医療現場は薬害を防げるか!?:第2部  シンポジウム | ネットワーク医療と人権 (MERS)

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医療現場は薬害を防げるか!?:第2部 シンポジウム

医療シンポジウム「医療現場は薬害を防げるか!?」
第2部【シンポジウム】


進行役 :花井十伍氏(大阪HIV薬害訴訟原告団代表)
パネラー:勝村久司氏(陣痛促進剤による被害を考える会)
     小林アキラ氏(大阪HIV薬害訴訟原告団)
     松浦基夫氏(市立堺病院医師)
     徳永信一氏(大阪HIV薬害訴訟弁護団)


花井
 前半では勝村さんと小林さんから、主に薬害被害者の立場からいろいろお話を伺ったわけですが、今回のテーマは「医療現場は薬害を防げるか」ということで、基本的には医薬品の副作用被害の問題と医療現場の役割、もしくは期待されることについて、このメンバーで前向きな話ができたらと考えております。メンバーには第1部で講演していただいた勝村氏、小林氏、大阪HIV薬害訴訟弁護団でもあります徳永弁護士、市立堺病院内科医であり、HIV診療にも携わっておられます松浦基夫先生に加わっていただきます。

 それではまず、松浦先生の方から前半の講演会についての感想などお話していただきたいと思います。

        松浦 基夫 氏(中央)

松浦
 勝村先生のお話についてですが、私はあまり陣痛促進剤被害については知らなかったのですが、私のいる市立堺病院は、おそらく枚方市民病院と同じくらいの規模、同じくらいの医療レベルの病院かと思うので、特に胸に突き刺さることがたくさんありました。一つ思った事は、いろんなミスや医療事故が起こったときに「隠す」という体質、これはたぶん共通のものがあるのではないかと思いますし、それは、医療界全体に共通しているのではないかと。自分の病院で起こった医療事故に関しても、新聞を見て知るということもあるのです。例えば、去年くらいに裁判になりましたが、うちの病院の若い外科医が虫垂炎の手術で間違えて卵巣を切ったということがありました。これも院内では「そういうことがあったらしい」という噂は広まってきても、ちゃんとした情報は伝わってこない。新聞を見て「おお、やっぱりか」と。そういうことがよくあります。それはやはり、院内でそのような医療事故があったということを公に話し合うのは、事故を起こした当人が居づらくなる、そのような理由でかばってしまう面があるのではないかと思います。

 勝村さんが枚方市民病院の職員研修で「そういう事故があったことを忘れずにいてほしい」と言われた内容を思えば、そういった「隠す体質」というのが、医療を良くしていくことの妨げになっていることを強く感じました。

 そして、陣痛促進剤を「子宮口を開く薬」と言って処方されたと言われましたが、現在うちの病院でそういったことは考えられませんが、以前はそういうこともよくありました。例えば抗ガン剤を投与するときに、「炎症を抑える薬です」と伝える。そのような、一般の医療の現場で起こっていることと、勝村さんのお話の共通点には非常に胸に突き刺さることが多かったです。

 今日の話のテーマは「情報の公開」と「インフォームドコンセント」ではないかと思います。インフォームドコンセントについてお話しさせていただきますと、日本語に訳すのはなかなか難しいのですが、一般には「説明した上での同意」と訳されているのではないかと思います。実際には、医療の現場ではやはり一方的に説明して、一方的に同意を求めているという場合が多いのではないかと思いますが、HIV診療はインフォームドコンセントが非常に重視される分野でもあります。

 それは一つにはHIVが感染症であり、他の人に感染させる恐れがあるため、必ず患者に病名を伝えて、感染の可能性も充分説明しておく必要があるということです。

 もう一つは、抗HIV薬の服用を勧めなければならないのですが、それは単に説明して同意を得るというだけではとても無理な話なのです。というのは、抗HIV薬というのは副作用がいろいろとあります。普通薬というのは、「頭痛薬を飲んだら頭痛が治る」というふうに、自分の症状が良くなることを目標として飲むわけですが、HIVの薬はそういうわけにはいかないのです。大概、抗HIV薬を飲むと体調が悪くなり、いろんな面で副作用が出ます。にもかかわらず、飲み続ける必要がある。そういう意味で、患者が薬を飲んだ方が良いと、患者自身の決断が必要なのです。

 一般的によくあることですが、私たちが患者に薬の説明をしても「先生にお任せします」と言われます。「私は信頼されているのかな」と思えるのですが、おそらく患者からすれば、「先生が何を言ってるのかよく分からないから、任せておこう」ということではないかと思います。しかし、そういう関係では、抗HIV薬を患者がきちんと飲むというのはとても無理です。ですからHIV診療に於いては、インフォームドコンセントがなくてはならないのです。インフォームドコンセントをそういった意味合いでもう少し説明するならば、「説明した上での同意」ではなくて、「患者が自分で判断できるだけの情報を提供する」ということが本来の意味ではないかと思います。

 この「情報の提供」ということに関しては、一つは患者の現在の状態に関して正確に、分かりやすく説明するということ、もう一つは、医者の意見だけでなく、例えば薬剤師や別のスタッフの、第2の意見を求められる環境を整えることが大切ではないかと思います。そのためには、やはり薬の情報などを医師だけが持っているのではなく、その周辺のスタッフも共有していることが前提なわけです。陣痛促進剤被害の場合も、「情報を医師だけでなく、スタッフも共有していれば防げた部分もあったのではないか」というお話がありましたが、患者がいろんな面から意見を求め、情報を得るということは、非常に重要なことだと思います。

 HIV診療に関しては、かなりそういう面で進んでいると思います。継続した抗HIV薬の内服が重要であることが言われだしてから、薬剤師の方もものすごく勉強するようになって、医者より薬剤師の方が薬について詳しいという状況の中で、患者はいろんな人の情報や意見を得ながら自分の治療を決めていくという方向へ向かっています。このように、HIV診療に関しては先進的な取り組みができているのではないかと思います。

 「情報の提供」という意味でもう一つお話しすると、おそらく日本の医学関係の学会の中で、患者やそれに関わる人々が自由に参加できる学会というのは「エイズ学会」だけではないかと思います。陣痛促進剤の場合でも、一般の市民がそういった場所に参加して陣痛促進剤に関する知識を得ることができれば、そういった情報の公開の場があれば、また違ったのであろうと思います。

 HIV診療の現場というのは、ある意味で特殊性はあるのですが、医療の姿勢を問われるようなことがたくさん起きている中で、今の医療のあり方を変えてゆく突破口になりうる課題ではないかと思います。

花井
 冒頭から2部の核心に迫るお話をしていただいて、問題提起として非常に重要だと思います。今回のテーマとして「薬害を防げるか」とあります。「薬害」とは。今までのお話からお分かりになると思いますが、例えば病院で治療を受けて何か事故に遭うと「医療過誤」という言葉もあります。弁護士の立場から「医療過誤」や「薬害」、それぞれについての理解を助けるアウトラインを引いていただけると、皆さんに分かり易いかと思います。

徳永
 いきなりたいへんな難問をあてられましたが、「医療過誤」と「薬害」は当然クロスオーバーしていますが、両者の共通点や違うところを説明してもわかりにくいと思います。では、薬害エイズ事件の時にはどうであったかということで、簡単に説明させてもらいます。

 薬害エイズ事件においては、製薬会社と国との責任を追求しましたが、医師の民事責任は追及しませんでした。これは、少なくとも提訴の段階では「医師に責任はないだろう」という判断のもとにあったことではなく、純粋に作戦上の判断であったのです。

 当時は、薬害エイズ被害者の方々がエイズの治療をやはり以前から投薬を受けている医療機関で受けているといった状況がありました。その医師を訴えるということになるのです。当時は「エイズ」という言葉だけで一般市民は震え上がっていた時代でした。そんな中で、病院内での目を気にしながら、或いは社会的なプレッシャーを感じながら、エイズの治療をやっておられた医師がいたというのも事実でした。患者の、自分たちの治療の場がなくなるという強い恐怖、また、裁判を行うためには血液製剤の投与を受けたという、医師からの証明書を取り付けなければなりません。そういった協力がスムーズに得られないのではないかという懸念があったこと。それから、この裁判を起こしたとき、当初から「これは集団裁判にして、被害全体の救済を計ろう」という全体の構想があったので、被害者全員が裁判に参加できるためには、医師をはずすべきだという判断があったのです。

 裁判は1989年に始まって、和解が1996年です。医師の責任については、1983年、安部教授がエイズ研究班を発足させ、郡司氏が主催して、会議で治療方針を検討したり血液製剤について考えたりと、そういったことを始めた時期ですが、この時期において医師の責任を追及するのは、日本の裁判ではどうだろうという気がしています。でも、その後、危険性が徐々に明らかになってきてからは、医師の責任が追及されうるケースは多々あるだろうと信じています。

 とりわけ、第4ルートといわれた血友病とは違った病気で血液製剤を投与され、HIVに感染したケースでは、薬害という側面よりも医療過誤の側面がかなり色濃いのではないかと思います。特に当時の厚生省の松村氏と、ミドリ十字の役員を刑事責任で訴えた、これも第4ルートですが、これについては医療過誤だと言い切って良いというケースでした。

 しかしその場合でも、製薬会社からは「これは医師の責任である」と、厚生省からは「医師と製薬会社の責任である」という責任のなすり合いが現実に裁判の中でも行われています。

 こういった問題で痛感するのは、「薬害における医師の責任とは何だろうか」ということを、やはりきっちりと議論して位置づけるという作業を、まだまだやらなければならないということです。情報提供との関係でお話しますと、第4ルート事件については、血友病患者の薬害エイズ訴訟和解の後、第4ルートの問題が社会問題化するまで、医療機関からは感染の危険性についての話はほとんどなかったのです。これは深刻な問題だと思います。非加熱製剤の危険性が明らかになって、加熱製剤に切り替わった後であっても、「非加熱製剤の危険性については全く知りませんでした」と言って、しらっとしている医師を見ると、「本当にこれでいいのだろうか」と思います。実際、第4ルート刑事事件の証言の中でも、「危険性は全く知らなかったし、クリスマシンが血液製剤であることも知らなかった」という統括医の証言もあります。

 危険性に気づいたとき、医者は何らかの積極的なアクションをすべきであったと思います。結局は、厚生省の方から病院名の公開などの形でアクションを起こさなければ、医師側は動かなかった。そのような構造から、やはり問題の根は深いと考えさせられます。

花井
 今のお話にありましたように、薬害エイズは時系列的に危険認識が揺れ動きました。安全な血液製剤である加熱製剤が出た後に第4ルート事件が起こったことについては、かなり問題があるという指摘がありました。陣痛促進剤の場合、昭和49年の段階で、危険性は産婦人科医の間では分かっていた、しかし伝わっていなかったということでしたが、例えば学会などで、その情報は共有されていたのでしょうか。

勝村
 「日本母性産婦人科学会」(当時「日本母性保護学会」)という、日本中の産科医が加入している団体が、昭和49年に陣痛促進剤被害の実態を伝えました。それは部外秘ということでしたが、毎年、全産科医には撒かれていました。そこには裁判の起こった事故例等も上がっていましたが、誰もきちんと目を通していなかった。学会トップの人たちも「これはヤバい」と思ったからこそ、全産科医に事の重大さを伝える冊子を撒いたのでしょう。しかし、一般には知られたくないので、こっそりとこの一大事を解決できないかという風に。でもそういうやり方で、情報がちゃんと伝わらなかったから結局被害は繰り返されてきて、いよいよ被害者たちが立ち上がり、被害が世に知れわたることになったという経過ですね。

花井
 小林さんは、医師がリスクを知っていても隠していた、もしくは知らずに苦悩していたなど、気づかれた点などはありましたか。

小林
 「利益」と「危険性」は比較考量です。製薬会社は汚染した非加熱製剤を「国内血です」と嘘を言っていた、現場の医者はそれを鵜呑みにしていました。また、血友病医師のウィルスに対する認識はすごく甘かった。日本の全ての医者が甘かったと言えます。「ウィルスとはそんな恐ろしいものだったのか」と強く意識しだしたのは、薬害エイズを契機にしてだと思います。そのような環境の中で「利益」と「危険性」の比較考量をしても何の意味があるのだろうと思います。

花井
 日本の医療の中で、医師には権限と共に責任が集中しています。情報を集約して初めて判断できるようなこと、例えば専門家集団の学会などは、他の者に立ち入らせないというところがあります。エイズ学会では、患者、看護婦、カウンセラーなど様々な人が参加でき、オープンな場となっています。エイズ学会の先進性について先ほどもお話していただきましたが、学会の役割などについて、松浦先生から何か。

松浦
 「日本の医療はスタンダードがない」とよく言われるのですが、つまり各々の医者が自分の経験に基づいて勝手に好きなようにやっているという面が非常に強いようです。例えば先ほどのクリスマシンの話で、それが血液製剤だということを知らないで投与していた医者の話がありましたが、それはおそらく、上の医者から「クリスマシンはよく効く」と聞いたから使っていた、ということだったと思いますね。陣痛促進剤にしても同じような感じでどんどん使われるようになったのではないでしょうか。

 学会というのは、だいたいは良いところばかり発表するわけで、本音で発表しないですね。それは一つに、監視の目がないからでしょう。そういう意味でエイズ学会というのは、特に患者、或いはそれを取りまくNGO団体の監視の目があるということで、だいぶ違うと思います。

 ただ、薬については、最近は随分変わってきたのではないかと思う面もあります。それは、薬害エイズの問題と共にソリブジン事件以降、かなり変わってきました。というのは、製薬会社のMRたちは、それまでは宣伝が主だったのですが、それ以降は副作用情報を医師に伝えることに、非常に熱心になりました。

花井
 確かに、いろいろな情報をインターネット等でも得られるようになり、10年前の情報量に比べると桁違いです。情報公開をすれば、いろんなことが分かり、リスクも分かって、治療の面において良い傾向にあると言われますが、例えば医師が患者に説明しようとしても、患者の方が「先生にお任せします」と、むしろ説明を拒むということはよくあると思います。そういった場合はどうすれば良いのでしょう。

勝村
 消費者として、「きちんと医療と関わっていこう」という考え方ができない、それが背景にあります。情報の公開の極めは教育である、そういった視点を持つべきだと私は思います。薬害事件がきちんと教育の場で伝えられているのでしょうか。基礎になる情報がないままで、医者と患者の関係を対等にしていくのは難しいと思います。医療者たちはやはり、「相手の姿勢がどうだから」ということも抜きにして、人間相手の仕事として、伝えるべきは伝えるというのが大切だと思います。

徳永
 今の勝村さんのお話に反対するわけではないのですが、それと同時に別の問題がはらんでいることを指摘したいのです。情報提供を必要とされるという流れ、それは一つにはアメリカの流儀だということを覚えておくことです。今から10年、20年前は、アメリカでは裁判のコストが非常に高かった。新製品や新しい医療に取り組んでも、裁判はどんどん起こされ、それが社会の発展を妨げているから、アメリカには未来がないのではないかと言われていました。日本でも企業社会がそれを真に受けている時期がありましたが、いつの間にかアメリカはそういった訴訟に対する抗体を身につけた。それが「情報公開」なのです。情報公開を徹底的にやっていくという形で自分たちの責任を逃れるという一つの戦略なのです。そのことでどうなっていったかというと、消費者に全ての情報が提供されて、消費者自身が判断しなければならなくなった、消費者がそれだけたくさんの責任を負うことになった、そういう側面も見逃してはいけないと思います。

 「責任ある専門家が、その責任を果たす中で、消費者が安心して暮らせる」、そういったやさしい社会から、「情報を自分で受け止め判断し、そしてその決断について自分で責任を負う」、そういう世知辛い社会に移行しているのだということを理解しておかないといけないと思います。

 医師や弁護士などの専門家というのは、いったい何が「専門」なのか。以前は情報を持っていることにおいて、特権的な立場にあったのですが、今は情報自体は専門家でなくても充分得られるようなシステムができつつあります。しかし、たとえ情報提供が充分にされても、患者(依頼者)側は専門家に「情報に基づく判断」を任せるわけです。それを前提にして、どういう形での情報提供が求められるのかを考えなければならないと思います。

花井
 勝村さん、小林さんから、徳永弁護士のお話についてのご意見、またはご自身が向き合った医療現場で、どうあるべきであったか、何が大事なことを阻害していたのか、医師の専門家としての責任などについて、何かご意見があればお願いします。

小林
 徳永先生のご意見はもっともで、プロにはプロとしての領域があるのだと思います。しかし、医師免許を持っている医師であっても、例えば僕が小さい頃かかっていた医者は、そんなに深く物を考えて治療していたとは思わないのです。私たちも患者側として、真の医者、医者のレベルというのを見極めなければいけないと思います。

勝村
 実は徳永先生のおっしゃられたことは、この数年間、私がかなりいろんな人から言われていることなのです。特にカルテ開示の法制化が決まらなかった医療審議会で、医師会側は同じ主旨の発言をしていました。それに私たちがどういう反論をしてきたかというと、「情報公開すると、今度からは患者の責任になるんだ」と言われたときに、「では、今までは医療者側が責任を取ってきたのか」と、情報も与えずに患者に責任をなすりつけてきたのが今までであったのだから、まず第1段階で情報を提供しろと求めました。

 そしてまた、教育について言いたいのです。私たちの高校時代の保健の教科書には、お産についてどんなことが書かれてあるかというと、「周産期死亡率が減ってきているので、日本の産科医療は進んでいる」とありました。そのような教育を日本中の子どもは受けます。教科書資料の操作云々もあって、「情報提供」というときに、情報とは何かという議論はもちろんしていかないといけないのです。その基盤というものがきちんとできた上で、初めて議論ができ、本当のスタートとなるのです。

 やはり人間同士なので、常に悩みながらお互い真摯に向き合っていくという姿勢が大切です。知りたいという人が知れる権利、教育においては事実を伝えるということ、そういったことを「情報公開」の元できちんとやっていかなければならないと思うし、それが最善であると思います。

花井
 日本の場合は保険制度において病院に市場原理は導入されていませんが、医療に広告などの競争原理を持ってくる、それは一つの情報公開ですが、そういった方向が薬害を無くすことへ向かっていくことになるのでしょうか。市場原理の導入が、むしろ人間対人間というものを阻害していく、寂寞(せきばく)たる医療というものになりはしないか。漠然とした話ですが、松浦先生はどう思われますか。

松浦
 一つには、セカンドオピニオンを求める習慣があってもいいかなと思います。たぶんアメリカなどでは一般的かと思います。市場原理について言えば、確かに手術成績などを公表することになると、患者が特定の病院に集中してしまうということが起こるかもしれません。いろんな治療の面で、一定の医療レベルを確保するためにはどうすれば良いかということを考えるのが普通かと思いますが。

小林
 社会が貧しかった頃は、金太郎飴のような均一、一律の治療ということで良かったと思いますが、これだけ発展しても、なおそれを続けるというのは、果たして良いことなのかと思うのです。これは僕の私見なのですが、医者というと僕らは聖職として見るわけです。それが何か、不必要な付加をかけているのではないかと思います。

徳永
 私は違うことを言っているようで、勝村さんや小林君の言っていることとそんなに立場が違っているとは思っていないのです。例えば、病院の評判を一般に流した方が良いのかという議論ですが、現状で考えて、弁護士の立場からは、良くないと言えます。客観的な実力の評価などをどのようにして情報という形で流すのかというのは、非常に難しい問題で、正しい情報を選択するというのも消費者にとって難しい問題です。

松浦
 先ほど「金太郎飴のような均一、一律の治療」という表現がありましたが、金太郎飴ならまだましなんです。それ以下のところがたくさんあるから問題なわけです。一般的によく思われている、「大学病院などの大きな病院は医療レベルが高い」というのは間違いと言えますね。

小林
 僕は小学校の頃に大腿骨を骨折しまして、入院した整形外科のある病院が、救急病院の間では「あそこの整形外科に入ったら死ぬ」と言われている病院でした。僕と同い年の小学生の子が6人いたのですが、そのうち3人の子がリハビリ中に再骨折させられたということがありました。そういう「偶然入ってみたらそんな病院だった」という、まるでおみくじを引くようなことには、たまらないものがあります。やはり病院側が「うちはここが売りです」というような情報はあって良いと思います。

花井
 今の話からも言えますが、「最低限のスタンダード」というものが医療にはないのではないかという指摘があり、そのための情報公開だということ、また、その中で患者がより良い医療機関を選択しうるための情報、情報公開といってもひとくくりにはできないのです。

 「薬害」ということで切り取って、副作用被害を防ぐために一番重要なこと、もしくはそれは可能であるのか、小林さんの立場からは、当時こういうことを言って欲しかった、などあれば1人ずつお願いします。

    左:小林アキラ氏 右:勝村久司氏

勝村
 花井さんが言われたように情報公開にもいろいろな意味があり、またいろいろな問題があります。今の段階では、私たちには何も知らされてなかったと言えます。教育の場でも、病院での母親教室でもです。医療の中にもう少し民主的な雰囲気が出てきたときには、次の高等な議論が入っていく必要があると思いますが、基本的な問題の中に、高等な議論を持ち込まれないようにしないといけないとも考えます。確実に安全であるとは言いきれないわけですから、病院の善し悪しを言うことはできません。共通の社会のルールとして「底上げ」にも貢献するような基盤をつくり、その上で、次の段階へ行けるのだと思います。

 消費者に責任がかかってくることを思うと、事実をきちんと伝え、教育していくことが大切だと思います。しかし教科書などは、まるで企業の広報のようになっているのです。特に被害に遭ってから見てみると、思いのほか、そうであることが分かりました。ああいった形で誘導しておきながら、いざ消費者になると、患者は何も分かっていないとか、患者に勇気がないと責められるのです。「患者はこうあるべきだ」というのを医師や国が分かっているのなら、そうなるような情報の伝え方をするべきだと、被害が無くなるためにはどうしたら良いかを考えると、そのように思います。

小林
 僕にとって「専門家」ということで印象的なのは、「HIVの感染者はいるがエイズは発病していないから、日本にエイズはいないんだ」と言い切った専門家集団の言葉、そしてそれに対して誰も意見をしなかったということに、閉鎖的なシステムがあると感じます。上が言ったことに対して、下から意見できるような状況が必要であると思うし、そうならなければ、何も変わらないでしょう。

松浦
 薬剤師というのは、数年前までは処方箋が出たら棚から薬を出して詰める「郵便配達」という比喩がされていたほどなのですが、最近になって「それではいけない」と、みんなよく勉強してがんばっています。ミスをする医者というのはいますから、薬剤師をはじめとする周りのスタッフがチェックするしくみというものが必要だと思います。

 患者の中には説明を聞きたがらない人も多いのではないかという話がありましたが、逆に言えば、それは医者の説明がわかりにくいということではないかと思います。私は、若い医者が患者に説明する場に立ち会ったりしますが、説明の中に英語がどんどん出てきたり、とても分かるはずがないような説明をしているのです。また、患者が検査の結果にとても不安を持っている場合、医療者は「そんなことはないですよ」と反論してしまう、言いくるめてしまうような方向で説明してしまうわけです。私はHIV診療に関連してカウンセリングの勉強もしましたが、そういった中で患者の不安を理解しながら話をすると、全然雰囲気が違います。そういった、医者のトレーニングは非常に重要であると思います。

徳永
 1983年の時期の薬害エイズの責任について私は考えるのですが、警告が無かったという点に、責任の所在を求めるべきであったと考えます。1983年、またそれ以降の、状況が変わってからの責任の追及は違ってきます。「あの時どうすれば良かったのか」という問題は深いので、情報提供をすればいいのだとは思えません。もちろん、最低しなければいけないことはありますが。

花井
 最後に小林さんにお聞きしますが、先ほどの話に、自分が告知を受ける前に、病院の紹介状の中に告知の事実が記載されていたとありましたが、今思えば、ストレートに告知をして欲しかったと思いますか。

小林
 確かに告げられる前は怖くて仕方なかったですが、告げられた後は「もっと早く言ってくれれば」とも思いました。告知の基準がよく分からないですね。私の場合は20歳の誕生日に告知を受けたのですが、医者は「20歳を過ぎたら責任能力があるから告げた」と言ったのです。犯罪者じゃないんだから、責任能力があるとか言われても困るわけです。カウンセラーと相談して個人の状況を見極めて、とかではなくて、「誕生日だから」という簡単な理由で決められたという、これが専門家か?と驚くほどです。

花井
 全体のお話を理屈でまとめることもできますが、今日はそれぞれの立場でリアリティのある話ができたのではないかと思います。