生命を育む思想:フォーラム4 医師と患者の語りから | ネットワーク医療と人権 (MERS)

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生命を育む思想:フォーラム4 医師と患者の語りから

フォーラム4
医師と患者の語りから
エビデンス・ベイスド・メディスンとナラティブ・ベイスド・メディスン

イントロダクション

 近年、EBM(Evidence-based-Medicine)を補完するものとして、ナラティヴ・ベイスド・メディスン(NBM:Narrative-based-Medicine)が注目されてきています。EBMが外部の臨床的根拠、つまり過去の疫学的データと個別の医師の専門技量とを統合することをめざすとすれば、NBMは患者の側に立って、患者が生きている物語(ナラティヴ)から病いの背景を理解しようとするアプローチです。これまで患者の語りはほとんど重要視されず、医師の持つ医学モデルに還元されることが往々でした。ところが、NBMは患者と医師の対話を通じて、患者自身が語る物語を引き出し、その物語に医師の物語と同等の権利を与えようとします。

 このシンポジウムでは、社会学者を中心とした薬害エイズ調査から、医師の語りと、それに対応する患者の語りを取り上げ、主に患者の生きる物語に光をあてながら、そこから見えてくる物語の重層性について、フロアの皆さんとともに考えていきたいと思います。


蘭 由岐子 YUKIKO ARARAGI (神戸市看護大学)


ここ10数年、ハンセン病をわずらったひとびとへのインテンシヴな聞き取りを通して、疾患のトラジェクトリーや絶対隔離政策の変動過程に回収されえないひとりひとりの「病いの経験」をあきらかにしてきた。
その経験をふまえて、輸入血液製剤によるHIV感染被害問題の当事者たち(患者・家族だけなく医師をも含む)の意味世界にせまろうとしている。
著書に『「病いの経験」を聞き取る』(皓星社)、『繋がりと排除の社会学』(共著・明石書店)などがある。

 

 


日笠 聡 SATOSHI HIGASA (兵庫医科大学)


1962年生まれ。1987年に兵庫医科大学を卒業後、1990年より血友病診療に従事。1990年代前半、多くの医療機関がHIV感染症の診療を拒否するなか、兵庫医大病院において血友病・HIV感染者治療に先駆的に取り組み、関西におけるHIV診療の牽引役の一翼を担ってきた。
1996年より関西HIV臨床カンファレンスの理事を務めている。2001年より日本血栓止血学会の血友病治療標準化検討部会委員となる。2000年よりネットワーク医療と人権の理事に就任。
血友病、HIV感染症、C型肝炎の包括的な診療ができる、全国的にみても希有な臨床医のひとりである。

 


山田 富秋 TOMIAKI YAMADA (松山大学大学院)


1955年北海道生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程修了(社会学専攻)。早稲田大学博士(文学)。専門は社会学の一学派であるエスノメソドロジーと社会問題研究である。そのなかでも、シュッツに始まる現象学的社会学とエスノメソドロジーの理論的架橋を試みる。また、社会問題研究では、被差別部落における「老い」についてライフストーリーのアプローチを通じて研究する。また、障害学(disability studies)の見地から、精神障害者を取り巻く状況を調査している。4年前から、薬害HIV感染被害について医師と被害者の聞き取り調査に加わり、質的社会学とライフストーリーの立場から、この被害をめぐる「生きられた経験」に迫ろうと努力している。著書『日常性批判』『老いと障害の質的社会学』『ライフストーリーの社会学』など。

 

           スライド1-1

 医療における語りへの注目

蘭:
 神戸市看護大学の蘭です。パネリストを紹介します。松山大学大学院の山田富秋さん、兵庫医科大学病院の日笠聡さんです。

 なぜいま医療において「語り(=ナラティブ)」が注目されているのかということについて、私の方からお話して導入にしたいと思います。現在の医療人類学、医療社会学で基本になる視点としてまとめたものです。医療人類学とNBM(ナラティブ・ベイスド・メディスン)という、医療における実践を基本に置いて話したいと思います。(スライド1-1)

 「症例」としての病者

左:スライド1-2 右:スライド1-3

 医療人類学の初歩的部分では、私達がふだん使っている「病気」という言葉の中に、二つの違った名付け方ができる概念を置いています。

 一つは「疾患」です。厳密には生物医学の視点で構成されるもので、医療従事者が医学モデルに基づいて説明する「病気」です。検査数値や症状から、△△の原因によって引き起こされた○○病にあなたは罹っていますと表現されます。誰にでも同じような症状や検査数値があてはまることを前提に話します。つまり、普遍的な説明に基づいて患者を診ていくことになります。その時、その「病気」は「疾患」と呼ばれます。

 もう一つの概念は「病い」という概念で、患者や家族など当事者の個人的な経験や意味などに重点を置いた個別の物語で、個人的な事情だけでなく当事者の生きている社会や文化も影響します。診療という場面で何が起こっているのかと言えば、医師はほとんどの場合、疾患について説明し、患者はある症状についていろいろな思いや意味を思い巡らせて診察を受けています。医師は医学に基づいた説明をして判断を下してくれます。その時、患者は問診や検査という医学的・専門的な文脈で「探求される対象」になっていきます。「まな板の鯉」ならぬベッドに寝かされて採血される検査台の患者という状態になります。極端な言い方をすれば患者はまるごとの人間ではなく、変調をきたしたある部位が医師の関心の的になっている状態にすぎず、ある病状を呈する「症例」として把握されることになります。(スライド1-2、1-3)

 ある診療場面での語り

           蘭 由岐子 氏

 具体的な例として、精神科医で医療人類学者のアーサー・クラインマンの書いた『病いの語り』という本の中に出てきた診療場面を挙げましょう。リチャーズ医師と患者のメリッサ・フラワーズ夫人、その両者が診療場面でどういう会話を交わしているかがわかります。部分的に抜粋してみました。

ある診療場面の語り[クラインマン,1996]より
「リチャーズ医師とフラワーズ夫人」
<フラワーズ夫人>
高血圧の39歳の黒人女性で5人の母親
現在、4人の子どもと彼女の母親、2人の孫とともにスラム街に暮らしている
医師:
 決められた通り薬はきちんと飲んでますか?
夫人:
 ときどきはそうしています。でも、プレッシャーがないときは飲まないときもあります。
医師:
 おや、フラワーズさん、きちんと服薬しないとお母さんのように本当に病気になると言ったでしょう。毎日薬を飲んでください。で、塩分はどうですか?
夫人:
 塩を使わないで家族の料理を作るのは無理ですよ。自分一人だけのために料理する時間はないんです。
医師:
 ほかに困ることはありますか?
夫人:
 よく眠れなくてね、先生。私が思うに、そのわけは――
医師:
 寝つけないんですか?
夫人:
 そうなんです、それに朝、本当に早く目が醒めてしまってね。エディ・ジョンソンの夢を見てね。たくさんのことを思い出して泣いてね。本当にひとりぼっちなんでね。私はわからないけど――
医師:
 何かほかに問題がありますか?からだの問題のことをきいているんですけれど。
夫人:
 具合は良くないんですよ。自分でもわかるんです。プレッシャーが多すぎてね。それが、私の高血圧を悪くしています。 自分が本当に情けなくなるんです。
医師:
 まあ、しばらくすれば、具合がどうなのかわかるでしょう。


 フラワーズ夫人は高血圧の39歳の黒人女性です。5人の子どもの母親で、現在4人の子どもと彼女の母親、二人の孫とともにスラム街に暮らしています。

 彼女はレストランのウェイトレスをしていますが、これまでに何度も失業して生活保護を受けています。現在、この一家の家計を支えているのは彼女だけで、長女は未婚の母で子どもが二人いて、現在妊娠中です。また、長年の男友達のエディ・ジョンソンが一年前に喧嘩で殺されているそうです。18歳の息子も服役中で、母親の障害も進んで認知症ではないかと危惧しています。つまり、いろいろな心配を抱えているのがフラワーズ夫人です。そこで医師は診察の時にこのように言います。

医師:
 決められた通り薬はきちんと飲んでますか?
夫人:
 ときどきはそうしています。でも、プレッシャーがないときは飲まないときもあります。
医師:
 おや、フラワーズさん、きちんと服薬しないとお母さんのように本当に病気になると言ったでしょう。毎日薬を飲んでください。で、塩分はどうですか?
夫人:
 塩を使わないで家族の料理を作るのは無理ですよ。自分一人だけのために料理する時間はないんです。


 高血圧の薬をきちんと飲んでいるかと尋ねているところです。フラワーズ夫人は「プレッシャー」を感じないときには飲まないと言っています。医師は高血圧のコントロールのために塩分を控えることを念頭にずっと指導しているわけです。今回も様子を聞いているようですが、夫人は無理だと答えています。それを聞いてリチャーズ医師は塩分制限がフラワーズ夫人の問題にとって是非とも必要ですと答えています。ここでは割愛しますが、クラインマンの記述では、このあと医師は「息切れはないですか?」とか「胸の痛みは?」「足のむくみは?」とそれらの症状が「あるかないか」といった閉じた質問(yes-no question)を立て続けにしていきます。

 もう一つの場面では、「ほかに困ることはありますか?」と、医師が聞きました。夫人は、「よく眠れなくてね、先生。私が思うにそのわけは」と言いかけるのですが、「寝つけないんですか?」と医師がたたみかけます。「そうなんです、それに朝、本当に早く目が醒めてしまってね。エディ・ジョンソンの夢を見てね。たくさんのことを思い出して泣いてね。本当にひとりぼっちなんでね。私はわからないけど。」ここでまた言葉が続いているはずなのに、医師が「何かほかに問題がありますか?からだの問題のことをきいているんですけれど。」というように夫人の言葉をさえぎります。「何かほかに問題は?」という開かれた質問をしたかと思いきや、「からだの問題のこと」をきいているんですと限定していくわけです。

 次の場面では夫人は「具合は良くないんですよ。自分でもわかるんです。プレッシャーが多すぎてね。それが、私の高血圧を悪くしています。自分が本当に情けなくなるんです。」と言いますと、医師は「まあ、しばらくすれば、具合がどうなるのかわかるでしょう。」その原因を詮索もせず、触れることもなく、塩分制限だけに関心あり、という感じです。

左:スライド1-4 右:スライド1-5

 医師がフラワーズ夫人を診察して、カルテに記載したことは、39歳の黒人女性、高血圧等々。お薬のこと、軽度うっ血性心不全の徴候あり、他に問題なし。印象(1)高血圧コントロール不十分、(2)ノンコンプライアンス、これは(1)の一因、(3)うっ血性心不全-軽度。となっています。

 クラインマンは、記載された記録に姿を表す症例と、聞き取りの中でしゃべっていた病気の女性とは全く別人のように思われる、と言います。すなわち記録から消えたのは、巨大な社会的重圧のもとで困難な家庭の問題に思い悩み意気消沈した病者としてのメリッサ・フラワーズなのです。リチャーズ医師は、夫人が自分の「疾患」について話すことは許しましたが、「病い」について話すことは許しませんでした。医師の診療場面での仕事は、患者の側の生きられた経験を医学モデルに還元することにあって、医師は専門家としてそれに必要な技術を訓練されてきました。リチャーズ医師は、医師としてそのような技術をちゃんと持っているわけです。

 クラインマンは、「診断とは面接のシステマティックな歪曲なのだ」とまで言い切るのです。つまり診療場面には医師の説明(生物医学の説明)と患者独特の説明の両者が現れています。しかし医師の記録・カルテの記載の中に見たように、医師側の説明だけしか記録として残っていかないのです。フラワーズ夫人の高血圧に対する説明は、彼女の家族の置かれている状況やアメリカの黒人下層社会の社会的な挫折や、暴力、不十分な資力、限られた人生のチャンス等々が大きく影響しているとクラインマンは見ているわけです。リチャーズ医師は夫人が、塩分制限の指示や服薬の指示に従っていない事態を捉えて「ノンコンプライアンス」と記録したのです。「ピクルスの汁を飲めば頭痛が手当される」という考えが黒人社会の文化の中にあることに気づいていれば、塩分制限が土台無理な話ということもわかってくると、クラインマンは指摘します。(スライド1-4、1-5)

 物語としての病い

左:スライド1-6 右:スライド1-7

 患者の病気の説明は、「病い」やその経験についての語り、すなわち「物語」と呼ぶことができます。その語りに意義を見いだすのが、医療人類学やNBMの立場になります。これまでは医師の「疾患」の説明だけが重視されてきたわけですが、この立場に立つと、医師による医学的な疾患の説明も一つの物語だと相対化されます。そして、患者側の病いの物語に意義を見いだすことで、医療の質を変えていこうというわけです。物語の語り手として患者は、尊重され、その語りは医師の語りと同等の重みを持って聞かれるべきという視点がひらかれます。(スライド1-6)

 なぜ語りに注目する意義があるか。診療場面の医師と患者の語りだけではなく、人が自分のことを語っていくことには実は二つの働きがあるからです。それは物語の組織化とその書き換えです。語りの中にある普遍的な機能に着目し、患者側と医師側のそれぞれの物語をすりあわせていくことで、それを達成します。医師の物語を作るプロセスだけが診療の場面ではなく、患者の語りを使いながら治療への手だてを探ろうとするのが、NBMの実践と考えられています。(スライド1-7)

 フォーラム4では、医療人類学やNBMの視点に現れている患者と医師の両者の物語に注目することを共有して、血友病やHIV・AIDSをめぐる両者の語りを吟味していきたいと思います。

 医師と患者のナラティブ(物語)の接点をめぐって

左:スライド2-1 右:スライド2-2

山田:
 この3年間、薬害HIV被害の社会学的研究を行っていく中で、医師と患者のインタビューを続けてきました。その一端を紹介しながら、NBMの意味を簡単に報告させていただきます。そしてEBM、つまりエビデンスが大事だという客観性の主張と対比させながら、患者自身の体験の語り・物語を医療に結びつけるNBMの実践の意味について報告します。その後日笠さんに実際の医療場面でのEBMとNBMの実践の意味を話していただいて、この3年間の具体的なインタビューの一部に解釈を入れて紹介します。(スライド2-1、2-2)

 昨日の基調講演と結びつけてEBMとNBMを考えていくと、医師は医学教育という専門的な訓練を受け、専門的技術や知識を臨床場面で常に使っている方と考えられます。我々自身も患者になって医師にかかり、医療に関しては素人のままで日常生活を生きているわけですから、医療には専門家と素人、あるいは専門性と日常性という二つの局面があると思います。EBMは医師が今までの専門的知識を個別の患者にどう活かしていくか、それを自分の個人的な体験だけでなく統計的に証明され、テストされた客観性に基づいて診療していくことであると思います。ところが普遍的に客観性を証明されたエビデンスだけでは個別の患者に迫れない、アプローチできないという現実があると思います。そこでむしろ個別の患者が抱えている具体的な状況を知るために、患者の語る言葉に耳を傾けていく、つまり患者の物語を出来るだけ取り出して、EBMと結びつけていくことがNBMだと考えます。

          スライド2-3

 イギリスでのEBMの提唱者が同時にNBMの提唱者でもあることは、一種の驚きを覚えます。普遍的なエビデンスを求めることは、今までの医学の流れが個別の医師の経験や主観に左右されずに、出来るだけ客観的・普遍的なものに頼ろうとしてきた流れであるぶん、EBMの主張は非常に理解できました。この点からすると患者の体験や主観的語りは医療場面ではどちらかというと軽視されがちだったというのですが、個別の患者に対してアプローチするためには患者の具体的な個人的体験・語りが非常に重要であり、EBMとNBMを切り離すことはできない、この2つは相互補完的なものであるということになります。私は「ああ、やっとそういうことが主張される時代になったか」と一種の驚き・感慨がありました。そのナラティブ・アプローチの形成において、非常に大きい影響を与えてきたクラインマンの口調には、これまでの専門性一辺倒の医療に対して強い批判的トーンがあります。彼の著書『病いの語り』第7章に「医師の物語は医学モデルに傾いている、しかも患者の側の多様な生きられた物語を単純な医学モデルに還元することが、専門家として必要な技術として訓練される」と皮肉にも指摘しています。(スライド2-3)

 専門的文化の生んだもの

左:スライド2-4 右:スライド2-5

 今紹介した前半部分の引用は「診断は面接のシステマティックな歪曲である」でしたが、後半は「ただその疾患とその治療に関する事実のみが求められ、明るみに出ることを許され、聴き取られる。人間が患うことは、この慢性の病いのきわめて重要な部分をなしているが、沈黙によって迎えられ、否認されるように見える」。(スライド2-4、2-5)

 この引用の中で、医師たちは患者の固有のナラティブを聞かなければならないのに、医師はそれを無視するような訓練を受けていることに、私は注意が向いてしまいます。このクラインマンの警告は慢性の病いには特に大事なことではないでしょうか。EBMの両輪の車輪のもう一つは慢性ではなく急性疾患です。確かにEBMは急性の病いには非常に効果的だと思います。ここでクラインマンが着目しているのは慢性の病いであり、そこでは患者の日常生活も病いの一部に入っていることが注目点であると思います。

           スライド2-6

 さらにクラインマンから引用すると、「読者によって大事なことは、このような面接と臨床的な症例記述の構造は、リチャーズ医師特有の傾向ではなくて、トレーニングを受けて専門的な文化になじんだ結果なのだと認識することである。その文化は、彼が身につけ、そして私も含めて多くの治療者もまた身につけた面接の仕方を再生産している。この専門家のモデルは、障害の本性と医療の働きと、人間の本来の姿についてのある一連の特定の価値観が反映されたものであり、それは率直に言って、慢性の痛みをもつ患者のケアにとっては破壊的なものである」とまで言い切っています。(スライド2-6)

 慢性疾患の場合、患者の症状の医学モデルへの還元は非常にマイナスであるとクラインマンは主張しているわけです。日本でもクラインマンをベースにしながらNBMを提唱しているのが、斉藤清二、岸本寛史の『ナラティブ・ベイスド・メディスンの実践』です。ここで患者の語りを聞くことの意味について、実践場面ではどうなっているのかを日笠さんにお聞きしたいと思います。

 体系としてのENM・NBM

左:スライド3-1 右:スライド3-2

           スライド3-3

日笠:
 ここまでは『病いの語り』という本から、特に語りに注目すべき例として、メリッサ・フラワーズ夫人の例が提示されています。そこだけを聞くとNBMこそが正しくて、他の臨床手法は誤り・間違いであると主張をしている印象を与えられていますが、実際の現実の医療においてはNBM以外にも様々な臨床手法が用いられて、それぞれに重要であるという話を私からします。(スライド3-1)

 まずEBMですが、EBMのエビデンスは証拠という意味で、医師個人の経験や観察に頼らず、医療を客観的かつ体系的に捉えようという考え方です。患者の具体的な個別の問題から出発し、個々の患者に戻るとされています。(スライド3-2)

 EBMはあるステップに沿って進むものと言われています。

  1. 患者の問題点を明確にする。
  2. それについての様々な情報を教科書や色々なデータベースから持ってくる。
  3. その情報の中で、どれが正しくて、どれが有用性が高くて、どれが重要かというのを分析する。
  4. それぞれの患者に適用吟味する。
  5. 最後に自己評価をする。

というのがEBMの流れと言われています。(スライド3-3)

左:スライド3-4 右:スライド3-5

 一方、ナラティブは物語の意味で、患者との対話を通じて、患者自身の語る物語から病いの背景を理解し、抱えている問題に対して全人格的なアプローチを試みようという臨床手法です。(スライド3-4)

 特長は、

  1. 患者の語る病いの体験という「物語」に耳を傾けて尊重する。
  2. 患者にとっては科学的な説明だけが唯一の真実でないことを理解する。
  3. 患者の語る物語を共有し、そこから新しい物語が創造されることを重視する。

と言われています。(スライド3-5)

 対立としてではなく、相互補完的

左:スライド3-6 右:スライド3-7

           スライド3-8

 EBMもNBMも患者によりよい医療を提供するための臨床手法の一つですが、これらの二つのベイスド・メディスンは、言葉がよく似通っていて、対立する概念に捉えられがちです。しかし証拠と語りという概念が、果たして対立する概念なのかという話をします。(スライド3-6)

 エビデンス(証拠)の対語は何かを考えると、例えば、課長「証拠はあるのか?」ベテラン「いえ、それは刑事の勘(カン)てやつです。」のように、証拠の対語は、語りではなく勘や経験・観察です。自分は昔からこうやってきたからとか、先輩の医師はこれで上手くやってきたからとか、前の患者にはこれが効いたからとかいった個人の勘や経験に頼るのではなく、色々な情報を収集し調べてからやろうというのが、EBMの基本的な重要なポイントです。(スライド3-7)

 ナラティブの対語はなにかというと、例えば「彼女はおしゃべりだから、聞いて(問うて)ないことまで語る」、「彼は人のことはいろいろ詮索する(問う)のに自分のことは何も語らない」のように、「語る」の反対は「問う」ということです。病いを理解し、全人的なアプローチをするためには、患者との対話を通じて患者自身が語る物語が必要であり、医師の問いに対する答えだけでは充分ではないというのがNBMの手法です。(スライド3-8)

左:スライド3-9 右:スライド3-10

 つまり、証拠と語りが対になっているのではなく、「証拠」には「経験」、「語り」には「問い」という対語が存在しているのです。医療の中には、NBM、EBM以外にも、問いに基づく医療もありますし、経験や勘に基づく医療も存在します。これらはどれもEBM、NBMとともに必要な臨床手法です。(スライド3-9、3-10)

左:スライド3-11 右:スライド3-12

           スライド3-13

 例えば、EBMはエビデンスが存在する問題点を解決するにはとても有効です。しかしエビデンスがない問題には使えません。「あなたの病状に効くというエビデンスがある薬はありません、ご愁傷様、じゃあ」というわけにはいかないので、エビデンスがない問題点には、医師の経験や観察や色々なものから推測・応用に基づいて医療が行われるのです。問いに基づく医療については後述します。(スライド3-11)

 EBMもNBMもよりよい医療を提供するための臨床手法で、対立する概念ではありません。(スライド3-12)

 その関係はどういうものかというと、EBMには、①問題点を明確にし、②情報を収集し、③情報を分析し、④個々の患者への適用を吟味し、⑤自己評価するという、基本的な流れがあります。②③⑤は医師たちのなかで行われている作業ですが、①と④は患者と医者が相談をして決めていく作業です。(スライド3-13)

左:スライド3-14 右:スライド3-15

           スライド3-16

 そこで、患者との対話が大事になるのですが、まず医師からの問い(問診)と患者の答え(問いに基づく医療)も非常に重要になります。特に急性疾患では、特定の治療をすれば治せるかもしれません。適切な治療を選択するためには、特定の疾患を選り分けないといけません。そのためには医師が重点的な設問をして診断をし、どの治療が適切かを判断するということが、必要な作業になります。急性疾患、あるいは慢性疾患が急に悪くなった状態に対しては、多くの場合、問いに基づく医療は非常に効率が良く、早く治療に取りかかれて有効です。(スライド3-14)

 しかし、慢性の病いの長期ケアには不適切な部分があります。医師の問い(問診)は適切な治療を選択するために特定の疾患を選り分けるための作業ですが、慢性疾患はなかなか治りませんし、急に変化しませんし、さらになかなか死にません。したがって毎回同じ問いとその患者の答えが返ってくることになります。「変わりがありませんか?」「変わりありません」「じゃあ、薬」となってしまうわけです。また、慢性疾患は患者の生活の中で共存していくので、患者の生活の中では病いが全てではありません。病気も治したいが他に大事なこともたくさんあるということです。(スライド3-15)

 患者は生活の一部である慢性疾患とその治療の相談を医師に語るのです。しかし医師はどちらかというと、病気を治すこと、悪くなるのを防ぐこと、症状を軽くすることに特に重点を置いています。そこで医師と患者の間がうまくいかなくなるのです。一所懸命相談しているのに全然聞いてくれないと患者は思い、逆に医師は家のこと言われても自分は何かできるわけでもないし、後ろに10人も患者が待っているのに早くして欲しい、など色々思うわけです。ここで患者の満足も得られない状態が起こるわけです。(スライド3-16)

左:スライド3-17 右:スライド3-18

 問いに基づく医療も語りに基づく医療も、どちらもよりよい医療をするために、患者の満足度をあげるために、より適切な治療を選ぶために必要になる臨床手法です。(スライド3-17)

 NBMは確かに1対1の対話から生まれる信頼関係を重視していますし、その視点はサイエンスとしての医学(EBM)と人間同士のふれあいというギャップを埋めていく作業のひとつです。(スライド3-18)

左:スライド3-19 右:スライド3-20

 一方EBMは統計学、医学的な確からしさを重視していますが、EBMの本には、エビデンスとともに医師の経験や能力、患者の価値観が重要で、三者統合の上に適応すると書いてあります。(スライド3-19)

 EBMもNBMもよりよい医療を提供するための臨床手法です。決して対立する概念ではなく、相互補完的で、NBMはEBMを大きく含むものでもあり、逆にEBMもNBMを大きく含むものであると私は考えています。よりよいEBMを実践するためにはNBMは是非必要なものであり、逆もまたその通りです。もちろん問いに基づく医療も、経験に基づく医療も、それぞれ医療の中では必要なことであって、どれとどれを選り分けて使い分けているわけではない、というのが現場にいる私の感想です。(スライド3-20)

 医学モデルを越えて

           スライド2-7

山田:
 それでは、この3年間の医師と患者のインタビュー調査から、どのようなことがわかってきたのかについて話すことにします。血友病を専門とする医師たちについて、NBMとEBMの関係を適用して考えていきます。

 血友病の場合は関節出血が比較的多くて、出血が頻繁になると関節障害を起こします。関節障害を持ちながらどのように日常生活を送るかという問題意識から、狭い意味の治癒だけではなくて、その人の日常生活にわたる生活のしやすさ、つまり患者のQOLに向けての視点が、血友病では1980年代の早い時期から導入されたと考えられます。その包括医療の実践は、クラインマンが批判した医学モデルへの還元からの脱却を迫るように見えます。比較的早くから日本で包括医療の実践をしていたS医師の語りを、我々の調査である輸入血液製剤によるHIV感染問題調査研究第2次報告書の「包括医療の意義を語る-ある医師の語りから-(好井裕明)」から引用します。(スライド2-7)

 日常生活のしやすさに視点が移った部分を抜き出しました。聞き手が「血友病を治すという感じじゃないですね」と言うと、医師が「ないです」と答えています。聞き手の「血友病のなかのある痛みを取り除く」という確認に対して、医師は、

医師:
 (それもあるけれども)同時に、膝が曲がらなくなると、走ることも正座することがしんどくなるという日常生活、あの不便さを起こさないようにするという、これはやっぱりわたしたちにとっては、かなり大きな目的っていうようなですね。ぼくらのことばで、生命予後の問題だけじゃなくて、要するにQOLを、日常生活を正常にする。血友病をもたない人たちの生活にいかに近づけるかというところにゴールはもう、そのころから向いてましたですね。


と語っています。

 ここでS医師は、治すという医学的な病気の完全な治癒ではなくて、症状は残しながらも治療する、つまり患者の日常生活にまなざしが転換していくと言っていますが、これは日常生活の不便さを起こさないようにするという局面だと思います。先程のメリッサ夫人がいろいろな生活の苦しみを抱えているというナラティブとは少し違う点に留意する必要があると思います。

 包括医療は1980年頃からアメリカでも導入されたもので、日本でも1980年から色々な病院で実践されていきます。患者の様々な日常生活の問題に対応するために、心理カウンセラーやソーシャルワーカー、他科(整形外科、消化器内科など)との連携等々、様々な血友病専門医師以外の医師が入ってチーム医療をしていくのです。それでは医療現場に、こうしたトータルケア、コンプリヘンシブケアといわれるものが導入されていってどうなったのか、先ほどのS医師の興味深い語りを紹介します。

S医師:
 (前略)あのー、僕ね、あるときびっくりしたのはですね、カウンセラーの先生っていうか、カウンセラーってのかな、Fさんって、ご存知ですかねぇ、そのFさんが血友病専門医集めたある席で、カウンセリングの大事な点っていうのは、たとえば医者はこう、こんなんなって腕組みをしたりだとか、 足を組んだりですね、でそれでふんぞりかえって説明してると。ああいう姿勢っていうのは患者さんを拒否する姿勢だからああいう形での説明っていうのは患者さんに伝わらないんだっていうふうな話を、いろいろとしてくれて、僕はすごいいい話だなって思ったら、そのあと、私も尊敬してる何人もの、先生がですね、カウンセラーごときに何がわかるって。われわれと患者さんの間にはものすごいタイトな、信頼関係が出来てるんだってんで、極端にいったらFさんをつるし上げるみたいな意見が三人四人飛び出してですね。


という語りがありました。

 包括医療の実践でもう一つのS医師の語りです。

S医師:
 ああだからやっぱり、そういうふうに、自分は患者さんからなんでもなんでも相談してもらえるような、そういうものが出来てんだなあっていうような、誤解っていうか。僕は逆になぜそうじゃないかっていうとですね、うちでその、血友病センター作って看護婦さんだとかカウンセラーだとかいろんな、ま、整形外科なんかを含めて、そうやって患者さんと接したときに、僕すごいがっくりしたのは、僕の知らない情報っていうか、僕に言ってくれない情報がそういうところからどんどん入ってくるんです。


 血友病の場合は小さい頃から医師にかかるので、医師と患者の関係が普通よりも強いと言われます。昔から信頼関係があるから患者のことで知らないことはない、という医師側の一種の誤解があると指摘されています。ところが、ケースワーカーや、コーディネーターナースなど、いろんな方をトータルケアのチームに入れていくと、医師の知らないことが他の人からわかってくる。そうすると患者のことはすべてわかっているという考えは誤解であったことが明らかになってくるわけです。

 さらにS医師は、慢性疾患であるHIV治療の場面でも同じことが言えるため、どうフォローするかが大事なのだと語っています。

S医師:
 ・・・そのフォローするときにですね、患者さんがですね、相談したいことをいろんなところに持ってけるという、患者さんにとっての選択肢をたくさん用意しておくことが非常に大事だと思ってるんですよね、ですから治療のこと、治療薬のことだったら医者に持ってくるだろうし、まあ奥さんにどう告げるかだとか、そういうのとか、あるいは医療費の問題をどうしていくかっていうのは、ソーシャルケースワーカーの人が、専門の、専門っていうか、それの詳しいのは、まあ今相談あってそうなってますけどですね、そういういろんなとこへ持ってける。で、なかでもやっぱり、特に血友病の医者が陥りやすいのはですね、患者さんとこうずーっと今まで一緒にやってきてるから、患者さんがまあ信頼してくれてるっていうか何でも話せるような環境になっているんだと誤解している専門医が多いんですよね。


 これらの語りから包括医療が与えたものは何かを考えていくと、医師は患者を小さい頃から知っていて、自分では患者のことはすべてわかっているつもりでも、やはり無自覚のうちに医学モデルにひきつけて患者の話を聞くことがあったのではないのかという気づきです。ただ包括医療を実践していくと、患者が医師には語らない、つまりこの物語は医師向けの話じゃないと考えていること、例えば自分の病気のことを奥さんにどう話そうかとか、医療費がかさむがどうしようかなどは、医師向けの話ではないと考えて、心理カウンセラーやソーシャルワーカーに持っていくというわけです。つまり包括医療のケア体制によって患者の経験している様々な物語をそれぞれフォローできているということです。包括医療の実践を通してS医師が実感したことは「お医者さんは患者にとって敷居の高い存在なんですね」ということです。

包括医療の実践を通してわかったこと
S医師:
 もちろんカウンセラーは伝えちゃいけない情報は伝えないです、それでも伝えたほうがいい情報は患者さんの了解を得て伝える。すると、こんなこと僕に聞いて、言ってくれればいいのにと思うようなこと含めてですね、も、いろーんな大事な情報が周りから入ってくるってことで、これはもう医者ってのは、自分はそう思ってなくても患者さんにとっては敷居の高い存在で、患者さんの本当の悩みっていうのをまあ全部知ってるなんてとんでもないことだと、いうふうに、気がつかされたんですよね。

聞き手:
 うーん。ま、患者さんもちゃんと考えてしゃべってると(S医師:そうなんですね)いうことですかね。

S医師:
 だから患者さんにしてみればもう一生止血治療にしても、診てってもらわなきゃいけない。そうすると、(医師の)機嫌を損ねてはいけないだとか、いろんなことを考えて、これはしゃべっても、医者に話を持ってってもいいだろうとかセレクションしたものしか持ってきてないってことですよね。だからそれに気がついてないっていう。われわれ気がついてなかったというか、まだ気がついてない人たくさんいますけど。僕もそこまで気がついてなくって、それで、トータルケアチーム作ったときにそういうこと聞いて、気がつかされたというかですね。

S医師:
 それで、後のサポート、精神的な支持をしたりして、あるいは、ナースコーディネイターで優秀な人がいるもんですから、なんかあったらそこに受けつつ。なんだか、医者ってやっぱり正直言うと敷居が高いと、私は思ってるんですね、患者さんにとってね、医者って。こっちはそんなつもりじゃなくてもやっぱり患者さんにとってはすごい医者って敷居が高いと思うから、やっぱりもっと相談しやすいような環境っていうのは作んなきゃいけないということで、そういうようなね、いつでも相談できるようになっていう、ま、ささやかな努力はしてきたつもりなんですけどね。
※医者は患者にとって敷居の高い存在と映る。

 

           スライド2-8

 これまでの話を暫定的にまとめますと、血友病の診療は1980年代からQOL改善に方向づけられたということです。補充療法が家庭でできるようになった家庭療法の導入が患者のQOL改善に向けて非常に大きな要因になったと思います。また、血友病診療における医師と患者の密接な関係は幻想、あるいは誤解であったという指摘が重要だと思います。むしろ現実には、医師と患者の関係は対等ではなくて、医師は敷居の高い存在であることが包括医療の実践を通して気づかされたのです。(スライド2-8)

 血友病の場合に包括医療の導入を通して主治医だけではなく、ナースコーディネーター、臨床心理士、ソーシャルワーカー、それに他科の医師によって、多様なフォローが可能になり、クラインマンが言う患者の持つ様々な物語をフォローしていく、その物語を聞くことを可能にしていったのではないでしょうか。

 パターナリズムへの内省

 では、これに対応する患者の側はどうなのでしょうか。西日本でHIVピアカウンセリングをされているHさんの語りですが、この方は過去全面的に医者任せであったためにそれを反省し、現在は少しでも医者任せの患者をなくしたいと語っているところがあります。Hさんの言う医者任せというのは、どういう状況だったのでしょうか。

 まず「薬害AIDS」問題が起きた後から振り返った事後的な質問として、よくマスコミが問う質問ですが、「もし非加熱濃縮製剤投与の時に、医師からAIDSの危険性があるって言われたら、どうしますか」という一般的な問いに対して、Hさんはつぎのように答えています。

Hさん:
 正直、医者次第だったと思うんですよ。今使いよるのはこういう数千人のプール血漿からやっとるから危ない、で、明らかに(クリオ製剤は、濃度や純度といった点で濃縮製剤に比べて)10分の1ぐらいの性能しかないけれども、それを考えたら、あなたの体のこと考えたらこっち・・・いうか、その時きっと僕は医師、医師、医師の価値観に任しとると思うんです。非常にその、世間では非常に危ないって言われてるけど1000人に一人ぐらいよ、だけどどうする?なんて言われたら、じゃあ大丈夫だったらその性能のええ方使おうかっていうし、医者がやばい、やばい可能性が捨てきれんから昔のクリオに戻しましょうやっていったら、たぶん医者任せでいっとったんで、自分で判断しろって言われるのが一番困ったんじゃないかと思うんです。そん時。


 ここでHさんが、自分の命に関わるような問題についてさえも、自分で判断するのはかえって困ったと言われていることに特に関心がひかれます。それではこのHさんが「医者任せ」と表現されている背景について、彼の語りを追っていきましょう。

Hさん:
 あ、えっと、これですね、O先生はえっとね、おそらく中学生になるかならんかの時に開院しはった。先生の父親が島嶼部で開業されとって、年齢も年齢なんで、倒れたかなんかで跡を継ぐからいうてよそにいかれたんですよ。だからO先生は非常にお世話になった記憶があるのとやっぱりその、小さい時にいい先生と思ったらずっとイメージがあるんで、その後の先生は何先生にかかったか記憶がないんですよ。

聞き手:
 じゃあそのAHFを濃縮に変えた先生というのも・・・

Hさん:
 わからんですね、全然。はい。


 Hさんは小さい頃からずっと血友病の治療を受けていますが、その中で記憶に残る医師とそれ以外の医師がいると言っています。今でも記憶に残っているO医師にとてもお世話になったそうです。ところが先ほどの質問でも問題になったAHF(クリオ製剤)を濃縮製剤に切り替えた時の医師が誰かを覚えていないと言います。

山田:
 じゃああまり話さなかったっていうか、そういうコミュニケーション密にとるということはほとんどなかったんですか。

Hさん:
 そうですね、ええ。表現が適切かどうかわからないんですけど、糖尿の人がインシュリンを打つというのは、それは必要に迫られて。それで『ああ、インシュリンね』言うて、はい、終わり、いう感覚で僕らもちょっと、痛くなったから注射打ってって言って。それで注射打ってもらったら『じゃあ注射打ったから、気をつけてね』いう感じで。病院行って受け付け済ませて外来で名前呼ばれて『今度はどっちの足?肘?』とかって。『いつから?』って。『昨日の晩から』って言って。じゃあって注射打って帰って。それだけやからね、最近どんなこんないう話ほとんど。


 血友病やHIV感染症も慢性疾患ですが、その診療の中では毎回同じ問診を行わざるを得なくなります。病状がそれほど変化しないので、毎回同じ質問にただ答えるだけになってしまうのは当然です。慢性疾患の患者にどういう症状かという医学的な問診しか無い場合は、この例のように診察自体が記憶に残らない結果になってしまうと思います。それでは、Hさんがちゃんと名前を覚えているO医師というのはどういう方だったのでしょうか。

Hさん:
 大学病院のお医者さんがどちらかと言うたら、あの、あの、役所、役所言うか、役人言うか、いかにも公務員みたいな感じのイメージ、言ったら、一番近いかな。だけど、なんかこう、さっきの話じゃないですけど、何十発も〔注射〕失敗しよったのが、その先生が一発で打って、で、母親とぼく二人で、ほんまに声をそろえて、『あ、一発で入った』とか言って『すげえよ、これ』(笑い)」とその医師の技術の高さに驚くわけです。「ほんで、そのO先生がきょとんとしておって『え、この、この血管によう入れんの、X大病院は』言うたら、『いやもう、十発はふつうですよ』言うたら、『医者やめたほうがええわ、それは』『こんだけ血管出とって、それはずすようやったら、医者やめたほうがいい』。


と言ったそうです。ここにはO医師の専門家としての技術の高さが、尊敬の源泉になっているようです。さらに、

Hさん:
 よく覚えてないですけど、『自分もそんなに、血友病が詳しいわけじゃないけど、勉強して一緒にやろう』みたいな話があったしね。


と医師が尊大にふるまうわけでなく誠意をみせてくれるエピソードも語られます。あるいは時間外に行ってもいやな顔一つされないというエピソードもありました。こうした献身的であり、同時に謙虚でもあるO医師が尊敬の念をHさんに呼び起こしたのはきわめて自然なことでしょう。

 さらにHさんがO医師を尊敬する原因として、その診察の厳しさがあります。

Hさん:
 ここに先生がおって、ここに外来、あの、患者さんが来て、その後ろの処置ベッドで点滴受ける。それでここに来て「うちの子ども、かぜひいたみたいなんですけど」って先生に言うと、「ぼくはX大の医学部を出て、あのー、医者になったんだけど、X大で、かぜいう病気を習ってないから、あなたぼくより病気に詳しいようだから、あなたが治しなさい。はい次の人」とか言って。
Hさん:
 ほで、もうお母さん意味がわからんようになって、おろおろおろおろして。


というエピソードがあります。

 この語りの中でO医師の行為の意味を考えると、患者が素人判断で勝手に決めるなということだろう思います。いつから熱が出て、食欲はあるのか、下痢はしてるのか、風邪と思っても実は違う病気かもわかりません。そのために問診をきちんと取らせるよう持っていったと思われます。

           スライド2-9

 ここでHさんと母親がしきりに感心し、しかも記憶に強く残っているO医師はどういう医師だったんだろうかと、NBMとEBMで整理してみると、O医師が尊敬を勝ち得たのは、急性疾患における問診、つまりEBMをしっかり実践しようとしていること、しかも謙虚で献身的であり、素人判断はやめて、きちんと問診させてくれと患者に要求していることです。その意味ではO医師は医学モデルに基づいた、パターナリズムのモデルにあてはまると解釈できます。簡単に言うと、医師の主導する治療関係のなかに患者(この場合はお母さん)を従わせていくということです。ここで「パターナリズム」という表現を使ったのは、例えばお母さんの様々な愚痴、「昨日は何回も下痢をして眠れなかったんです」については、あまり聞く耳をもたないという意味で使わせてもらっています。しかしこのようなパターナリズムは、患者や家族に安心して任せられるという医師イメージを植え付けたのではないでしょうか。(スライド2-9)

 Hさんの記憶に残っていない医師たちは、慢性疾患である血友病を診ていくときに、「どこが痛い?」「ここ」「じゃあ、処置して終わり」という急性疾患の対応をしていました。彼らはその意味で印象が薄くなるのは避けられません。ここでO医師だけが非常に強い印象をHさんに与えているわけは、他の医師たちに比べてO医師が、専門的にも優れ、献身的だったからではないでしょうか。それがO医師を安心して任せられるお医者さんとして確固たるものにしました。ところが、結果としてそれが医者任せの態度をHさんの中に形成していったことは重要だと思います。Hさんはこれまで医者任せだった自分に対する反省として、

Hさん:
 で、結局、その、医療等相談会やっても、そういう人らが来てもらえなかったし。で、その患者さんはお医者さんに任せとったらだいじょうぶだと思ったりしてたら、気がついたときには、みたいな。全部が全部じゃないですよ。でも、たった一人でも、そんな人減らしたいじゃないですか。


と実感を込めて語っています。補足ですが、「そういう人ら」というのは、今自分が使っている薬の名前も知らない人のことです。

 Hさん:
 ええ。それもやっぱり、こいつがきたら、あの、資料の話とか、医療の話しかせんとか、あの『やれ、やれ』いう話しかせんとか思うたら、閉ざしてたと思うね。そこをずっと、こう自分なりに我慢して、その人が話したいことを話すうちに、だんだんこう。で、その、人工関節なら人工関節。C型肝炎。インターフェロンならインターフェロンの話したときに、ここがチャンスだ思うて、そこでこうたたみかけるんじゃなくて。あの『やっぱり副作用あるよ』とかいうような話とか『4、5ヶ月でもまあ、いまのところええところしかないけど。さきでは、たったらね、まだどうかわからんけど。そりゃあそれで、その、何かあったとしても、そこまでは、あの、今までにない、こう、メリットが生じてきたら、ぼくはそれでええと思ってるんやけどねー』とかいう話。『やれー、やったほうがええよ』とかいうようなこと言わずに。ふつうだったら、こう、言いたくなるんですけどね。『やったほうがいいよー』って。(笑い)


 この方は現在ピアカウンセリングを実践されていますが、いきなり医療的な話はしないで、生活の話から入っていくことなど、いかに相談者とコミュニケーションをとることが重要かを語っています。

 今、言われているNBMとEBMの補完的な実践を考えていくと、専門家と素人、専門的な知識と日常性、それをどうインターフェイスしていくのか、そのインターフェイスがうまくいくことが、いろいろな問題解決につながっていくのではないでしょうか。医療場面ではそれはもちろん医師と患者の接点をどうするかという問題になりますが、特に包括医療の実践は医学的な物語だけではなく、生活に根ざした多様な物語を語る機会を、語る相手である職種を用意することで増やしていったのではないでしょうか。

蘭:
 私達のHIV感染問題調査研究の結果から山田さんに出していただきましたが、日笠さんから極めてまっとうなEBMの在り方、その中にNBMがあるという話がありました。どうしてもNBMかEBMという対立意識で考えてしまいますが、そうではないと楔を打たれたわけです。そう考えますと語りに注目することで医師と患者との語りが促進され、それで新たな物語が作られていくということです。私達の調査は、社会学研究者・医師・患者という関係であって、実際のNBMにはなりえませんが、医師や患者どちらにも対話のきっかけに気づいてもらう営みであるという感想を持ちます。

 山田さんに倣えば、接点を提示できたとしても、やはり実際は対話までいくことはなかなか難しく、従来通りの臨床場面での営みのままにとどまると思います。私達が患者・医師それぞれのナラティブを出していき、その成果を読んでいただくことで医師は患者のナラティブを認識し、次に実際の診療の場で患者のそれを聞いたときに、自分の考えている語りとの対話をしていただく、医師の語りを患者に読んでいただいたときには、その逆をしていただく、つまり私たちの調査結果を読むことで擬似的な対話というか、何か反芻していただけるのではないかと私は思います。

 質疑応答

フロア:
 僕は愛媛大学医学部3年生で、ナラティブ・アプローチとEBMに関して興味があり勉強しています。具体的にどのような時にナラティブが重要視されるかを考えたとき、個人的にはターミナルケアにおいてナラティブが重要視されると思いました。実際に現場に出られている日笠さんにターミナルケアにおけるナラティブ・アプローチの重要性に関して教えて下さい。

日笠:
 辛いお気持ちを汲んであげることだと思います。残り少ない命の中で、どうやって残りを過ごしたいかという希望を患者もいろいろ考えると思います。ある日はこうしたいと思っていても、次の日は違うとか、体調によって色々変化していくことが数多くあると思います。それぞれに耳を傾けてあげることが重要なのであって、できるだけ患者の意志を尊重し重要視することだと思います。

山田:
 私は、チームで包括治療を行っているソーシャルワーカーや心理カウンセラーなどの他職種の人に聞くのですが、必ずしもナラティブというのは、ターミナルケア場面だけ重要というわけではなく、例えばこれから薬を変えて、かなり体がしんどくなる治療を継続していかなければいけない時、「お仕事今どういう局面ですか?」「実は来週あたり重要な契約をしなければならないから、それ(治療)を止めて欲しい」などなどという反応が返ってくると言います。この場合は単純に治療だけではなく、その患者の生活がどんな状況にあるのかを色々考えながら治療計画を立てていかなければならないわけです。

 この点から考えると日常生活を送っていく上で、その都度NBMが重要だと思います。包括治療だといろんな職種の人がフォローできたのですが、たった一人の医者がEBMとNBMを一人でやっていくことはスーパーマンみたいなことだと思います。Hさんの語りに見られたように、慢性疾患であっても急性期の問診をずっと続けていくと、コミュニケーションの中身がすごく薄くなってしまいます。

フロア:
 東京大学大学院の山崎です。私は日笠さんの近代医療批判の一環としてNBMの主張のまとめ方は、本当にその通りだと思います。是非NBMは臨床手法に欠かせない重要な一つだという角度から取り上げてほしい。しかし日笠さんの場合には基本的に医療に限られているわけです。医療が慢性疾患を抱えて生活する患者を相手にしたときに、そういう生活背景を持った患者に対して、どのような接し方をするか。社会学でいうナラティブ・アプローチはもう一つあって、NBMに閉じこめない方がいいと思います。慢性疾患患者は、医療社会学や健康社会学のアプローチでは大抵 patient という用語を使わず、people with あるいは people living with chronic disease です。臨床医師にとっては慢性疾患をもって生活する人たちの生活情報は重要ですが背景情報なのです。私達にとってはまさに直接の研究対象なのです。従って慢性疾患を持って生きる患者の人生応援学としての社会学にとっては、ナラティブ・アプローチはもう一つの医療的なアプローチと半々くらいの大事な位置を占めていると理解していただいた方がいいのではないかと思います。

蘭:
 わたしはハンセン病の人の話を聞いたり、HIV感染症の医師・患者の話を聞いたりしています。今の話はすごく力強く感じました。肯定的に受け取らせていただきたいと思います。

フロア:
 静岡こども病院の三間屋です。日笠さんのナラティブとエビデンスが互いに補完するものであるとおっしゃっていました。確かにそう言えるかと思いますが、実際に医療現場にいますと、医者も患者もいろいろです。その中でそれが補完する形になるためには、ある程度橋渡しになる人が必要ではないかという気がします。補完するためには、今後どのようにしていけばいいと考えていますか。

日笠:
 橋渡しになる人は、看護師や他職種であったり、とても話しやすい医師なら血友病診療医が他の科の肝臓専門医との橋渡しをしていたりする場合もあると思います。職種に限定するものでもないと思います。患者は語りたい人や語ってもいいと思える人に語っているわけです。聞いてくれないと思う人には、どんな職種でも話をしません。患者は医師に病気のことを話すのが本筋ですが、訴えを聞いてくれる医師にはいろいろ話してくれます。逆に病気以外のことを話すとうっとうしそうな顔をするときは話さないと思います。患者も話す相手を選んでいます。職種を広げておくだけではなく、色々な人が係わって、選択肢をいろいろ広げておいて、その中から話しやすい人を見つけていただくのが一番いいことです。そして、話された人が本来その話を聞くべき本当の職種にきちんと伝えた時に、例えば看護師か医師に患者の話をした時に「そんなことはわかっている」などと言わずに、その人も話をきちんと聞くというスタンスもまた必要です。

 一方で患者自身も自分に対する医療は、ある程度自分で判断できるように、あるいは医師の判断に批判的な吟味ができるように勉強を少しはしないと「どうですか、判断して下さい」と医師から持ちかけられても、自分が判断しなければいけないとか、自分は判断できるように勉強しておこうという概念がない人は、どんなに医師が持ちかけても「やってください」とお任せになってしまいます。医師、他の職種、患者それぞれのいろいろな要因で医療が決まっていくのだと思います。

フロア:
 橋渡しについてですが、大学病院や包括的な医療を行っている施設では、他職種の方がいますが、一般開業医などの診療では、どうしても橋渡しになる人がなかなかいない。特に医師自身が患者の視点という考えがないと、なかなか語りに対して受けとめができないのではないかと思います。EBMとNBMは、補完するにも今の現代日本のなかでなかなか難しいという感じがします。一般診療のなかで、どのようにしていけばいいかをお聞かせ下さい。

日笠:
 一般診療の中では、聞く態度を示しても、話さない人もいるし、話す人もいるし、聞きたいけれど話す時間がないときもあります。後ろにいっぱい患者が待っていたら、「そんなところまで関わっていられない」と次の患者になるので、なかなか難しいです。しかし、とりあえずは「医師に対して色々なことを語ってもいいんだ」という雰囲気を醸し出せる医師になっていただければ、少しはいい方向へ進むような気はしますが、それで全て解決するわけではありません。

山田:
 社会学的観点から今の質問にお応えすると、血友病や輸入血液製剤でHIV感染された方は、血友病の各地区の友の会、HIV感染者の様々な支援団体での情報が非常に有用です。こうした団体につながっていくと、今まではお任せ医療的な「どなたに聞いたらいいかわからない」といった態度ではなくて自分から自発的に判断するように変化していきます。このようなセルフヘルプグループに属するか属さないかが大きいと思います。今はインターネット時代なので昔とはだいぶ違いますが、それでも20年前くらいに出版された本を読んで、AIDSのすごく暗いイメージに圧倒されてしまう性感染の方も稀にいると思います。友の会や様々な支援団体と繋がりながら常に色々な情報を受けている人は、だいぶ違うのではないでしょうか。

フロア:
 NBMとEBMの対比関係で、日笠さんの説明は非常によくわかり、腑に落ちるところがありました。エビデンス抜きのNBMは非常に危険でしょう。ナラティブのないEBMは、患者にとっては非常に不満かもしれないけれど、具体的な被害やデメリットは少ないかもしれない。やはりEBMが基本にあって、そこにNBMが付け加わったときに、よりよくなるという関係性ではないでしょうか。血友病の包括医療が、いわゆる語りを収集するために行われた医療だったかというところに少し疑問を感じますが、多くの人間が携わったことによって、色々な要素を収集することが結果的にできたという部分はあるでしょう。ただ一人で診療している医師の場合、EBMとNBM両方とも十分に行うことは非常に難しいだろうという現実的な問題と、EBMにもNBMにも非常に優秀であったとしても、多分患者はその医師にものすごく依存して、パターナリズム的には甚だしく依存度が高まってしまう気もします。

山田:
 包括ケアはNBMが提唱される前からありました。それは患者の語りを収穫するために導入されたわけではありません。しかし結果的にそうした効果があったのではないでしょうか。たった一人の医師がNBMとEBM両方を実践できるかに関して、やはり医療コーディネーターなどの医師と患者を媒介する者が必要ではないかと思います。セルフヘルプグループや、様々な支援団体もまた、こうした媒介役を果たしているのではないでしょうか。

日笠:
 パターナリズムが好きな人もいるのです。特にご高齢の方などは割とそうです。色々な選択肢を出して、「どうしましょう?」という相談を持ちかけても、「そんなん、もう先生が決めて下さい、私は決められません」という人も多いので、パターナリズムが好きな人は陥ってしまいがちなのも事実ですし、それが優れた医療従事者なら益々そういう方向へ進むと思います。もっと主体的に自分の病に対して「こういうふうにしよう」という人にとっては、別にEBMもNBMにも長けた医師に出会っても、色々なディスカッションがより出来るのではないかと思います。

蘭:
 医師のEBM、NBMどちらも臨床の中で両輪として調和をもっておこなわれること、包括医療的な側面が展開されていくこと、そして、そのことがきちんとおこなわれていくのかどうか、私達自身も自覚しておかなければいけないのだと思います。

左:日笠聡氏 中央:山田富秋氏 右:蘭由岐子氏