを上回るのであれば、復活も構わないのではないかという気持ちでいます。私たちが何を一番懸念するかというと、ブラジルでもそうであったように、サリドマイドの使用が本当にちゃんと徹底されるのかということです。何故なら、私たちの被害が出てから40年が経ちますが、実際その後も1960年代、1970年代、1980年代と、10年おきに大きな薬害事件が起きています。例えば、日本においては「繰り返さない」と言い切れないというのが正直なところで、それをどうやって国が管理していくのかということに引っ掛かりを感じています。

 薬害被害者が集まって『全国薬害被害者団体連絡協議会』という団体があり、そこにいろんな被害者団体が加盟して薬害根絶の活動をしています。私もそこに参加するようになりました。制度は大事であると思いますが、本当に医療現場において命が尊重されていれば、或いは尊厳のある生き方がどういうものなのかということがちゃんとそこで理解されているのであれば、制度がどういうものであろうが、かなりの部分で薬害は防げるのではないかというのが実感です。日本の場合は、明らかに怪しいと思いながら放置される状態が続き被害が拡大しているというのが、どの薬害にも言えます。そのこと自体から、私たちの犠牲はいったいどこに生かされたのだろうというのが正直な感想です。

倉内:
 スモンの場合は治療法がありません。キノホルム中毒で体を犯されていますので、どんな病気でも、例えば風邪をひきましても治りがものすごく遅いのです。そして患者の高齢化が進んでいます。平均年齢76歳くらいではないかと思いますが、とにかくいろいろな病気が発生します。厚生省から「合併症については医療費を無料とする」という小冊子をスモン被害者団体は受け取って、『スモン手帳』に挟んでいます。しかし、医療機関にはなかなかそれについて通達が及ばず、トラブルがあちこちで発生しています。それは、やはりスモンが風化しているためであります。私たちは、全疾病について今後3千人の患者が死ぬまで保障してほしい。研究調査班には、研究費をカットしないで研究を存続させてほしいということをいつも厚生省に要望しています。仕方なく私たちは現状維持のために、針灸、マッサージの治療を受け、特定疾患の医療で訪問リハビリを受け、そして自分自身でも整形外科を頼りリハビリを受けています。

 その現場のドクターは、ほとんどスモンをご存じありません。こちらからいろんな資料を持参してスモンを説明し、やっとわかってもらっている状況です。スモンの歴史を知らない医師に、もう少し厚生省が研究班の先生を通じてでも伝えて勉強してもらいたいと心から思っています。スモン患者は治療法もないまま、痺れと痛みに耐えて毎日辛い思いで暮らしています。私と同じ気持ちで、1日も早く治療法を待っています。しかし、疾病について医療機関でトラブルが絶えません。薬害被害者にとって暮らしにくいこの日本は、なんという国でしょう。国民の健康を守らない、こんな国はあるのだろうかといつも思っています。このままでは、これからも私たちの希望に反して薬害被害者は出るのではないかという危惧を持っています。ですから皆さまも、今後薬害被害を起こさないという活動にどうぞご協力下さい。

佐竹:
 私たちが一番残念に思うのは、昭和の初期にスモンと思われる痺れの症状がみられたという報告があり、昭和13年、大阪市立桃山病院の腸チフスの患者にもスモンの症状が出ていたという報告があったにもかかわらず、これがずっと放置されてきたということです。

 医者の処方によって防げることはいくらでもあると思います。時には劇薬も特効薬と紙一重ということもありますが、スモンの例を挙げますと、ひどい医師になればキノホルムを1㎏処方したという先生もいるのです。皆様方も明日は我が身ということを自覚していただいて、薬を飲むとき、医者にかかるときは充分に注意して欲しいと思います。

高原:
 薬害を防ぐには、絶対医師の協力が不可欠だと思います。発症後入院させてくれるところ、拠点病院というのを国が置いていますが、その病院が遠かったら看護は不可能です。やはり患者の家の近くにそういった病院をつくってほしい。そして医師の協力が必要です。

 私たちは硬膜移植の証明を必ず出してもらわなければならなかった。しかしどの原告に聞いても、それはなかなか出してもらえず、カルテも見せてもらえなかったといいます。私はこの薬害について、発病した者も被害者ならば、その家族も被害者で、この手術をした医師も被害者なのだと思います。脳外科の医師たちはものすごく責任を感じているようで、このことについては押し黙ってしまう人が多いのです。うちの場合は、主治医が早い時期に「硬膜移植をしたのならヤコブかもしれない」と言いましたし、手術の証明もすぐに出してくれました。これほど協力的な医師は少ないのです。未だに証明が取れなくて、裁判も起こしにくい方もたくさんいると思います。ヤコブの場合は特にそうですが、こういった場合、医師の協力が本当に必要なのです。

加藤:
 ありがとうございました。養老先生、コメントなどございましたらお願いいたします。

養老孟司(北里大学  教授):
 ただ思っていることを申し上げます。ここに出ていない問題の一つに水俣被害があります。昨年の毎日出版文化賞をとったのが『水俣病の科学』という本でした。私も審査委員で、これを推薦しました。西村肇さんという方の著書ですが、これをお読みになっても、一般的にはなかなかわからないかと思います。西村さんは東大の化学をやっておられて、公害をやっておられます。彼はその本を書き上げて、これでやっと水俣の「化学的に何が起こったか」がほぼ完全にわかったと言いました。日本化学会は会員を2万数千名擁していまして、ノーベル賞の学者はおそらく2人いらっしゃいます。しかしその日本化学会は、西村さんのそういう仕事が何になるのかという考えです。つまり、済んでしまった水俣について、これから調べて何になるのだという考え方です。みなさんの「風化してしまった」ということの背景には、我々の根本的な考え方にあると思います。こういったものをどうやって残すかということについて、我々は非常に不得意かと思います。

 水俣の場合、「考えられない、ほとんど普通なら通過できるはずのことが通過できなかった関門が5つあって、その5つが全て悪い方へ行った。その結果がああいったことになった」ということです。実際、事故や不幸な出来事は考えられない偶然がいくつか重なって起こるというのは、飛行機の事故などではよく知られていることです。横浜市大病院の患者取り違え事件も、看護婦さんが手術場まで一人ずつ搬送するとき、入り口で忙しい看護婦さんが患者を他の看護婦に預けた、その患者同士が同名であったという偶然がありました。そういった起こらないような偶然が起こるところに事故が発生する、これが水俣の場合に極めてよく出ました。

 もう一つ、過去を消去していく典型的な例は、ハンセン病であると思います。ハンセン病の歴史について書かれたのは、東大の衛生学の教授、山本俊一先生です。その方は、『日本らい種』という本を10年ほど前に出されました。しかし、それを引き受けた出版社は一つもありませんでした。ですから、私が理事長をしておりました東大の出版界が研究書としてそれを引き受け、僅か800部の出版でした。それを一般の出版社が出していてくれれば、近年の「らい予防法」の問題はもっと簡単に片づいたのではないかと思います。つまり、どこに障害があるかというと、社会の中、我々自身の考え方にまず問題があると、みんなが考えた方がいいのではないかと私はいつも思っております。厚生省の役人は、ハンセン病の訴訟について控訴するという方針を決めました。何故そのような方針を決めたかというと、そういうことが前例になっては困るというのです。ハンセン病ほど、ある種の差別の歴史を持った病気は他にないのです。それ以後起こることの“前例”になどなるはずがないのです。個の問題であるのか、横並びの問題であるのかといえば、役人は横並びの考えしかしないということを理解しないといけない。それは健康保険制度にもよく出ていると思います。

 基礎の学問についてですが、日本では医療についての学問は基礎も遅れているなと思います。それは考え方の問題もあると思います。そう考えるようになったのは、例えばサリドマイドやスモンが身近で起こったからです。当時の基礎を含めた医学の考え方では、そういう問題に対処するということを考えていませんでしたし、何故そのようなことが起こるのかということにもおそらく医学では教わっていないと思います。最近では人間科学といって、「医学の基礎は人間である」というふうに基礎医学を考えようと思いました。それはなにも社会的な運動をしようと思ったわけではありません。私の立場でありますと、物の考え方しか扱いませんが、その考え方が足りなかったというのが私から申し上げたいことです。それを端的に言うなら、いわゆる「化学とは何か」「学会とは何か」、日本化学会は何故水俣病を扱おうとしないのか。いろいろな国で同じようにアセチレンをつくっているのに、あれだけ被害を出したのは水俣だけなのです。それを化学で説こうとすると、「そんな特殊な問題を何故扱うのか」と言われるでしょう。しかし、それは特殊な問題ではないのです。我々はまだ学問を個の問題と結びつけて普遍化して考えたことがないのではないかと思います。

加藤:
 会場の皆さまから、ご意見、ご質問等ありましたらお受けしたいと思います。

会場より:
 薬害エイズを担当してきた弁護士の徳永です。ここで若干皆さんに問うてみたいことがあります。「再発の防止」を皆さまは声を揃えておっしゃっておられます。「国の責任」ということが再三出てきているのですが、私は今の国にそういった「再発防止」ということを求めるのは、基本的に無理であろうと思っています。それは、国が薬害についての判断ができるような情報をもっているのか、或いは持つような体制になっているのかということです。裁判をやる前は、漠然と「国はそういった情報をあらゆるところから仕入れて、世界でどのようなことが起こっているのかも迅速に取り入れている」という幻想があったのですが、実際は文科系のお役人たち、限られたスタッフが、どうして良いのかわからないと右往左往しているという程度でした。これだけ複雑で巨大な情報がある中で、製薬会社を上回るような情報を厚生省が取れるわけがない、取れるような体制にないのです。そういった状況で役人に何とかしろと言っても、無い物ねだりのように感じます。或いはそういった機構そのものを抜本的に変えようと考えるべきかもしれませんが、日本には軍事的な戦略部門がないように、公衆衛生、薬害に関しても、そういったことを戦略的に取り扱う部門が日本にはないのです。しかし、ない中でどうするのか。国に責任を問うより、むしろ国はあてにならないのだということをある程度前提にしながらやっていかなければ、少なくとも3年、5年と機構改革といったものが同時に行われる中では、別の方向を考えるしかないと思います。

 アメリカはこういった問題に対して迅速に動いているようなことが言われていますが、薬害エイズでも日本以上の被害を出しています。血液製剤にしても、アメリカが輸出したわけで、それは国内でも規制はありませんでしたし、国は責任も負っていません。日本では役人の責任を追及されうるわけですが、アメリカでは非常に強大な権限を握っているFDA、CDCといった機構があり、彼らのミスは一切制度的に追求されないというシステムになっています。責任がなかったから追及されないのではなくて、追求できないからアメリカの政府は責任を負わないのです。どうしたらなくなるかということを考えれば、現実問題、国が期待できるような体制になっていないことを我々は考えた上で議論していく必要があると思います。

花井:
 今のご意見は、再発防止のために、国のシステムの現状をふまえて、「国が責任を認めないことが問題である」という切り口だけでは、本来的な薬害防止システムを構築するには遙かに遠いという指摘だと思います。日本は、医薬品に関してはアメリカ軍、すなわちFDAが守ってくれるだろうという期待がある。しかし、そこには何らかの条約があるわけではないのです。日本は軍事力を持っているかというと0です。承認に関しては、安保でいくのか軍事力を持つのかを選択しなければならない。もう一つは、危機管理システムです。今難しいのは、膨大な情報の中から要らない情報をいかに捨てるか、必要な情報はどれかという判断をする能力が一番問われていることだと思います。その責任体制を日本でもつくらなければならないと思います。国は製薬会社以上に情報は持っていませんし、専門家はいません。ですから、国が製薬会社を査察しても、本当に査察できる人材はいません。ということは、製薬会社から情報を強制的に出させるのは法しかないので、薬事法や国内法の中でどこまで出させるのかを考えて、その後に危機管理について何らかの体制がとれるのではないかと思います。

高原:
 今の弁護士さんのお話には、正直言って腹が立ちました。今までやってきたことが無駄だというふうに聞こえるからです。花井さんの解説からわかったのですが、現実は、今のシステムでは絶対に駄目で、このシステムを変えなければならない。そうしないと薬害は無くならない。行政改革はいろいろ言われていますが、日本の政治のやり方は、「安いお金で効率よく」という考え方です。そうではなく、やはり命に関わる部分では考え方を変えなければならないと思います。例えば、医薬行政が専門家をたくさん雇う。そういうことで、今よりも薬害の起こる比率は減ると思います。私たちはシステムを変えていきたいという思いでやっておりますので、そのことをわかっていただきたいと思います。

会場より:
 医薬ビジランスセンターの浜といいます。私は薬については随分調べてきましたが、薬害を根絶する、その根本で、薬の効き目や安全であるかどうか、それを判断する材料は、化学論文、医学論文、臨床試験の論文、動物実験の論文、そういったものでできています。それが根拠となって薬は承認されています。ヤコブの乾燥硬膜のように、まったくそのような過程がなく、ごく簡単な手続きでというものもありますが、普通はこういった過程でされているはずです。ところが、全くそれがされていない。例えば、年間50件もの臨床試験をしているという臨床学理学者がおります。私も最近倫理委員会に参加していますが、一つの薬をきちんと評価してやっていこうとすると、何週間もかけてたくさんの論文を見て判断しなければなりません。年間50件をそのようにできるはずがありません。そんな中でたくさんの薬が承認されている。実際たくさんごまかしがあるわけです。そのごまかしを一つ一つ点検していくという作業は、医師や専門家でなくても、一般の皆さんでもできる面があります。我々も皆さんの役に立つよう、どんどん点検していこうと思っております。

加藤:
 本日のシンポジストの皆さまに一言づついただいて、最後のまとめといたしたいと思います。

花井:
 薬事行政に関しては、今後議論する場をつくっていきたいと思います。HIVは今やオーダーメイドの医療と言われます。今後の医療はそのような形に進んでいくと思います。そのオーダーメイドをするときに、医師が患者と人として向き合って処方箋を書くということに真実があると思います。それを担保するシステムとして、いろいろとやらなければならないことがあると思います。

増山:
 どうしてもサリドマイドの場合、奇形を持ってしまった子どもの方に話がいきますが、薬を飲んだのは私の母で、飲んだ人にも神経障害が出て、それで苦しんだ方もいます。私自身、母とは随分長い間別々に生活をしていたので、サリドマイドとして私が産まれてきたことを母がどう思っているのか、話すことはありませんでした。母は3年前に病気で亡くなりました。病気を患って入院していたとき、母も自分が亡くなるということを知っていたのでいろいろ話ができたのですが、母は私をサリドマイドで産んだことをとてもすまなく思っていたと最後に言いました。私はそのことへの驚きと、そのことをもう少し私が早く理解していれば良かったと思いました。というのは、私自身、生きていく中でいろんなことがありましたが、普通の人の人生何個分にも匹敵するのではないかと感じることがたくさんあって、私は私の人生を充分受け入れています。そのことを最後に母に伝えてあげたかったというのが最近の感想です。

倉内:
 薬事審議会で許可されて薬が出されていると素人の私たちは思っております。ですから国を頼るしかありません。国をあてにしてもだめだと言われても、どうしたら良いのかわかりません。現在まだ3千名の患者がおります。何とか死ぬまで少しでも痛みを和らげながら暮らしていける方法はないかと思いますので、今ある制度が充分に活用できるよう患者に情報を提供してほしいです。恒久対策の実現を目指して、今生きている人間が国に働きかける活動をしていかなければならないと思います。

佐竹:
 私も被害者と致しまして、今患者が抱えている問題で一番気にかかっていますのは、スモンというのは未だに何の治療法も確立していないということです。唯一痛みを和らげる方法としては、針灸治療が一番効果があるようです。最近、その針灸治療院のまわりでC型肝炎やB型肝炎が蔓延しているというようなことを聞いたり、現に患者の一人も針灸治療院で感染したとしか心当たりがないという患者もいます。もちろんスモン発症以後の手術や輸血も考えられますが、そういったことを考えますと、今の医療制度を少しでも良い方へ変えることができ、私たちの治療も安心して受けられることを切に願っております。

 皆さま、これからもどうぞご理解いただいて、私たちにご支援下さいますようによろしくお願いいたします。

高原:
 今日は薬害ヤコブの『ヤコブ110番』を東京と大阪で開設しています。今日3時までに大阪で46件の問い合わせがありました。東京とあわせれば100件近い相談がある中で、多くの方がライオデュラを移植されたことで悩んでいる。また実際発症されて、どうしていいか悩んでいる、こういったことが実際に起こっているのです。

 薬害ヤコブの原告として、サポートネットワークでそういった人たちの不安を解消する、また国への働きかけができるシステムを準備中です。そして多くの人たちにヤコブ病を理解してもらうことを目指しています。治療法はまだありませんが、病院でも入院しやすい体制になっていくだろうと思います。そのためにも、この裁判をきっちりした形で終わらせなければと思っています。二度と薬害は起こって欲しくありません。

加藤:
 ありがとうございます。本日は養老先生のお話とシンポジウムから、私としましても、「薬害が生じて裁判で和解した」という事実と情報が重要なのではない、その後も被害者の方は今日まで闘いながら生活しておられるし、遺族の方はそのことを抱えて生活をされているのだと思いました。現在進行形であるということが意識されないと、薬害は必ず繰り返される。そのために社会や医療がどういうふうに考えないといけないのか、どう気持ちを通じ合わせるのかということが大切ではないかと司会者として感じた次第です。それでは最後に主催者側を代表して、太田の方が挨拶させていただきます。

太田裕治(特定非営利活動法人 ネットワーク医療と人権  事務局長):
 シンポジストの皆さま、本日はご苦労様でした。そして養老先生、どうもありがとうございました。非常に盛況で今回のシンポジウムを終えられたと思います。またこれを報告書にしまして、一つ一つ残していく作業をしたいと思います。そして、語り尽くせない内容でありますので、また何らかの機会を設けてこういった討論をしていきたいと思います。今後とも皆さま、よろしくお願いいたします。本日は皆さま、ありがとうございました。

 

「薬害ヤコブ」についてのその後の経過

 1996年11月、全国に先駆けて提訴された大津地裁訴訟と、1997年9月に第一次提訴が行われた東京地裁の訴訟は、2001年7月に両地裁が和解を勧告し、同年9月より原告、国、ビー・ブラウン社の間で和解協議が始まる。2002年3月23日には、坂口厚生労働大臣が被害者原告の故谷たか子さんの墓参りを実行。そして、同年3月25日、和解成立。和解確認書には、厚生労働大臣と被告製薬企業による謝罪の言葉が明記され、国による薬害再発防止の努力が誓約されている。

 同年6月30日には、ヤコブ病サポートネットワークが設立され、活動を始めている。ここには、ヤコブ病を発症した患者の家族や、発症の不安を抱える人からの相談が続いている。