MERSシンポジウム2007 開催概要報告 | ネットワーク医療と人権 (MERS)

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MERSシンポジウム2007 開催概要報告

患者とは何者か?~患者-医療者間の『せつなさ』と『幸福な関係』~


(文責:特定非営利活動法人 ネットワーク医療と人権 事務局)

イントロダクション

 2007年11月3日に開催したシンポジウム「患者とは何者か?~患者-医療者間の『せつなさ』と『幸福な関係』~」の概要を報告致します。現在、本シンポジウムの模様をニュースレター・ホームページ等で報告するため作業を進めています。今回は、事務局からの概要報告という形でまとめさせていただきました。

<開催概要>
日時:2007年11月3日(土)13:00~16:40
場所:ドーンセンター4F 大会議室3
プログラム:
 第1部 基調講演 13:00~15:00
  「医療に哲学は必要か?」
    西川勝氏(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター 特任准教授)
  「医療者に対する当事者の違和感」
    ヨシノユギ氏(立命館大学大学院 先端総合学術研究科 在学)
  「医療、福祉、そして癒し」 
    田口ランディ氏(作家)
 第2部 パネルディスカッション「患者とは何者か?」15:10~16:40
  パネリスト:田口ランディ氏、西川勝氏、ヨシノユギ氏、日笠聡氏(兵庫医科大学血液内科)

 

 はじめに

 去る2007年11月3日、私たちはシンポジウム「患者とは何者か?~患者-医療者間の『せつなさ』と『幸福な関係』~」を開催した。72名収容可能な会場に、参加者、パネリスト、スタッフ合計110名以上が入り、立ち見が出るほどのシンポジウムとなった。

 第1部では、大阪大学コミュニケーションデザイン・センターの西川勝氏より「医療に哲学は必要か?」、立命館大学のヨシノユギ氏より「医療に対する患者の違和感」、田口ランディ氏より「医療、福祉、そして癒し」というテーマで基調講演をいただいた。第2部では、基調講演をいただいた3人に加え、医療者の立場から兵庫医科大学病院の日笠聡氏をパネリストに迎え、「患者とは何者か?」についてパネルディスカッションを行った。

 第1部では、西川氏は「患者になること」とはどういうことかと問いかけ、人の生き死に・生命は答えのあるような試験問題ではなく、分からないこと・答えのないことを考え続けていく必要性・大切さを訴えた。ヨシノ氏は、人によって望む医療・望む身体は、グラデーションがあって多様であるはずなのに、男女という精神的にも身体的にも絶対的に二元化しようとする法律・世間のあり方に疑問符を投げかけた。田口氏は、父親の骨折入院・転院がきっかけとなった「病院探しの旅」という実体験から、現在の医療・介護に携わる人たちへのメッセージを、そして「患者となってしまった」時の医療者との向き合い方を訴えた。

 第2部のパネルディスカッションでは、「専門家の位置づけと必要性」、「ケアとキュア」、「診断基準の必要性と病名」、「日本の医療のゆくえ」といった視点から、「患者とは何者か?」「患者にとって幸せな『病気、病名、医療のあり方』」について、現場の考え方、患者からの意見を伺った。

 第1部 基調講演

「医療に哲学は必要か?」:西川勝氏

 西川氏は、これまでの看護助手から看護師時代の経験、精神病院や透析クリニックで向き合った患者たちのこと、哲学を学び、距離を置き、そして今、再び哲学に戻ってきていることを、何にも置き換えられない自分の経験から来る考え方を強く述べた。

 精神病院で自分の人生より長い間過ごしてきている患者と向き合い、また透析患者から意識がなくなったら透析を止められるような文書を一緒に書いてくれないかと言われ、これまでの知識や技術が全く役に立たなくなる経験をした。自分が白衣を着ている意味を考えたとき、哲学書を読むことから遠ざかって行ったとのこと。

 人が死ぬということは、医学によって先延ばしすることはできても、為す術はないという厳然たる事実があり、医師も看護師も患者も同じ立場で「分からないこと・答えのないこと」を考え続けていかなければならないとした。そして「毒矢が刺さって救いを求めている人に対する周囲の反応」という喩え話を取り上げながら、人が人を殺すといった社会へ無批判のまま、救いを求める人の命や傷を何とかするだけで良いという考え方では足りないと訴えた。

 「患者になること」とはどういうことか?多くの医療者(学生を含む)は「医学的な問題があって初めて患者になる」といい、往々にして医学的問題だけを見ている。しかしながら現実には、給料がいくらもらっているから医者に行けるとか、仕事を休んで病院に行けるのか、「患者」となる理由は様々である。「何故、この人は患者になったのか」とか、「分からない」ということを出発点として、話を聞くことを始めないといけないという。病気になったから患者になったという、画一的な医療コミュニケーションでは底が浅すぎるとした。人の命というものは答えのあるような試験問題ではなく、それらを考え続ける医療の哲学、臨床の哲学が必要であるという。

 誰の前に行って、何を聞いて、何を話したか、臨床哲学は「聞く」という位置に居ること。「医療に哲学は必要か?」というテーマにおける哲学とは、いわゆる医療倫理・生命倫理といったものではなく、「話を聞く」ところから始める臨床哲学ではないかとした。

「医療に対する当事者の違和感」:ヨシノユギ氏

 ヨシノ氏は、自分の身体と心の不調和・ちぐはぐさを感じ始めた10代から現在に至るまでの心情、そして社会=世間に厳然と存在する男女二元論や、医療者や当事者の間ですら性同一性障害の「着地点」を決定しようとすることへの違和感を訴えた。

 身体と心の不調和は自分の心に問題があると思っていたところへ加えて、中学・高校と持ち物への男女の色分けや、男子・女子のコミュニティへの従属といった、周囲の社会的性・ジェンダーへの考え方を突きつけられ、強烈な抵抗感があったことを話した。その後、「性同一性障害」という診断がついたことで一瞬の安心感が得られたものの、患者と言われることへの違和感を覚え、その診断名が自分のアイデンティティに成り得ないと考えるようになった。

 生物学的性(からだの性)、性自認(こころの性)、性的指向(誰を好きになるか)、これらは人それぞれバラバラの組み合わさり方があり、また生きていく中でも変動するもの・流動するものであると理解して欲しいと切実に訴えた。性という曖昧なモノ、一人一人の好み・個性を、医師そして患者自身が「障害」という枠に収めていき「性同一性障害」が生まれてきたとした。

 社会、特に医療者や当事者の間でも、例えば、乳房切除術の次は性器形成術を行い、「女」から「男」に着地すべきという固定観念が存在する。また戸籍の性別変更には、非常に厳しく乱暴な要件があり、あたかも男女という制度の中に押し込もうする圧力がある。本来、人によって、望む医療・望む身体というのは、グラデーションがあって多様なのに、男女という精神的にも身体的にも絶対的に二元化しようとする法律・制度が存在することを訴えた。当事者の間でも、多様な考え方があって、どちらかがどちらかに対して抑圧的になったり、規範の中に回収させたりすることがあり、自分としては居心地の悪さ・やりにくさを感じていると話す。

 自分として男女二元論に同化できないし、他人に男性と見られるか、女性と見られるか、それは見る側の価値観が決めること。たとえ女性と見なしたい人がいても、あえて否定して反論するつもりもないとした。今はもう、自分の身体と精神をつなぐものは何かということを考えるべきテーマとして模索中とのこと。いわば性同一性障害という範疇から外れる方向にあるけれど、今のこの身体でOKという状態で自分として自由だし快適であるとした。

「医療、福祉、そして癒し」:田口ランディ氏

 田口氏は、海外出張から帰国した途端、父親が腰椎骨折をきっかけにして、入院→アルコール依存の離脱症状→転院→肺ガンの発見、さらに認知症の一歩手前までという状態に陥り、医療者と衝突しながらも受け入れてもらえる医療機関を探すという「病院探しの旅」に東奔西走した経験を述べた。

 整形外科からは、精神科のある施設へ出て行ってくれと言われ転院先すら紹介されず、また精神科のある総合病院では、整形外科との連携はしていないと断られ、ガンセンターからは、「治療に専念できる患者しか入れない」と言われ、多くの医療機関から断られ続けた。

 最初は、医療に絶望し文句ばかりであったが、徐々に自分の無力さを痛感して、いろんなことが悔しく思われ、病院という場所は、突然途方に暮れた状態になってしまった人がやってくるところなのに、こんなにも相談に乗ってくれないところなのかと痛感。人間は複合的な症状や病気が出てくるはずなのに、病気が複数になると受け入れてくれなくなるのは何故なのか、これが現実かという理不尽さが信じられなかったと述べた。

 そのうち、医師も看護師もソーシャルワーカー、医療者の方も無力さを感じていることが分かってきた。実際はよくやってくれたと思うけれど、もっと私の気持ちに寄り添って欲しかった。患者の側も真正面からぶつかっていかないと、分かり合えないし、話せばわかるということが多少はあると訴えた。

 第2部 パネルディスカッション「患者とは何者か?」

 患者という意味には、病名がついたときの病院の中での立場と、「あの人はエイズだ」とか、「GIDだ」とか、社会から特定されるという両義性がある。実際には、主観的に何だかわからないが具合が悪いときに「助けて!」と病院に駆け込む、患者の持ついろいろな側面・全体性を、果たして医療側はどこまで受け止めうるのか、どこまで受け止める医療体制がいいのか、もしくは、どういう考え方がいいのかということについて議論を進め、「患者とは何者か?」という問いへのヒントになると考えた。

 病気とか、病名とか、医療とか、どういう形であった方が患者にとって幸せか。それは、より機能的・物質的なテクノロジーによって、患者のいろいろな広がった部分を病院の機能からそぎ落としていって、非常にわかりやすいキュアの部分に集約させることかもしれないし、患者側の医療の使い方の問題だといった考え方かもしれない。一方、病気というものは患者から分離できない人間全体そのもので、それを受け止めるシステムとして病院・医療はもっとフレキシブルであるべきで、関連する福祉もフレキシブルに、もっと人間的な受け止め方が良いのではないかという考え方になるかもしれない。

 上記のような考え方に対して、現場から見たらどうか、患者から見たらどうかということについてパネルディスカッションを行った。議論の中で、この問いに対するヒントとなるような発言を、多少乱暴すぎたかもしれないが下記の通りピックアップした。

医療における専門家の位置づけと必要性

  • わかることをつきつめていくのが専門家。専門以外のところは見えなくなってしまう傾向がある。(日笠氏)
  • 心臓手術とか脳手術とか、ものすごく専門性の高い手術は一生に何回もお世話にならない。きちんと専門家に正確に治療してもらわないとその後が続かない。だから専門家が必要。一方、手術で患者さんを助けた後、ずっとその医師が必要かというと、別に医師は必要ない。(西川氏)
  • 人が苦しんでいるときに何か手を差し伸べることは、みんなが持っていないと本当はダメなのに、全部病院の中にあるかのように、白衣の人なら間違いないと思ってしまう。そこにひとつの矛盾があるのかもしれない。(西川氏)
  • プロで「できること」はきちっと説明するということはもちろんであるが、「できないこと」もきちんと説明することが非常に大切。(西川氏)

ケアとキュア

  • ケアは、その人を手当すること、キュアは治すという意味。キュアを目指すということは「もうあなたは病院に来なくていいです、僕の前に来なくてもいいですよ、もう治療は終わりです」ということになる。その人が「良くない」と思っていることを「良い」方向へしてあげる方法がないかと考えることがケアだと思う。(日笠氏)
  • 性同一性障害を「病院として扱います」という場合、治る・治らないという単純なことではない。当事者の医療行為を受けた後の生活の質や人生に対する考え方が、どれだけポジティブになれたかという評価になる。女性の体から男性になりたい人は胸を取ればよくて、その質は問われない。近似した状態になればいいという、治療側が持っているジェンダーの画一的な概念とか、体に対するイメージが大きく左右している。(ヨシノ氏)

診断基準の必要性と病名、日本の医療のゆくえ

  • 数字で出る検査で診断できる病気は簡単。GIDとか、他の精神科領域の病気は難しい。診断基準を作って適応しやすいジャンルの病気と、基準を作りにくいジャンルの病気がある。(日笠氏)
  • 薬は仕方なく使う、治療は、その人が病気なり何なりで苦しい状態にあるのを何とかするために、仕方なく使うはずのもの。仕方なくするためには、ある一定の基準を満たす必要がある。(日笠氏)
  • 病名には、スティグマとか社会的な烙印を押されてしまう意味がある。「痴呆になったらダメだ!」、「結核になったらダメだ!」など、さまざまな病名にはさまざまな差別や偏見が塗りこめられてしまう。(西川氏)
  • 忘れてしまうことの苦しみは認知症に限らない。生理的な物忘れだとか、認知症だから非常に不幸なのではなく、一度聞いたことを忘れてしまうことに対して不利益を生む社会構造があるから。(西川氏)
  • 「もう少し痩せたい」とか、「もう少しシミがなくなってほしい」とか、体に対する違和感はたくさんある。一部の人たちは、性同一性障害という病名で、心と体とのアンバランスだとか、病的なもの、病理的なものとして社会的に位置づけられている。ある意味、病気ということにすれば本人の問題ではなく、「本人を免責する、責任はない」ことになる。しかし個人攻撃しないかのように見えて差別や偏見の構造はきっちり残る。この社会構造に対する疑問だとかは全然出てこない。病名というのは、一部の人を楽にする部分ももちろんあるが、その背後にあるいろいろなことも考えなければならない。それは医療の現場からだけではなく、患者と呼ばれた人たちと話をするしかないと考えている。(西川氏)
  • 男性として、女性として機能的には正常な、そして健康的に問題のない体にメスを入れるという行為を、医療行為として正当化する。そのために「性同一性障害」という病名とか診断が必要とされてきた。(ヨシノ氏)
  • 何か免罪符がない限り、医療行為は傷害行為と差をつけられない。患者さんに針を刺すという良くない行為をしてもいいという免罪が診断だったりする。診断というのは線を引くこと。「あなたは○○です」「○○ではありません」といった線引きが診断基準。人間の体も病気も線が引けるほどデジタルにできているわけではない。線にだんだん近づいている人もいるし、「線を越えたら病気になる」と思う人もいる。世の中の人は診断されているか、診断されていないかの、二つに一つしかないと思い込みすぎていて、病気っぽいという状態があたかもないという病気か病気じゃないか二つに一つしかないという、それが今の世の中。(日笠氏)
  • 線を引ける(診断できる)というのは、職業的な基本テクニックとして必要であるが、線引きだけで人間が決まるものではない。線を引いても文句を言われるし、線を引かなくても「どうしてダメなんだ」と言われるのが辛い。(日笠氏)
  • 日本の医療としては「どんどんそぎ落としなさい、病院でできることだけ、病院でしかできないことだけ病院でして、あとはすぐに戻してください」というのが今の日本の医療政策。一部HIVだけが逆方向に進んでいるという状況。手厚ければ手厚いほうがいいかと言えば、「自立を疎外している」とか、働けるはずなのに、働かずにずっと家にいてしまうような人を作り出しているという反省も一方ではある。どれがいいかというのは、患者個々に違うと思うし、政策としてどちらがいいかは国民が選ぶことになる。(日笠氏)
  • 医療に、どれだけ余裕の幅を持たせるかということだと思う。今は医療費削減という大きな目標のためにどんどん医療がそぎ落とされている。診断基準にマッチした、間違いなくこの病気という人にしか治療できなくなりつつある。けれど間違いない人の周りには、それっぽい人がかなりたくさんいて、さらにその周りには、その傾向があるかもしれない人もいっぱいいる。余裕があればグレーゾーンを広く受け止めることもできるが、余裕がなくなればなくなるほど、この病気に間違いないという人だけしか受け入れられない。(日笠氏)
  • 余裕を持たすかどうかは、病院がいくつあるかとか、キュアに関わる人が何人いるとか、薬の選択肢がいくつあるといった、全部含めるとどれくらいのお金を投入するかに行き着く。投入するお金が少なければ少ないほど、真っ黒な間違いない人しか治療できなくなるし、病院にも余裕があって、ベッドにも余裕があって、入院していただいても大丈夫といった余裕のある状態にするのであれば、多くの人をケアできるけど、その代わりコストは上がる。どちらの方向に進むのがよいのでしょう?というのが今の結論であると思う。ただ、お金をかければ良いという問題ではない。お金をかければかけるほど良い治療になるかどうかは、無駄使いをどれくらいするのかということになるので、かければいいということではない。(日笠氏)

幸福な患者-医療者関係を目指すために

  • 現状でキュアしかできないのであれば、「キュアしかできないよ」ということを言ってもらわないと。どういう風に向かっていけばいいのか、特にGIDの場合、今回はキュアではなく「ケアするよ」と病院が自ら標榜していたにもかかわらず、ケアしなかったことに加えて手技のミスによる問題として訴えている。私は別に精神科に行って助けてもらえると思っていたわけではないが、ないよりはあったほうがいいとは思っている。私自身のGID医療に関する考え方も、始まったばかりなので、これからどんどん変わっていくかもしれない。(ヨシノ氏)
  • 患者という人たちがいて、初めて医療者になる。そういう意味で患者は医療者のためにある。だから病気になったからといって、簡単に患者になるべきじゃないと思う。人の生き死にとか、苦しみというのは、病気だけ疾患だけで苦しんでいるわけではない。専門性を高めたところで、どうしてもどこかではみ出てしまうことがある。また医療者-患者という関係は、必ずどこかでほつれてしまうところがある。だから単純に医療の対象とする「患者になる」のではなくて、病とか老いというもの、人間は変わっていくものなのだという、そのことをしっかり考えていく哲学が「患者になる前に」必要である。(西川氏)
  • 「患者とは何者か?」:患者とはマイノリティ。ある日突然病気になったら、自分がマイノリティの側に突然属すことになるという、それまでは一般的大多数だったのに、いきなり弱者の側に「あれ、入っちゃった」というのが、それが患者になることだというのが実感。しかし、患者になってマイノリティの側に立ったときに学べること・分かったことがものすごく多くあった。「患者が学ぶこと」が、次の医療への道なのかもしれない。みんなが学んでいくことで次の何か新しいものが生まれてくるだろう。(田口氏)
  • 水俣病の患者さんたちが、何でここまで運動をがんばってこられたかというと、「水俣病の患者さんたちは、制度に道を説くんだよね」と言われる。「制度とかシステムとか国家に人間として道を説いてしまう、そういう人たちが戦ってきた、だからここまできた」ということをよく聞く。「無駄だ」とか、制度に楯突いて無力感を覚えることが多いが、みんな無力なのだから、人間として道を説いても良いと思う。(田口氏)

 最後に

 今回、立場も背景も全く異なる多様な方々にパネリストとしてお出でいただき、さまざまな視点から問題提起していただいた。精神医療、GID医療、血友病・HIV、ガン、介護など、あまりにも多岐にわたる内容、かつ、それぞれが大きな・深い問題をはらんでいるテーマの中でのパネルディスカッションとなった。

 「患者とは何者か?」、この抽象的な問いは明確に整理できるものではなく、参加者によっては、釈然としない、あるいは消化不良的なシンポジウムになったかもしれない。けれども医療現場や患者からの率直な意見が出され、救いを求める患者に対して医療者・医療体制はどこまで受け止めうるのか、どのように考えたら良いのかという議論ができたと感じている。

 参加者からのアンケート回答にも「私の中で何かが変化した。“生“について考えることができた」「考えることが多く混乱しているが“心地の良い”気持ち悪さ」「患者と病院(医療者)間には越えられない川があるが、時間がかかっても対話が唯一の解決法かもしれない」といった声が寄せられた。少なくとも今回の議論をきっかけにして、患者とは何者かを「考え続けて」もらえたら幸いである。