医療現場は薬害を防げるか!?:第1部  講演 勝村久司氏 | ネットワーク医療と人権 (MERS)

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医療現場は薬害を防げるか!?:第1部 講演 勝村久司氏

医療シンポジウム「医療現場は薬害を防げるか!?」
第1部【勝村久司氏  講演】


≪講演者≫ 陣痛促進剤による被害を考える会  勝村 久司(かつむら ひさし)


大阪府立高校・理科教員。1990年、長女(星子[せいこ])を出産時の陣痛促進剤による被害で亡くし、以降、医療裁判や市民運動に取り組む。「医療情報の公開・開示を求める市民の会」事務局長、「陣痛促進剤による被害を考える会」世話人、「全国薬害被害者団体連絡協議会」副代表世話人などを務める。

【著書】
◇『ぼくの〈星の王子さま〉へ ~医療裁判10年の記録~』
【編著書】
◇『レセプトを見れば医療がわかる』 発行/メディアワークス 発売/角川書店
【共著書】
◇『病院で生むあなたへ ~薬漬け出産で泣かないために~』
◇『薬害が消される!~教科書に載らない6つの真実~』/さいろ社

本講演の参考資料 資料1 資料2


          勝村 久司 氏

 ただ今ご紹介に預かりました、勝村です。どうぞよろしくお願いいたします。

 MERSの花井さんとは全国薬害被害者団体連絡協議会などでも時々お会いしますが、非常に刺激となる、問題の本質に迫るいろいろな議論をしていただいています。今回のテーマも、〈医療現場と薬害〉ということですが、また新しい視点で、いろんな問題に取り組まれているのだなと思いました。そこで、私なりにもそれに関わる意見が言えればと、改めて考えさせていただいて、今回の講演のレジメを作らせていただきました。

 まず、自分はどういう経験をしてきたのかということからお話しをさせていただきます。

 ちょうど10年ほど前、私の1人目の子どもの出産のときに、陣痛促進剤による典型的な薬害被害を受けて、子どもを失うという経験から、医療の問題に関わってきました。

 《1990年12月3日》普通お産というのは、40週目が予定日となるわけですが、直前になると、1週間おきに定期検診があります。妻はこの日38週の定期検診、つまり、予定日の約半月前の定期検診で市民病院に行きました。ところが、その日主治医から「赤ちゃんが産まれかかっているから入院しなさい」と言われたのです。妻もいろいろ本を読んだりしていたので、赤ちゃんが産まれかかってくると、例えば胎動がなくなってくるとか、お腹が下がってくるとか、ある程度の知識がありました。そういう前兆が全くない、何らお産が始まりかかっているような感じは一切ないのに、主治医が「お産が始まりかかっている」というのは納得できないわけです。ですが、とにかく入院しなさいと強引に言われ、妻は「これは念のための早めの入院ですね?」と最後に念を押すと、主治医は「そう思っていただいて良い」と言い、入院ということになりました。とても急な入院でしたが、妻は自分一人で入院をしました。

 その日の夕方くらいに私の職場に電話があって、実はこういう理由で今日入院したと連絡がありました。夕方に私は病院に行きましたが、妻は、お産しかかっているというのは納得できないという話をしました。お産はまだまだだと思う。きっと暇だろう、念のための早めの入院だから、と言うわけです。それで私も、毎日帰りに寄るから今日は帰ると言って、その日は面会時間終了の放送でさっと帰りました。

 ところが家に帰って夜中の2時頃、妻から電話があり、「実は、信じられないけど、お医者さんの言われたとおり陣痛がきた」と言うのです。妻が「みんなまだまだだと思っているので、家族に電話してください。」と看護婦さんに言っても、「この病院では生まれてから電話をすることになっています。」と言って電話してくれない。妻は何とか連絡しなければと、陣痛と陣痛の間欠期にそっと陣痛病室を出て、公衆電話まで人目を忍んで電話をかけに来たということでした。

 看護婦さんはいろんなひとが入れ替わり立ち替わりに来るけど、みんな「明日の昼頃に産まれるだろう」と言う。陣痛は、本で読んだのでは最初15分間隔から、とあったのに、いきなり8分間隔できて、電話をしているその時はもう5分間隔だと。妻はそこまで早口で話をし、電話を切りました。そして私は翌日の朝、両方の母親に電話をして、すぐに行ってあげてくれと連絡をしました。私は先ほど紹介していただいたとおり、高校の教員をしていますから、その日の時間割はよく覚えています。3時間目までの授業が終わって11時過ぎに学校を出て、という予定でいました。すると11時過ぎ、今から病院へ向かおうとしているとき病院から電話があり、赤ちゃんが出ようとしたら何故か心拍が弱まるという繰り返しなので、帝王切開をさせてもらうという連絡が入り、よろしくお願いしますと言わざるを得なく、必死の思いで病院に向かいました。

 病院へ行くと、妻は手術室からぜんぜん出てこなくて、やっと出てきたときには、まさに死に顔のような顔をしていました。DICという状態で、出血が止まらず、血圧も70、60、50と低下していくという状態でした。その時主治医が、私のところにやって来てどう言ったかというと、「赤ちゃんはたぶん、だめでしょう。お母さんは2、3日が峠です。お金が何百万かかかるので用意してください。」漫画みたいな話ですけど、本当に最初にお金の話をして、「何なんだ!?」という思いでした。そしてやはり子どもは、産まれたとき、呼吸も心拍も0。ところが、30分後に心臓が甦生して、生きてくれました。でもだんだん顔がむくんできて、おしっこも出なくなって、9日後に腎不全ということで死亡しました。 妻も2、3日が峠と言われ、一時は子宮を全摘出手術するという承諾もさせられましたが、幸いに、大量の輸血をし、偶然ですが、私が400mLぐらいを輸血したあたりで出血が止まり、快復してきました。1年間くらいは肝臓の値にいろいろ問題がありましたが、幸い快復しました。

 妻があのまま亡くなってしまっていたら、まったく何がなんだか分からなかったと思います。幸いにも妻が快復し、一言目に言った言葉が、元気に出産できなかったことを「申し訳ない」と言うのです。「あの苦しみをとても我慢できなかった。世の中の、子どもを産んだ女性が、みんなあんなしんどいことを我慢したんだと思ったら、尊敬してしまう。私には耐えられなかった。まだ子宮口が全然開いてないのに、どんなに我慢しても耐えられなくて息んでしまった。」と、非常に残念がるというか、自分を責める言い方をしたのです。妻は私の高校時代の同級生なのですが、マラソン大会で優勝したり、根性ということでは非常に優れている点があったので、それが耐えられないというのはどういうことかと思いました。そして次に、「陣痛が異常だった。電話をした後で、陣痛が強い弱いがあるだけで、間欠期がなくなってしまっていた。初めてで、陣痛がどんなものかわからなかったから、ずっと我慢していた。お医者さんはなかなか来てくれなかった。翌朝も、助産婦に何度言っても、『まだまだだから、産まれるのは昼だから、まだ子宮口も開いてないし、我慢しなさい。』とだいぶしかられ続けた。子宮口が開いていないのにこんなに陣痛がきているのが心配なのに、『子宮口が開いてないからまだまだだ、我慢が足りない。』としか言われなくて、陣痛が起こっていても一切診てくれなかった。ようやく9時過ぎに、入院を指示した主治医が入院してから初めてやって来た。その時も非常にしんどかったけれども、陣痛が異常だ、おかしいと思うということをちゃんとここで伝えなくてはと、痛み、苦しみを堪えて、その主治医に一生懸命話をした。すると主治医は一言、『これだけ話ができるというのは、陣痛が微弱すぎる。陣痛促進剤注射』と、追加で筋肉注射を打たれて、あれでいよいよおかしくなった。もう、気絶しないのがやっとだった。」という話をしました。

 そこで〈陣痛促進剤〉という言葉が出てきたので、たまたま私は妻の妊娠中に、朝日新聞の家庭欄で陣痛促進剤の特集記事を見ていて、妻に「大丈夫か」と聞いたことがありました。妻はその時、「私の主治医は病院全体の副院長でもあって、病院の母親教室にもいつも出てきて、『うちは自然分娩を大事にする』と言っているから大丈夫だ。」と言っていました。そういうことを聞いていたにもかかわらず、その陣痛促進剤を打たれた、ということになったわけです。そして朝日新聞に電話をして、その記事が掲載されている新聞を調べてもらい、そこに載っていた〔陣痛促進剤による被害を考える会〕に連絡を取りました。そこにはたくさんの被害症例が集まっていて、それを全て送ってもらいました。それを読むと、その被害の内容が全て同じなのです。異常な陣痛がきて、必死で訴えるのに、『我慢が足りない』と叱られ続け、その結果、子どもが重度の脳性麻痺で回復不能になったり、死亡してしまったり、そして母親もDICになって子宮を取られたり、取られそうになったり。全く同じようなことが日本中で起こっているということが、その被害者たちの手記で確信したのです。被害者たちは、個々に裁判を始めている時期でもありました。

 私は心の整理がつくまで、ある程度時間がかかりましたが、ある段階で「子どもが生きていれば、育児にかけた時間があったはずなのだから」と、その時間を裁判なり、市民運動にかけていくことができるのではないかと思いました。せめて、子どもの死が無駄にならないようにという思いで、他の被害者の方たちと一緒に、市民運動や裁判に関わっていくことになりました。

 陣痛促進剤の被害とはどういうものなのか、ということですが、その後分かってきたことは、陣痛促進剤というのは、病院の経営に於いて一石三鳥とも言える、非常に合理的であるということです。どういうことかというと、裁判の中でその主治医の副院長は証言するわけですが・・・。その前に、私はお金のことをいきなり話したその主治医とは二度と話をする気にはならなかったのですが、婦長や、私の子どもが9日間集中治療を受けていた小児科の医者に同じ質問をしました。「妻は『陣痛促進剤を打たれてからいよいよ我慢しきれなくなった。』と言っているから、陣痛促進剤が原因で死んだのではないか。」すると2人からは同じ答えが返ってきました。「あの薬は全員に使っている薬だから、関係ない。」「それは話が違う。母親教室でも自然分娩を大事にすると言っていた。」裁判の中でもそのように言うと、副院長は「本当のことを言うと、患者が不安がるからだ。だから母親教室では陣痛促進剤を使うことは言わなかったが、全員に使っていた。」と認めました。ですから枚方市民病院は、全員に陣痛促進剤を使っていた。つまり必要のあるなし、適用のあるなしを抜きにして、全員に使っていた。それは何故なのか。まず、お金の話をいきなりしたことはおかしいと思ったこと、また、「公立病院もけっこう経営のことばかり考えている」という情報をいろいろ頂き、「枚方市民病院もそうなのではないか。病院も会社だから、お金儲けに必死なんだろう」という話を聞いて、私は枚方の市役所へ、市民病院の経営について調べに行ったのです。すると、私たちが被害に遭う数年前、枚方市民病院は市議会である議員に、「枚方市民病院は3年間で24億の赤字を出している。どうするつもりなのか。」と問われ、市長は病院長、副院長、事務局長を全て入れ替えて、「3年間の赤字を10年間で取り返す」ということになったのです。そして実際、その後毎年2億から5億の黒字をずっと続けていき、その4年目くらいが私たちが被害に遭った年なのです。ですから私たちの主治医である副院長は、まさに赤字を黒字に転換するために、黒字経営をするために、やって来た経営者の1人であったわけです。副院長がどのようなことをするとどう儲かるのかというと、市議会で約束したのは薬価差益の増額、患者の増、人件費の削減、この3本柱で赤字を回復するということでした。薬価差益増、という意味でいくと、陣痛促進剤なんて本当はお産には必要ないのに、全員に使うわけですから、使うときは何か病名をつけるわけです。どんな病名かというと、〈微弱陣痛〉、「入院したのに陣痛が起こっていないのは微弱だ」、こういう言い方を裁判の法廷ではしていましたが、陣痛も起こっていないのに入院させたのはそっちだろうと言いたい。それでも微弱陣痛ということで全員にその薬を使って、もちろん薬価差益が入ってくるわけです。

 それと、陣痛促進剤を何のために使うのかといえば、「お産を全て平日の昼間に持っていく」ということなのです。そうすると、夜間、日曜祭日の人件費を削減することができるというのです。実際、当時枚方市民病院では、夜間の助産婦は、「新生児室と掛け持ちで1人」という言い方をしていました。新生児室というのは離れるわけにはいかないので、つまり、夜間のお産は一切していなかったということです。そのようにするためには、陣痛が来てしまってからではコントロールできないわけですから、予定日より早めに、何やかやと理由をつけて入院させて、陣痛促進剤を使って平日の昼間に出産させる。平日に産ませるためにはいつ入院させるのかというと、土日が過ぎた月曜がいいわけです。私の妻も月曜日に入院させられました。そして出産は火曜日の昼間、それも外来が終わった昼の2時頃がいいわけです。私の妻の場合も、まさに火曜日の昼間だったのです。

 陣痛促進剤の実態について(資料1:朝日新聞の社説『危険を直視しよう』中のグラフを見て)、日本の出産状況は、毎日約3千人くらいの子どもが日本全国で産まれています。ところが、それを日別にすると、日によって出生数が全然違うのです。このグラフは、ある年の年末から年始にかけてのものですが、断然多いのが火曜日、一番少ないのが日曜日です。だいたい火曜日の平均は3700人くらい、日曜日はだいたい2500人を切るくらいなので、1000人以上の差があります。病院の都合でそうやって産まされているということです。特に年末になってくると、お正月は大量に休まないといけないので、知らない間に、ものすごく陣痛促進剤を使われているということになります。年末やゴールデンウィークにあたらない平常の時には、火曜日にピークがあって日曜日に減って、というきれいなリズムになっています。

 もう一つ、資料中に『赤ちゃんは「おはよう」が好き』という毎日新聞の記事があります(資料2)。その中に二つのグラフがありますが、そのうちの一つは、1984年から1993年の10年間の病院+診療所での時間別出生データです。ご覧いただいてもわかるように、お昼の2時の出産が断然多く、時間別に見ても10年間で88万6763人です。夜間のお産はその半分以下です。私たちもこれだけ陣痛促進剤の被害者運動をやっているわけですから、このグラフが少しでもゆるやかになってもらえればと思っています。そして毎年厚生省から出産データを取り寄せて、グラフを作っていますが、今もこの状況は全く変わっていません。

 もう一つのグラフは、同じく10年間の助産所のみの出生データです。このデータを見ると、病院のようにお昼にピークがあって夜中が少ないというのとは、全く違っています。これが人間の自然なお産のリズムだと思うのですが、夜明け頃に増えて、夕方頃に少し減るけれど、そんなに差はないということです。私は地学の教師をしているので、自然のお産には月との関係があるのではないかと随分調べているのですが、今のところそういったデータは出てきていません。しかし、太陽との関係は出てきています。こういった自然のものと比べると、病院というのはかなりお産を操作しているということです。

 これだけ知らない間にお産を操作されていても、皆が皆、被害に遭う訳ではないというのはどういう理屈なのかというと、実は陣痛促進剤被害に関しては、昭和49年の段階で初めて、当時の『日本母性保護医協会』という産婦人科の団体が、日本中の全ての医者に対して、子どもに教えるようなマニュアルの冊子を全ての産婦人科医に対して撒いています。そこにはどう書いてあるかというと、「陣痛促進剤による被害の副作用で、胎児仮死、胎児死亡、母親死亡が頻発しているので、充分気をつけられたい。陣痛促進剤を使用する場合は、1分間に3滴の点滴から始めなさい。最大使用量は薬の添付文書に書いてある量の半分までしか使ってはならない等、いろいろ書いてあるわけです。ところがこれは、看護婦や助産婦にこういった事故が起こっていることは知られてはいけないと、極秘で医者のみに撒かれているというものでした。ここには「この薬はなぜ怖いか」ということも説明されていて、「この薬は人によって感受性の差が200倍以上といわれる。感受性の差がすごく激しい薬であるから、事故が起こっている。そのため充分に気をつけなければならない。この患者は感受性が高いか低いかを見極めるまで、1分に3滴の点滴から始めなさい。」と、このように書かれているのですが、そんな説明はきちんと読まないわけです。それで、とにかく陣痛促進剤は便利であると、「人件費は減らせる」「お産を好きな時間にもっていける」、まして初産というのはすごく時間がかかるのですが、促進剤を使うとあっという間に、2時間ぐらいで産まれるのです。そのかわり、無理矢理産まされているわけですから、子宮口などは大変で、それをはさみで切って無理矢理出すということになるわけです。それも何センチ切ったかで値段が上がっていくということで、やればやるほど儲かっていくという感じで、産科医療というのが、本当の「子どもを大切にする」ということから、お金儲けをする「経済性」へと、かなり歪んできたということがわかってきました。

 妻の場合は、不幸にも感受性が非常に強かったのだということになります。妻の場合、陣痛が微弱であると言われ、陣痛促進剤を追加されたその時の薬だけが陣痛促進剤だと思って裁判を起こしたわけですが、証拠保全してカルテを取り寄せてみると、入院してすぐに、「子宮口を柔らかくする薬です」とだけ説明されて投与された薬が、実は『陣痛誘発剤』という陣痛促進剤でした。その薬で陣痛を起こしておいて、翌日の朝方くらいに様子を見て、遅れてそうなら促進剤を無理矢理追加して、とにかく昼間に産ませようとする、ということも分かってきました。被害者同士で話をすると、そういったことが日本中で行われ、同じ台詞で同じように騙されているのです。私たちが被害に遭ってから、妻の友人や私の知り合いなどいろいろな人と話をしますが、「私は陣痛促進剤は使われなかった。でも子宮口を柔らかくする薬というのは飲まされた。」それはどんな薬かと聞くと、「白い錠剤を1時間置きに1回ずつ飲んだ。」それが陣痛促進剤であると言っても、そんなはずはないと皆言い、その時の医者や看護婦の言葉を信じてると言います。そんな状況ですから、陣痛促進剤が知らない間に乱用されているという事実は、ほとんど社会に知られていないのです。だから私も妻も知らなくて、被害に遭って初めて分かったのです。

 昭和49年に初めてこのような冊子が撒かれているということは、昭和46年から昭和48年頃はものすごく被害が出ていたはずです。当時は医療裁判を起こすなど、とんでもないことでした。ましてやお産のことですから、女性問題云々もあるかもしれませんが、元気な子どもを産めなかったことで被害者自身が責められたりということもあったのです。また、脳障害を持って産まれてくる場合もあります。陣痛促進剤の副作用というのは、低酸素脳症、つまり、陣痛が来て赤ちゃんが押し出される時というのは、赤ちゃんに酸素がいかないのです。自然分娩の場合、必ず産まれるまでに間欠期というのがあって、一瞬陣痛がなくなります。そこで深呼吸をして酸素を入れて、そしてまた息を止めてがんばる、そしてまた間欠期があって深呼吸をするわけです。陣痛促進剤の場合は子宮障害を起こさせ、この間欠期がなくなり、ずっと酸素がいかなくなるのです。そうすると、胎児は予備脳といって、全身の血管を収縮させて、脳にだけは酸素を送ろうという機能を働かせ、それでけっこう助かることもあるのですが、それでもほっておかれると、ついに脳もやられてしまい、陣痛促進剤の被害の結果は脳性麻痺なのです。日本中の脳性麻痺の子どもたちが、全て先天性であるとされている場合が多いのですが、そのうちのどれだけが陣痛促進剤による被害であったか、カルテを見直していくということは、非常に大切なことだと思います。

 お産の時に母親が死亡する率が、先進国の中では日本は非常に高いのですが、ある産科医が3年ほど前に、そのカルテを2年間分、230件ほど取り寄せて分析し、その原因が明らかに陣痛促進剤と関係していることを発表しました。その医師たちが脳性麻痺の子どもと陣痛促進剤の関係を研究したいと、厚生省にどんなに申請をしても却下されて、その研究は成されていません。10年前くらいから被害者たちが立ち上がり始めました。私たちの事故の2年前に「陣痛促進剤による被害を考える会」ができていたので、私たちも情報を得ることができ、私たちの事故の翌年くらいには「医療過誤原告の会」が結成され、私たちも最初から入ることができたし、被害者たちがカミングアウトすることができました。一つ一つの医療裁判であると同時に、同じような構造で被害に遭った者たちが繋がっていくという形ができ、そのような時代になっていたので、ある程度スムーズに問題を理解できたし、訴えていくこともできたのかと思います。

 裁判では、薬害HIV訴訟弁護団でもあられる石川寛俊先生が私の担当弁護士でした。しかし裁判は、一審で完全敗訴します。裁判の中ではカルテの改ざんが明らかになって、副院長自身も「その改竄は事務が勝手にやったんだ」と発言したり、さっきと話が違うのではないかと証言中に裁判官に指摘されたり、石川先生の尋問も非常に的を射ていて、傍聴している誰が聞いても、この裁判が負けるわけがないというぐらいな感じで進んでいました。しかし、結審の間際で裁判官が3人とも交代してしまうということがありました。交替後の裁判官たちは、膨大な資料が残っていても、既に証人尋問は終わっているわけですから、きちんと資料も読まず、和解を進めるわけです。被告は和解をしたがっていました。私たちの子どもは既に亡くなってしまったわけですから、私たちの目標は、この子の事故を教訓に、今後被害が無くなるようにして欲しいということです。ですから、和解勧告で裁判長に呼ばれたとき、それは絶対にできないと言いました。しかし裁判長は、全く私たち夫婦の目は見ないのです。その後、弁護士だけ残れということで私たちは出されました。弁護士は裁判長に何を言われたのかというと、「1ヶ月後にもう1回和解の期日を設けるから、それまでに2人を説得するように言われた」と言うのです。また、ニュアンスとして、「和解しなければ裁判は負けにする」というくらいの言い方をされたということでした。どうせ勝っても控訴されるだろうということで、負けを覚悟で、一審では「和解は絶対にしません」と言いきりましたが、ちゃんと話もしなかったような状態で、完全敗訴にされたのです。高裁では、途中2年間裁判長も替わることなくずっと話を聞いてくれたので、ほぼ完全で逆転勝訴することができました。病院側は上告せず、確定しました。それが、1999年の3月です。

 この10年間でいろいろ医療の市民運動に関わっていくわけですが、この裁判の間にもいろいろなことがありました。2人目の子どもは無事産まれたのですが、3人目の子どもを出産するときに、まさに陣痛が起こってきた段階で、いざというときは帝王切開をしてもらおうと思っていたのですが、1人目の子どもの出産時、もう赤ちゃんがだめになってから最終的に帝王切開をして、その時の傷跡で子宮が破裂してしまって、3人目の子どもが重度の脳性麻痺になって、2年半で亡くなるという経験をしました。

 私の経験からもう一つ、医療現場について思ったことをお話しします。3人目の出産のため、私たちは裁判にも協力してくれる、良かれと思う医者へ、かなり遠いところまで通っていました。そこでは、妻に対して搾乳をさせました。子どもは重度の脳性麻痺で、ほぼ植物状態ですから、気管切開もされているのでチューブで胃に送るのです。搾乳というのはとてもたいへんなことらしく、いろいろな医者や知人から「無理に搾乳してはいけない」と言われましたが、その病院では特に進めて搾乳をさせられ、そして4ヶ月間、妻は搾乳を完璧にやり続けました。よっぽど母乳を大事にしている病院なのかなと思ったら、ある時、新生児室にいっぱいいる子どもを改めて見てみたら、みんなが必ず母乳をやっているというわけでは全くなかったのです。うちの子はすごく大変な状況にあるのに、とにかく母乳母乳と搾乳を進めて、それがうちの妻にだけそうであったということがわかったのです。その理由を聞くと、妻は3人目の子どもが、いよいよだめであろうと宣告を受けたときに、涙を流さなかったと言うのです。それで、その時の看護婦さんが「母性が足りないのではないか。」ということを申し送りしてきて、「あのお母さんにもっと母性をつけさせなければいけない。」ということが医療現場の申し送りで、彼女たちの課題になるわけです。そのため「なんとかあのお母さんに母性を」と、泣かせよう泣かせようとしたり、搾乳させようとしたり、彼女らは良かれと思ってやっていたのです。それはどういう間違いかと言えば、例えば「母性が足りないのではないか」と思ったなら、それを自分たちだけで解決しようとせず、どうして本人と会話しようとしないのか。本人を遠くから監視するというだけで、ぜんぜん会話をしようとしないから、いつまでもそういう誤解をされ続けると私は思うのです。医療現場で起こる、そういった食い違いによって、ケアというものの本当の意味を考えさせられました。

 私は陣痛促進剤の被害について厚生省と交渉してきて、また、様々な医療被害、薬害被害に遭われた人たちと出会いました。一つの薬害や医療被害が無くなったとしても、同じ構造で被害は繰り返されてきたんだ、またこれからも別の薬害が繰り返されていくんだということがわかってくると、やはり何か、もっと本質的な構造を変えていかなければならないということにみんなが行き着くのです。私たちも「医療情報の公開・開示を求める市民の会」というのをつくったり、やはり被害者同士の連携というのは非常に大切だということをいろいろな意味で感じてきました。

 そうしているうちに裁判には勝ったわけですが、裁判で勝つことを目標にやってきましたが、勝つや否や、非常に何か物足りなさを感じたのです。勝った瞬間に全てが終わるのです。裁判所は公判も開かないし、弁護士とも別れ、それで枚方市民病院はどうかというと、何も変わっていない。事実、何も変わっていないのです。和解であれば和解協議で約束もあったかもしれませんが、約束事もなければ何を変えるという話もなかったのです。これではだめだ、もうひとがんばりしないといけないと、枚方市民病院と、独自で交渉を2年間続けました。まず、何よりもして欲しいことを訴えていこうにも、このような被害があったことを市民病院の中の誰も知らないのです。新聞を少し読んで、「何かこの病院を訴えている変な奴がいる」くらいの印象でしかなくて、どんな被害が起こっていたのかは誰も知らなかったのです。被告になっている医者ぐらいは知っている、という状態です。一つの被害を簡単に忘れられてしまっては、私たちの思いが果たせないのです。市民病院は当時、職員研修は一切していないということだったので、私たちは年に1回、子どもの命日に職員研修を開いてほしいという要望を枚方市長宛に出しました。研修を開けることとなり、新聞報道をされたりもしたのですが、実際に子どもの命日、第1回目の研修のときに私たちは出てはいけないということであったし、内容も病院側が決めるということでした。研修直前にわかったことは、研修での講師は、私たちが求めてきた『レセプト開示』、『遺族へのカルテ開示』に非常に反対を主張していた人で、その人は私に対しても個人的に批判されていると、人づてに聞いていました。医療被害者たちに対する偏見のような発言をする人が、子どもの命日に行われた研修の講師だったのです。妻もそのことに対して憤り、深夜、私の知らない間に3枚の手紙をFAXで市民病院へ送りつけていました。そのようなこともあり、いよいよしんどいなと、裁判で勝っても、これでは何が医療を変えられるのかという感じでした。

 その翌年の6月に枚方市民病院の院長が逮捕されました。これは非常に大きなニュースでした。ある被害に癒着が絡んでいたことが明らかになり、病院内の多くが処分されるという事件が起こり、1ヶ月間くらい新聞などで報道されました。いよいよ枚方市民病院の信頼が地に落ちたのです。病院側も、信頼を回復しなければいけないということもあって、去年の命日、ちょうど10年目の命日となるのですが、その年の職員研修に私たち夫婦が呼ばれました。当時の被害の話をさせてもらうことができ、10年経ってようやく被害をみんなに分かってもらうことができたのです。以上がこれまでの経過です。

 私の陣痛促進剤被害者の立場から、どういう論点が必要で、どんな問題解決が必要なのかをお話させていただきます。まず、なぜこういうことが起きるのかということには二つあると思うのですが、一つは「医療の経済システムがおかしい」ということです。経済的に、現場に対してとても不自然なプレッシャーがかかっていると思います。儲けなくてはいけない。そのためには薬価差益の増額、患者増、人件費削減を行って、さらに集中治療となるとますます儲かる。患者を増やすためには少しくらい事故が起こった方がいいわけです。製薬会社は世界的にも非常に黒字です。当時は医師の中にも、場合によってはまるで製薬企業の営業マンのようなことをさせられている人もいました。でもまあ、ある程度の収入を得ているから文句も言わない。だけど病院の経営は四苦八苦、公立病院は赤字になっても何とかなるだろうと、いい加減である。そのような感じで、何か経済的におかしいのです。私たちとしては、初産で時間がかかっても、たとえ夜中であっても何人も助産婦がついてくれてきちんと分娩してくれる病院があれば、ほんとうにありがたく、たくさんお金を支払いたい気持ちです。でも現実には、そういう病院には私たちの健保組合から全然お金が支払われない。陣痛促進剤や帝王切開を頻繁に行う病院にたくさん支払われるのです。医療に対する単価が医療の価値観を決めてしまって、その価値観が実際に医療を受ける立場の患者と全然違ってしまっている。だから、私たちの満足できる、納得できる医療には全くならないのです。

 こういった一連の医療事故は最近でも頻発していますが、例えば、横浜の患者取り違え事件でもよく言われていることですが、何人もの人がおかしい事態に気づいていた、でも言えなかったというのです。私たちの場合も、後で妻から聞いた話によると、副院長の言うことに、他のスタッフはちょっと危険ではないかとニュアンス的に言いかけはするけど、ちゃんとは言えない。それでもどうしていいかわからない状況でどんどん人が集まってきて、最後に入ってきた一番若い看護婦さんがその事態に叫んだといいます。それでやっと慌て始めたのです。副院長に対して「おかしい」ということが言えない権威主義、封建制が促進剤被害ではパターンとなっています。

 きっかけはお金儲けであり、医療の現場が民主的でないために、おかしいことがまかり通って誰も止められない、これがもう一つの原因であると思います。

 それをなぜ繰り返してしまうのか。最初に被害の実態が日本中の産科医に撒かれてから15年経って、私たちは被害に遭い、それから10年経っても、残念ながら、こんなに市民運動をしていても、今も促進剤被害の連絡が入り、提訴する人がいるのです。被害を排除する姿勢、被害者とは無縁に医療を進め、被害者の声を聞こうという発想は全然ないのです。HIV訴訟の原告団が今日この会を開催しても、もしその近くで医師や看護婦たちを対象とした学会のような集まりがあれば、そっちの方へ行ってしまうでしょう。被害から学ぶということをしないで、被害を別世界のこととしてしまうから、繰り返されてしまうということに、気づいて欲しいと思います。

 そういうことが起こっていても、一般に知らせないという閉鎖性も繰り返される要因です。本当に知れ渡っていけば防御できることもあるでしょう。医療現場には民主的な人間関係を持ってもらうことが大切だと言えます。医療側と患者側の関係も民主的になっていかないといけません。現場がちゃんと話ができる状態をつくっていく。そのための基盤として、全員が情報を共有していないといけないのです。情報の公開や開示がきちんと実現された中で、民主的な人間関係がないと、改革は進んでいかない、変化は起こってこないと思います。

 情報公開については、当たり前のことが全くできていないことがよくわかります。情報公開法が制定されたのも、ようやくカルテ開示、レセプト開示されるようになったのも最近の話で、まだカルテは遺族には見せないと、日本医師会はがんばってます。このことを見ても、被害者たちがどれだけ努力してきても、ほんの少しのことがやっと実現する、という状況です。こんな状況であるから、これまで薬害被害が繰り返されたのでしょう。

 10年ほど前、私たちが被害に遭った直後くらいに、インフォームドコンセントという言葉が流行していました。当時、弁護士や心ある医師たちががんばってくれたおかげです。でも、だんだん違ってきたことがありました。それは、インフォームドコンセントを実現して、その後カルテ開示を、という順番で運動していこうということでした。

 しかし、私たちとしてはまず、レセプト開示が一番最初に大事なのではと、ずっと主張してきました。その当時はまったく受け入れられなかったのですが。でも、レセプトもカルテも見られないのにインフォームドコンセントを求めようとか、賢い患者になろうとか、それは無理だろうと私たちは言いました。特に私たちがカルテではなくレセプトを、と言った理由は、カルテにはお金については書かれていないけど、レセプトには単価が記されているからです。単価がおかしい、そこの価値観がおかしいというところを追求しないと本当の改革はないだろうと、レセプトにこだわってきたのです。よくオセロゲームに例えるのですが、インフォームドコンセントをとるということは、オセロの真っ黒の盤面の、真ん中を白に変えるようなもので、オセロでは真ん中を白にしても勝てない。全体を変えるには、角をとることが大切です。レセプト開示を私たちは角にあたると思っていました。逆に、先に真ん中を変えると取りにくいのです。インフォームドコンセントが進められていた時代に、一部誤解を招くくらい「インフォームドコンセントなんかいらない」という言い方をしたことがあります。インフォームドコンセントこそ、オセロの中央であり、一番大切なのですが、だからこそ、そこだけを取るのではいけない。まず、角にあたるレセプト開示から取っていき、そうすれば当たり前のようにカルテは開示される。そうすればインフォームドコンセントは自然にできてくるものだと思っていました。

 現在ではレセプトが先に開示されるようになりましたが、これまでに随分議論があったわけです。

 カルテ開示については、病名告知や遺族への開示が今問題になっています。去年、日本医師会のカルテ開示の担当をしている西島という常務理事とBS討論という番組でカルテ開示の問題について議論したのですが、未だ「告知の問題があるから」とか「遺族へ開示すると信頼関係が崩れる」と言うのです。

 「告知」というのは、私も教師をしていていろいろたいへんな場面もあります。でも、そこを避けてはいけないのです。簡単なことであると言っているのではなく、医療現場に於いても一番大変な問題だと思います。だからこそ一生懸命やって欲しい。そこが人間相手に仕事をしている人にとって、一番大事なところなのですから。相手のことを考えて、一生懸命やれば、言葉が上手くなくても伝わるはずです。精一杯やることが信頼関係につながる、それが告知には大切だと思うのです。

 カルテ開示法制化の是非についてですが、心ある医師からけっこう反対の議論が出されます。「法律によって無理矢理するものではなくて、医者が自主的にやっていくことが本当の信頼関係だ」と言われるのですが、確かに被害というのは一部で起こっていて、私たちはその一部の悪質な部分にスポットを当てて「法制化を」と言っているのです。これだけ民主主義社会が成熟してきても、一部には被害者がいて、今はそういう一部の人たちのために求めています。例えばバリアフリーの法案にしても、「もうほとんどが便利になってきているじゃないか」というような議論でかわされてしまいます。法制化というと、みんなに強制するものだというイメージがありますが、私たちの、「一部の困っている人たちをも助けるために、新たな法律が必要なんだ」という思いを分かり合えていけたらと思います。

 陣痛促進剤の添付文書(能書)の最大使用量が一挙に半分以下に大幅改訂されたのは、最初に日本中の全産科医に注意書きが配布されてから20年後のことでした。今も必要な改訂や指導をせずに被害を繰り返させています。

 陣痛促進剤被害は「医療被害」でもあり「薬害」でもあるのです。