生命を育む思想:フォーラム2 水俣病と現在 | ネットワーク医療と人権 (MERS)

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生命を育む思想:フォーラム2 水俣病と現在

フォーラム2
水俣病と現在

イントロダクション

 公害の原点というべき水俣病はいまだに終わってない。
 ちょうど2年前のこの日、最高裁で国の責任が確定したが、環境省は依然として29年も前の認定基準に固執して患者の救済さえ怠っている。公害では当事者は第一に被害者の患者であり、生命を育む思想は私たちがそこから何を学ぶかにかかっている。
 今、水俣病はどうなっているかを患者の語りを交えながら知るとともに、若い人たちにどうつないでいくかを考えたい。


木野 茂 SHIGERU KINO
(立命館大学 大学教育開発・支援センター)


1941年、大阪市生まれ。大阪市立大大学院理学研究科修了。理学博士。
2005年3月まで同大学教員。2005年7月から立命館大学の大学教育開発・支援センター教授。
1971年から公害調査と被害者支援に取り組み、公害・薬害・労災職業病などをテーマに授業を始める。現在の専門は環境学、大学教育学。
著書に「新版 環境と人間 ~公害に学ぶ」(編著)、「新・水俣まんだら ~チッソ水俣病関西訴訟の患者たち」(共著)、「大学授業改善の手引き ~双方向型授業への手引き」など。

木野氏の本フォーラム参考資料は こちら


坂本 美代子 MIYOKO SAKAMOTO
(チッソ水俣病関西訴訟原告)


1935年、新潟県生。
1945年に父親の郷里の水俣市湯堂に移住し、家族ぐるみで水俣病におそわれた。姉の清子さんは死後解剖で認定、両親は第一次訴訟の原告。
美代子さんは1958年に来阪、1978年に認定申請、1982年に提訴(水俣病関西訴訟)。
地裁・高裁・最高裁のすべてで水俣病と認定されるが、行政からはいまだに公害認定されていない。
現在、最高裁の判決を機に公害認定に向けて最後の闘いを挑んでいる。


藤田 三奈子 MINAKO FUJITA
(甲南女子高等学校)


1967年、神戸生。
神戸女学院中高卒、1990年大阪大学文学部卒。
予備校講師を経て甲南女子中高に勤務。国語教師として平穏な道を歩んでいたが新設科目・探求の研修旅行先が水俣であることにパニックを起こしInternetの海に飛び込む。幸い山中由紀氏のSiteに辿り着き救われた。
木野先生の「いくら知識や学力・技能に優れていても人間社会の中で自分の果たす役割に無頓着な社会人を送り出してよいはずはありません」は教員生活上の聖句。

藤田氏の本フォーラム参考資料 その1 その2


【プログラム】
・開会の挨拶 木野茂
・パネリスト紹介 坂本美代子、藤田三奈子
第1部 水俣病公式確認から50年
  <対談>坂本美代子・木野茂
第2部 水俣病の教訓を若い人たちへ
  <報告>甲南女子高校の取り組みから 藤田三奈子
第3部 水俣病から学ぶ生命を育む思想とは・・・
  水俣病と私 木野茂
  水俣病から学んだ学校教育の役割 藤田三奈子
  水俣病患者から学んだこと 山中由紀(「生命・環境系の週刊テレビ予報」発行者)
  水俣病患者として生きて・・・ 坂本美代子
  薬害被害者から 増山ゆかり(サリドマイド被害者・財団法人「いしずえ」)

 

           木野 茂 氏

木野:
 今日10月15日は、ちょうど2年前の同じ日に、水俣病関西訴訟の最高裁判決が出た日です。また水俣病は公式確認から数えても、既に今年で50年を過ぎています。このセッションでは3部に区切りました。

 第1部では、水俣病関西訴訟の最初からの原告患者だった坂本美代子さんにお話をうかがいながら、この50年を振り返りたいと思います。

 第2部では、50年を過ぎた今はどうなっているのか、水俣病を記憶の闇から消させないようにする取り組みについて、甲南女子高等学校の藤田三奈子先生からユニークな体験談を話していただきます。

 第3部では、第1部・第2部の過去と現在の話を受けて、三人のパネラーだけでなく、別にお二人の方にもコメントをお願いしています。このフォーラムのメインタイトルは「生命を育む思想」ですが、水俣病という側面から、これをどう受け止めるのか、どう考えるのかを、意見交流できればと思います。

 

 第1部 「水俣病公式確認から50年」

垂れ流され続けたメチル水銀

木野:
 熊本県水俣市(図1)で、当時の日本窒素肥料株式会社(以下:チッソ)が作っていたアセトアルデヒドという中間生成化学物質から様々な化学製品が作られていくのですが、その製造工程中で無機水銀が有機水銀になり、それが垂れ流されたのが水俣病の発端です。

 図2のグラフは、アセトアルデヒドの生産量の推移を○で示していますが、いわゆる高度経済成長にのって60年代にピークに達します。水俣病の公式確認の日は保健所に届けられた、つまり行政機関がキャッチした日で1956年(昭和31年)5月1日です。しかし周辺海域へのメチル水銀排出量●を見ていただければわかりますが、メチル水銀による汚染はその数年前から急激に激しくなっています。「なぜ、急激に?」と長い間、非常に疑問でしたが、このグラフを書かれた岡本達明(たつあき)さんや西村肇(はじめ)さんの本にその理由が詳しく解き明かされています。第Ⅰ期、第Ⅱ期、第Ⅲ期は、チッソのアセトアルデヒド生産工程での助触媒や工程が大きく変化した時期に相当しています。結果として1951年以後、メチル水銀の垂れ流しがひどくなり、1956年の公式確認につながったわけです。

 1956年の公式確認から1968年の5月まで、チッソは延々とメチル水銀の垂れ流しを続けました。これは今の時代から言えば、信じ難いことです。実は、政府が正式に水俣病を公害と認めたのは1968年の9月で、チッソが水銀触媒を使ってアセトアルデヒドを製造するのを止めたのを見定めてからなのです。

 チッソは当時の日本の化学工業のなかで重要な位置を占めていました。ところでアセトアルデヒドを作るのに水銀触媒を使わない方法はなかったのでしょうか?最初はどこの会社もアセチレン法で水銀触媒を使う方法でしたが、現在はエチレン法といって水銀触媒を使いません(図3、グレーの棒グラフ)。実はこの熊本水俣病の公式発見から新潟水俣病の公式発見の間に切り替わっていて、他の会社は順次水銀を使わなくなっていたのですが、チッソは最後までアセチレン法で水銀を使っていたのです(図3、黒の棒グラフ)。水俣病の公害認定が遅れた背景にはこういう事情もあります。

 発生に関する背景は以上ですが、この結果1956年の5月1日までに次々と患者さん、とりわけ子どもたちが、チッソの附属病院に担ぎ込まれ、それが発見のきっかけになりました。この1~2年の間にたくさんの人たちが劇症の水俣病に遭われたのです。水俣病の激震地が図1の地図に載っています。百間港が、チッソの排水溝からメチル水銀が流れ出たところです。その周辺の月浦や梅戸、出月、湯堂、茂道が患者の多発した地域ですが、その中の湯堂が坂本美代子さんの出身地です。お生まれは新潟ですが、すぐにお父さんの故郷の水俣に移住されて、そして家族で水俣病に罹患されたわけです。

 坂本さんが大阪に出てこられたのは1958年ですが、出てこられるまでの当時、湯堂ではどんな状況だったのか話していただけますか?

何かおかしい

坂本:
 昭和29年くらいに最初に姉の様子がおかしいなと思い始めました。転んで深い傷を負ってきても、本人は知らん顔していて、本当に血が流れていても平気な顔をして帰ってきます。最終的におかしいと思ったのは、電気パーマをかけたときに、拳のような水ぶくれをつくって帰ってきたけれど、本人は知らん顔していました。母が気付いて「痛くないのか?」と聞いたら、「どげもなかもん」と九州弁で言いました。私達だったら、とてもじゃないけど我慢できるような水ぶくれではなかったのです。診療所に連れて行ったら、小児麻痺とか栄養失調とか言われました。兄弟7人いたのですが、父も母も小さい弟たちにも「我慢してくれね」と言って姉にこれでもかというほど魚を食べさせました。いわば毒を食べさせていたのと同じなのです。水俣病なんて夢にも思っていなかったのです。姉には本当に家にあるもの、海で採れるもの、山で採れるものを食べさせました。だけど一向に良くならないので、水俣市民病院(現 水俣市立総合医療センター)に連れて行き、小児麻痺と言われました。23歳にもなって、どうして小児麻痺にかかるのか不審に思いました。

根拠のない診断が・・・

 父が熊本大学に連れて行ったところ伝染病という病名を付けられました。それから私達の地獄の生活が始まりました。全くの村八分です。水のない生活。共同井戸はもう汲ませてもらえなかったものですから、往復1時間かけて、父と二人で水を汲ませてもらえるところまで毎日6往復、それも夜中です。全く昼は表に出ることもできませんでした。人が寝静まってから水を汲みに行く。そういう生活が1年余り続きました。無視された生活が本当に辛かったのです。田舎の差別はものすごくきついのです。近所の誰一人ものを言ってくれる人はいませんでした。ただもう家族の中でしか、ほとんど口を聞かないのです。

 姉も昭和31年に床に就いてしまって、家族で姉を看病する辛さとか苦しさは、それほど感じませんでしたが、いまだに差別の辛さが私自身頭の中に残っています。いい思い出はなく辛いことしかない、行ったとしても辛いことが思い出されるので湯堂にはほとんど行きません。それほど辛かったのです。

木野:
 水俣の初期は2~3年続いた奇病時代と言われます。原因がわからないからエイズと同じで奇病と呼ばれました。

【坂本美代子さんの紹介】
 坂本美代子さんも、1935年に新潟県に生まれ、1945年に父親の郷里の水俣市湯堂に移住し、家族ぐるみで水俣病に見舞われた後、1958年に来阪したという悲運の人である。
「姉が昭和29年(1954)の頃から足がもつれてよくこけるようになって、血が出ても知らん顔してるんです。おかしいということで、病院に連れて行っても要領を得なくて、そうしてるうちに足が立たんようになって、頭が痛い、頭が痛いといって、昭和31年(1956)に寝込んでしまいました。
 それから二年目まではロレツがまわらんけども、少しは話しがわかる状態でしたが、もう三年目に入った時は、知らん人が聞いたら何言ってるのか全然わからん状態でした。私らは勘で大体わかりましたけどね。二年目の時に病院へ連れて行ったんですが、その時は小児麻痺とか栄養失調と言われ、それでも病気が進行する一方で、しまいには奇病ということで・・・。
 姉が床に就いたとき、いちばん印象に残ってて、今でも忘れたいと思っても忘れることのできないのは、差別のことです。田舎の差別は、村八分です。都会と違って田舎は親戚がかたまってますから、村八分といってもそらぁきついんですよ。全く孤立した生活を、一年余り・・・。それを話すのが、いちばんつらいし、いやなんです。
 私のとこは井戸がなかったんです。共同井戸までは4、5分で行けるんですが、もうその当時は汲ましてもらえなかったんで、30分位かかるところまでもらい水に行ってたんです。カラで行くときは何もしないんですが、水汲んで帰るときに、坂道を登りきったところで、石や棒がとんでくるんです。大人がですよ。それが頭に当たり、足に当たったりして、どうしても水がこぼれてしまうんです。それで、またもとのとこに行って汲む。そのくり返しなんです。水がなかったら生活ができんから、水汲みは朝4時頃行ったり、夜中に行ったり・・・。「父さん、清子姉さん殺して私らももう死のうよ」と言ったことがあります。
 病気がうつるからということだったと思いますねん。姉を診てもらいに行った熊大で伝染病と言われて、救急車で家に帰ったら、家の中は石灰で真っ白、弟や妹は頭の上から足の先まで真っ白でした。帰ってきた私ら(両親と姉と私)も、それをふられたんです。病気でおふろに入れない姉にまで撒いて・・・。
 あの時は学校もほとんど行きませんでした。妹や弟らも学校の門の前までは行っても、けがして泣いて帰ってくるんです。先生もけがしたらいかんからというだけで、止めるようなことはしてくれませんでした。
 昼間も雨戸を閉めきったまま、電気さえもお金が無いからつけられない・・・。真っ暗です。雨戸一枚開けたら、そこから石がとんできます。家にあるものは全部売り払いました。お米は、姉が寝込んでからは食べられなかった。そういう生活が、一年半続きました。
 昭和33年(1958)の2月に、私はたとえお粥でもよいからお米を姉に食べさせてやりたいと思って、すぐ上の姉を頼って大阪に出ました。お風呂代と女にいるものそれだけ残して、あとは全部、家に送ったんです。」
 この後、姉の清子さんはまもなく亡くなり、死後解剖で認定された。その後、美代子さんの両親は第一次訴訟の原告にもなったが、美代子さんは大阪に来てからも長い間、近所や職場の人たちに水俣出身であることを隠していた。認定申請は1978年4月である。ふだんは誰にでも優しい彼女だが、法廷ではひとり「ウソツキが」と怒鳴るくらい「もうカーッときたら押さえが利かない」というのも、その辛い体験からきているのであろう。

出典:木野茂・山中由紀『新・水俣まんだら』(緑風出版)213-6頁

被害を拡大させた行政の責任

木野:
 水俣病の原因がわかった後、次の転機は1959年つまり3年後ですが、熊本大学が有機水銀説を出したときです。ようやく原因究明にたどり着いていくわけですが、実はその1959年からあとも9年という長い間、政府公害認定に至るまでに時間を空費することになります。

 その間、新潟水俣病(公式確認は1965年)という二つ目の水俣病が起こります。「なぜ水俣病で県や国の責任が問われるのか?」と授業で学生たちはいつも首をかしげますが、加害企業のチッソだけではなく、なぜ行政が責任を負うまでに至ったのかという最もわかりやすい例は、新潟水俣病を引き起こしたことです。早期に公害認定をしていれば、新潟水俣病は防げたはずです。それともうひとつは、熊本でも坂本さんが話された初期のころに適切な手を打っていれば、それ以後の被害者の拡大も防げたはずなのです。しかし全部失敗してしまい、もうこれ以上、どうしようもない政治的な問題になって、1968年9月の政府公害認定に至ります。

 坂本さんは先ほども話されたように、初期の頃に実家でお姉さんが倒れられましたが、その後、ご両親をはじめご家族の方々も次々と水俣病に罹られたわけです。この間に坂本さんは大阪に出てこられましたが、その頃のお話をしてください。

自分の発病

坂本:
 私が大阪に出てきたのは昭和33年(1958年)の2月です。姉に食べさせるもの、私達が食べるもの、何もなかったのです。家のなかは空っぽでした。たまたま姉に食べさせたさつまいもを喉に詰めて死にかけたときに、「もうこれじゃあダメだ」と思いました。私のすぐ上の姉は、もう大阪に来ていましたので、父に「私も出してくれ」と言いましたが父は反対しました。「お前だけ残すわけにはいかん。」と、どういう意味だったのか、そういう言い方をしました。けれども「姉ちゃんにせめてお粥さんでも食べさせられるように仕送りするから、出してくれ」って言ったのですが、父は頑として返事はしなかった。でも母が「行ってくれるか」と言ってくれて、昔の寝台明星という3段の狭い列車に乗って大阪に来ました。

 当時は、姉が食堂で働いていましたが「これから先は女でも手に職つけないと生活していけないから、洋裁か美容師かどっちか、あんたの好きな方選んで、仕事に就いたらいい」と言われました。そこで私は美容師を選びました。美容師になったのはいいのですが、私自身、体調がおかしくなっていたのでしょう。男性の方が散髪屋さんに行ってひげを剃ってもらうときのと同じ日本カミソリで指を切ってしまいました。また櫛は落とすし、一度落とすともう使えないですから。美容師で入ったのに仕事はできなくて、見習いみたいで居づらくなり、やめました。せっかく国家試験を受けて一応美容師の免許をとりましたが、私には何の意味もない免許証でした。

 それからは食堂で働いたりしました。その頃から、私は頭が痛くて主人と床を共にすることがどうしてもできなくなりました。年中頭が痛いし、でも主人から返ってきた言葉は「お前がそうなら俺にも考えがある。」と、生活費を入れてくれなくなったのです。子どもが二人いたので、私が働いて子どもを育てるしかなく、「もうあんたがそうなんやったら私が育てる」と言って、食堂にずっと勤めました。食堂はお昼ごはんが出るし、一番てっとりばやいのです。けれど疲れてきたら、自分では落とした覚えがないのに物を落とすのです。結局、親方が「あんた、どっか悪いんやない?体、治してから来てくれる?」と、体裁のいい首切りをされました。その時、家主さんが福祉関係の仕事をしていたので、国のお世話になって現在に至っています。

水俣病の認定問題

【水俣病の認定基準をめぐって】
1959.7.22 熊本大学、有機水銀説を発表。
契機:水俣病患者の症状が1940年のハンター・ラッセル(英)によるメチル水銀化合物中毒の報告(種子消毒水銀剤による4人の労働者)と酷似していた。
ハンター・ラッセル症候群:運動失調、言語障害、視野狭窄、難聴、感覚(知覚)障害
さらに、排水口の泥土から2010ppm(0.2%)の水銀を検出した。
1968.9.26 やっと政府公害認定→1969.12の公健法で、翌年から公害被害者認定審査会が発足。
 しかし申請しても認定は厳しかった。
 熊本県認定審査会の「水俣病審査認定基準」では、視野狭窄・難聴・知覚障害・運動失調の4項目と疫学的条件が揃えば認定するが、4項目のない症例の判定は慎重にすること、さらに類似疾患を鑑別することが必要とある。
1971.8.7 環境庁(大石武一長官)、熊本・鹿児島両県の棄却処分取り消しの裁決。
「本法(公健法)は、公害に係わる健康被害の迅速な救済を目的としているものであるが、従来、法の趣旨の徹底、運用指導に欠けることのあったことは深く遺憾とするところであり…、法に基づく認定に係る迅速な処分を行なうべく努められたい。
 (主要症状)のうちいずれかの症状がある場合、当該症状の発現または経過に関し有機水銀の経口摂取の影響が認められる場合には、他の原因がある場合でも、水俣病の範囲に含むこと。認定に際し、症状の軽重を考慮する必要はなく、大気の汚染または水質の汚濁の影響によるものであるか否かの事実を判断すれば足りること。」(事務次官通達より)
1977.7.1 環境庁、「後天性水俣病の判断条件」を通知。
 感覚障害だけでは認定せず、他の症候(運動失調、求心性視野狭窄、その他)との組み合わせを必要条件とした。
2001.4.27 関西訴訟の大阪高裁判決
 原告側主張の大脳皮質の損傷説を採用し、感覚障害を主とする症状の患者にも損害賠償を命じた。
→2004.10.15 最高裁も追認し、確定。
→環境省は認定基準の見直しを拒否。


木野:

 坂本さんが関西に来られたのは1958年とかなり早い方ですが、現地ではその後、患者さんたちがやっと裁判をおこし、いろんな運動がその頃から始まっていきます。坂本さんのご両親は熊本第1次訴訟(1969年提訴)の原告です。新潟と水俣で起こされた第1次訴訟ではどちらも患者さんの勝訴となりました。先に起こされていた新潟では1971年に、次いで熊本では1973年に判決が出て、企業の加害責任に対して賠償が認められました。そして判決に基づいて加害企業のチッソ・昭和電工と患者との間で補償協定が結ばれました。賠償金以外に様々な手当等も含まれています。1973年のことです。

 一方、その前に国の方では政府公害認定に基づき、水俣病の「認定審査会」を熊本県・鹿児島県と新潟県に設置します。ようやく法律に基づく患者救済、いわゆる「認定」が始まったわけです。申請してきた患者を水俣病かどうか判断するのが「認定審査会」ですが、1973年の補償協定以後は認定された患者に対して補償協定に基づいて自動的に賠償が行われるようになりました。

 しかし「認定」というバリアをクリアしなければ、次に進めないことが大きな問題になりました。そして、その後、長い時間を空費します。図4のグラフは審査会での認定率の変遷です。1971年の大石環境庁長官のときに環境庁裁決が出て、県の棄却処分について見直しを命じました。それで認定率がぐっと上がったのですが数年しか続かず、1973年の第3水俣病事件をきっかけに暗転していきます。わずか3年間しか患者への追い風は吹かなかったのです。その後現在までずっと北風が吹いています。1977年の新認定基準以後、ずっと棄却が増え続けて現在に至っているという状況です。当然のことながら未認定患者問題が合計1万人にも上ってしまったわけです。

 1980年代には、この問題が大きく社会問題化していきます。患者たちは行政の認定審査会ではほとんど認定されなくなったので、裁判で司法認定を求める道を選びました。1980年の熊本第3次訴訟をはじめ、裁判が次々と起こされます。この頃になると、坂本さんのように熊本県外に出られた患者の問題も浮上してきますが、県外患者の場合はさらに行政認定が難しくなっていました。全国で県外患者が最も多いのは大阪をはじめ関西近辺で、吹田万博の前後に関西へ出てこられた人たちが非常に多かったのです。そして、その人たちが最初に裁判を起こしたのが1982年の坂本さんたちの関西訴訟です。提訴当時は36人でしたが、追訴を含めて合計59人で第一審を12年間闘われました。

 しかし地裁では国・県の責任は認められなかったため、控訴審がさらに7年かかりましたが、大方の予想に反して大阪高裁では排水規制に関する国・県の責任を一部認め、さらに国の認定基準に準拠せずに水俣病の司法認定を行いました。国の上告でさらに3年半を要しましたが、2年前の最高裁判決で国・県の行政責任は確定しました。ただ、患者の救済についてはいろいろ問題が残り、それが、坂本さんたちが今も闘い続けておられる理由です。

行政認定の意味

坂本:
 私が裁判に踏み切ったのは、どうしても国・県に過ちを認めさせたい、認めさせた上で行政認定に立ち向かっていく、それは亡くなられた岩本団長の言葉でもありました。何がなんでも国・県に頭を下げさせることが第1の目標でした。どうにか22年間長い月日をかけて闘いました。一部は確かに完全勝利となり国・県に頭を下げさせました。でも患者は敗訴だと思います。原告はたとえ一人でも泣いている人がいれば敗訴なのです。

 いわば同じ釜のめしを食べてきた二人が地裁で認められたのに、高裁や最高裁で棄却判決であったということは負けなのです。私は「行政認定」という4文字はなかったのですが、「認容」という2文字は判決でもらいました。しかし賠償額を半減された人、棄却になった人が原告にいる限り、原告は完全に負けであると思います。だから国・県に行政認定してもらうように、今も私は闘っています。

木野:
 関西訴訟は最高裁まで行きましたから3回判決が出ており、坂本さんは3回とも水俣病として損害賠償を認められています。しかし、それは司法認定で、坂本さんの求められている行政認定ではありません。

 地裁判決当時の村山連立政権は、水俣病の幕引きを目指して政治和解を言い出しました。和解の内容は260万円の一時金と引き換えに全ての争いをやめることで、裁判も認定申請も取り下げること、交渉をやめること、今後そのようなことをしないことが条件でした。その結果、全国で一時金を受給した人は1万1千人に上りました。各地の裁判も取り下げられましたが、唯一、坂本さんたちの関西訴訟だけが残ったのです。村山内閣は1万人に対して50人くらいは問題にならないから、高裁でも国の責任は免除されると高をくくっていたのです。

 しかし、予想に反して2001年の高裁では国の責任が一部とはいえ、認められました。その2週間後、今度はハンセン病でも熊本地裁が国の責任を認める初の判決を出しました。ところが、ハンセン病について控訴断念を表明した小泉首相は、水俣病については上告に打って出たのです。

 小池さんが環境大臣としてつい最近までおられましたが、小泉政権での水俣病に対する方針は一貫して村山内閣の踏襲です。村山内閣が行った政治和解は国に責任はないということが前提でしたが、それが最高裁判決で崩れたにもかかわらず、これまでの方針を維持しようというのです。認定基準も変えないとしています。

 最高裁判決後、認定申請をした人の数は増え続け、既に4300人以上にも上っています。国が認定の代わりに設けた新対策と称する新保健手帳(医療費の支給が主)の申請者も5700人以上に上っています。最高裁判決から現在まで、わずか2年の間に合計1万人以上の人が新たに浮かび上がったのです。しかし行政認定を受けた人は現在まで3000人弱で止まっています。関西訴訟の患者さんは最高裁で司法認定を受けたのだから、水俣病として行政認定もされたと普通は考えますが、まだ誰も認定されていないのです。そういうわけで、坂本さんは行政認定を今も求め続けられておられます。

 図6のグレーの太い線は現地にいた時期で、1960年を中心にしたグレーの網かけは水銀が最も多く流されていた時期です。その前半の一番ひどい時期に坂本さんは水俣におられたわけですから、因果関係は明らかなのです。しかし、最高裁では1959年末をもって、行政の不作為責任の起点としました。そのため、坂本さんが現地を離れられたのは1958年ですから、坂本さんについては国に責任はないということになりました。実は高裁では坂本さんについても国・県の責任有りとしたのですが、最高裁では逆転したというのが、もうひとつ負けたと言われる理由です。(図6、表1)

 このように水俣病の問題は未だに終わっていないことがわかります。これからの第2部では、水俣病を若い人たちにどう繋いでいくのかという甲南女子高等学校での取り組みの話を藤田先生からお願いします。

 第2部 「水俣病の教訓を若い人たちへ」

               藤田 三奈子 氏

藤田:
 水俣病に取り組む「探求」という授業はいわゆる総合学習科目になります。この科目は、2002年度から始まっているのですが、毎年必ずどこかの学年で実施する形で続いています。教科書のない授業で、各学年の個性や興味・関心・その時の話題などに合わせてアプローチ方法を考えながら、最終的には水俣の現地を訪れます。

 私は初年度の2002年度と2005年度、2006年度を担当しています。初年度の時は、水俣病をわかっていなかった一番の問題児がこの私自身でした。担任をしていた学年だったので、仕方なくこの授業を引き受けたような担当者で、「どうして今頃、水俣なの?」と生徒と同レベルか、あるいは社会科の授業を長年受けていない分、生徒より記憶もあいまいで何もわかっていないひどい担当者だったと思います。

 「水俣」といえば、ユージン・スミス氏の撮った写真集『水俣』、石牟礼(いしむれ)道子さんの『苦海浄土(くがいじょうど)』といったものが真っ先に出てくると思います。私もそれをまず手に取りました。ユージン・スミス氏の写真は過ぎ去った年月を感じさせる白黒の写真です。石牟礼さんの作品は慣れない方言で書かれた本で、私にとって、それは過去のこと、遠い場所のこととますます感じさせるばかりでした。また授業はチームティーチングなのですが、もう一人が社会科の教師でしたので、「社会」に関しては、社会分野の話と思って私は何をしなくても大丈夫と高をくくっていたのですが、生徒にもどのように伝えたらいいのかきっかけがわからず、やはり事実を切り取った写真が一番わかりやすいかと思って見せたのですが、「怖い、もう見たくない」と言わせただけで全く逆効果ともいえる大失敗をしてしまいました。

 その時、ふと思い出したことがありました。かつて「阪神大震災で大変だったのはわかるけど、いつまでそのことを言っている」という人がいました。けれど実際体験した人間にとっては、震災のことを忘れられるはずはありません。個人的なことですが、私も実家が全壊しまして、子どもの頃から使っていたピアノや家具などすべて失いましたし、仮住まいが長く続きました。前日元気に話をした近所の人や、震災のちょっと前に、「就職が決まった」と嬉しい年賀状をもらった後輩を失いました。

 ですから「いつまでひきずっている」という言葉には非常に傷つきました。実際、震災は同じ兵庫県内で1時間もあれば行けるような距離の人に、1年もすればもう共感されなくなったのです。そういう経験からも、遠い九州で何十年も前に起こった場所のことを生徒たちにどう伝えればいいのか、水俣に行って、この目で見たいと思わせるには一体どうしたらいいのかと、ますます悩みが深くなっていきました。

 とはいえ、研修旅行で水俣に行くことは、すでに決まっていましたので、このままではいけないと思い、インターネット検索に溺れていて出会ったのが山中由紀さんでした。木野先生と一緒に書かれた『新・水俣まんだら』という本の紹介が、彼女のホームページに次のように掲載されています。

「水俣あたりからは沢山の人が仕事を求めて関西に引っ越してきているらしいの。関西に出てきて30年くらい経っているから、話し方も水俣弁の関西バージョンで、とってもわかりやすいのよ」


 これは山中さんの「主婦たちの会話」に仕立てた紹介文ですが、その軽妙な文章に心惹かれて、大変失礼かつ大胆にも、『新・水俣まんだら』を読む前に私は山中さんにメールを送ってしまいました。実際に知り合ってみると、山中さんは私より年の若い女性で大阪出身、そんな彼女がなぜ水俣と深く関わるようになったのか、それがわかれば、きっと生徒たちも水俣が近くに感じられるはずだと思い、私は彼女にアドバイスを求めました。時には励ましの言葉もあり、またある時には私の知識の乏しさを指摘する鋭い返事をもらったこともあります。

 本当に沢山のことを教えてもらったのですが、上手く生徒に伝えることはなかなかできませんでした。そのジタバタぶりを見かねて、とうとう山中さんがゲスト講師として学校に来てくれました。その効果は絶大でした。それまで、歴史のなかのことのように感じていた水俣病が、今関西に存在している。若くて関西に生まれ育った女性が水俣の研究をして、新しい本を書いて、その著者が目の前にいる、というだけでも、生徒たちのモチベーションが急上昇していったのです。

「知らないから怖いだけ。知ったら怖くない。例えば、家族が病気にかかったら、その病気を怖がらないけど、知らない病気だったら、なんとなく怖いと思ってしまう気持ち、わかるよね。それと一緒。今、水俣に行ってお魚を食べたって、水俣病になるわけがない。毎日、毎日沢山のお魚を何年も食べ続けて、それで蓄積されて水俣病になってしまう。私達が水俣に行ってお腹いっぱい魚を食べたって、全然問題はない。水俣の魚はおいしいよ。」


と言ってもらって、深くうなずく生徒たちの目は今までと違っていました。白黒の写真で見ていたものが、カラーの動画に変わったように、水俣病が歴史から現在に変化したのです。

 大阪万博の景気で就職がしやすく水俣から関西に来た人が非常に多かったという話には、私自身もとても納得して、水俣病を身近なことと感じ、水俣と患者さんの存在が実感できました。

 続いて、原告である坂本さんと小笹さんに来てもらいました。坂本さんの辛い体験を聞いて涙したあと、お孫さんの話になると普通のおばあちゃんになる笑顔、尖ったノギスで腕をつついても痛さを感じる感覚が違うことを、身をもって知る経験、・・・これらを通して生徒も私も、

「水俣は知らない場所ではなく、この人たちの生まれ故郷なんだな、そこに行くんだな」


と水俣へ行く日が待ち遠しくなり、水俣が怖い場所ではないという安心感から生徒たちの心が解きほぐされていく様子が非常によくわかりました。

 私が教えているのは、まさに思春期の女の子たち、生意気でとっても扱いにくい時もあるのですが、いざ何か興味を持つと、とても真っ直ぐで、悪くいえば鉄砲玉のよう、良く言えば太陽の光に向かって真っ直ぐに開く花のように、自分の行きたい方角にまっしぐらに向かっていく力を持っています。水俣は遠く離れた知らない土地ではなくて、水俣病は過ぎ去った過去ではないと感じた生徒たち。中には家族と話している時に、「水俣に行って、お魚が出されたらホントに食べるの?」と何度も聞かれたという生徒もいました。その生徒は水俣に対する意識が、家族のなかで自分だけ変化しつつあるということに気がつき、家族にも自分が知ったことを伝えなければという使命感を覚えて「もちろん食べるよ」と言ったそうです。

 水俣では、約10人ずつの小グループに分かれて、市民が証言者となって水俣のことを語るのを「聴く」というプログラムを実践しています。自分の親と同世代の人が患者であるというリアルな体験が彼女たちの心に、「水俣病はまだ全然過去のことではないな」という実感として強く焼き付くのです。

 通常、学校という閉ざされた空間のなかでは、教師→生徒という一方通行で物事が終わってしまうことになりがちです。この授業では、生徒の感想にコメントをつけるというできる限り両通行スタイルをとってはいましたが、特にこのときの水俣を巡る授業に関しては、坂本さんと小笹さんが語り部として来校して下さった様子が取材されて、学校外から生徒に情報として入ったことが、また広く学校外へ発信されるという非常にスケールの大きい両通行になっていました。生徒たちは自分の知ったことを少しでも多くの人に伝えたいと願って、それまで「さめた女子高生」風であった生徒が募金を呼びかけたり積極的に発表したりと、いかに水俣から彼女たちの得たものが大きかったのかを見せつけられる日々が続きました。

 ちょうど2004年の今日、2002年度に学んだ生徒たちは既に高校3年になっていましたが、最高裁の判決が出るということを、「どうなった、どうなった」とまるで自分のことのように気にかけていました。「行政責任が認められた」といっても、全員揃ってバンザイできなかった判決であることに目を向け、自分たちに語ってくれた原告の人が涙を流しているということで、「人ごとではない、まだ終わっていない」と実感したようです。今は大学生になっていますが、たとえ普段は忘れていても、あの生徒たちは、水俣という言葉を聞くと、きっと今でも目がいくと思います。

 その後も2005、2006年度とこの授業をしていますが、段々アプローチの仕方が変わってきました。特に去年の生徒はなかなか勘が良かったので、いろんなテーマを出して自分たちの関心のあることについて調べさせました。まず持ち出したのは、「胎児性水俣病」、生まれながらにして、水俣病である赤ちゃんです。そういう障害を持った子供を「産む・産まない」の問題。公害や犯罪、地下鉄サリン事件もそうなのですが、化学物質による被害の後遺症を負って、障害児が生まれる確率が高くなるということに、女の子ばかりなので、自分がその立場に立つ可能性もあると言った途端に非常に真剣に食いついてきました。

 私自身、直前まで迷っていたのですが、子どもが障害を持っていたことに苦悩して親子心中をしてしまった親戚について告白しました。こういった授業をしていて気付くことなのですが、自分を晒さなければ、生徒に訴えられないことがしばしばあります。教師の側が、大した知識がないこととか、自分の内面を晒すような告白をしなければ、どうしても生徒のなかにある距離感を取り除けないことがあります。私個人は「知識がない」ことをカミングアウトするのは、最初からバレバレで、あまり恥ずかしくなかったのですが、身内の死や自分の体験を語るときには、直前まで「避けて通れないかな」、という迷いが生じていました。そのことからも坂本さんが初対面の生徒たちに、ご自分の体験を語られることの辛さと、聞く側として真剣に受け止めなければならないということを強く感じます。

 障害のある子どもを持つという話に戻りますが、生徒は純粋ですので、「それが不幸であると決めつけるのは反対だ」と必死で言い、授業後の感想で書いてきたりしますが、一方で、やはり現実もわかっていて「障害があるから産めないなんていう考え方は許せない」と言いながらも、「不安がない」とは言い切れない自分や世の中の現実を見つめざるを得ない状況になります。

 このようにテーマを振っていきますが、あまりに深刻なテーマを振ったままでは「参った」と言いかねないので、「ちょっと違う話をしようね」と、唐突に「ウ○コはどこへ行くと思う?」と問いかけてみました。そうすると生徒は非常にリラックスしまして、「下水を通って流れていく」と言います。「その先はどこへ?」と聞くと、「海にいくのかな、でも薄まるから、ま、いっか」と言うのです。これは、こちらの思惑通りの反応です。「そっか、水銀も海に流しちゃったんだよね」と言うと、ギクッとするのです。「来たかー」というふうに。

 これですぐに水俣へもっていっても、まだまだもったいないので、わざとまたそらして「ゴミの行方とか知ってる?震災で壊れたビルとかどこ行ったんかな?どこに行ったのか知らないのに、あの時アスベストが飛んでたって騒いでるのって変じゃないの」とアスベストのことなども持ち出します。

 このように振っていくと、好奇心旺盛な生徒たちは、自分たちでどんどん騒ぎ始めるのです。アスベストは地域的なこともあるので、非常にリアルな関心事で、目の前から見えなくなったらそれでおしまいだ、汚れた物を海に流したら薄まるから平気という感覚が水俣の悲劇を生んだということにも気付いて騒然となってきます。とりあえず、「ウ○コを海に流したら薄まると言った人はお魚経由でリターンですね」というと、言葉はふざけていますが、現実味を帯びて水俣の反省が今の世の中に活かされていないということが伝わるのです。こういうことで、

「水俣が私達の生活とかけ離れてない」


と生徒たちが思ったら良いかなと思っています。

 実は昨年度はカリキュラムの変更で、「探求」の授業が高校2年に変わってしまいました。修学旅行が水俣研修旅行と合体してしまいました。すごく素直で真面目でどちらかというと「いい子」が多い学年だったのです。でも修学旅行で水俣に行くことに関しては、「どうして、修学旅行が水俣なの?」と反発も多いと聞いていました。何とかこの子たちの気持ちを水俣に近づけたい、視点を水俣に向けて欲しいと思いました。

 初年度のように「怖い、見たくない」と言わせてしまわないように、先程のように話を振ったあとで、ユージン・スミス氏や桑原史成氏の写真集などを見せていきました。そして有名な「彼岸の団欒を垣間見る」というタイトルの写真を見せました。敢えて、患者さんのねじれた手や痛々しい姿を見せることは後回しにしたのです。破れた障子に新聞やチラシを貼り付けたような家に暮らす家族の写真を見せ、「体の具合が悪かったら当然仕事ができないので暮らしが悪くなる。こんなにお家がボロボロになったら、水俣病と認定されてお金が入ったら、どうしたいかな」と聞くと、生徒はすぐに「直したい、家を修繕したい」と答えます。「それが水俣では奇病御殿、それで家をきれいにした、御殿を建てたと言われたんだよ。障害のある子どものために、自分たちが死んだあと、家だけでも残してやりたいというのが通じなかったんだよ」と話すと、生徒たちはとても静かに聞いていました。

 患者さんの姿かたちからではなく、むしろ背景に視線を向けることによって、浮き彫りになるストーリーに目をそらす子はいませんでした。その日の感想シートには「写真も今までは何となく見ていたけど、違って見えてきた」、「水俣と同じような事件が今でもあるのではないかと思った」という感想があり、少しほっとしました。私の恐れていた「怖い、いやだ、見たくない」という感想はなかったのです。この年も坂本さんと小笹さんに来ていただきました。水俣病が世界の遠くで起きた怖いことではなくて、自分たちと同じ普通の暮らしをしていた人を襲った出来事であるとハッキリと認識したようです。

 私が担当していたのは「人間環境と福祉」というタイトルの講座でした。その中で水俣病を若い人に伝える取り組みというのは一体何なのかということですが、水俣について学んでいくうち、生徒は自分たちも公害の被害にあって障害のある子どもを持つ母親になる可能性があるのだと気付きます。次第に見る視点も変わってきて、2005年度の水俣研修旅行の終了後には、木野先生の授業で実践されている討論劇(劇台本より)を読ませました。

 「いらないのは原発?それとも障害者?」というタイトルです。「障害のある子どもが生まれるから公害被害者になりたくない」という意識の根底に、「障害者は困る」という意識が隠れているのではないかというツッコミをすると、まさにテーマは福祉で、公害の問題から目をそらすことができなくなります。水俣を学んだ後で、その台本を読んだときには、生徒はスムーズにこのつながりを理解していました。予期せず被害者になって、様々な苦しみを背負うことが他人事ではないと感じて、水俣病との距離が一気に縮まっていきます。

【劇台本より】
イノウエ
「ヤマダさんは、やっぱり自分の気持ちとしては、障害児は生まれない方がいいと思っているわけでしょう。」
ヤマダ
「いえ、生まれても、私はその子に自分の一生を捧げる覚悟です。」
イノウエ
「でもね、あなた達のニュアンスを聞いていたら、やっぱし産みたくないという気持ちが、こっちにありありと伝わってくるんです。そのくせ、障害者も一緒に闘いましょうって、うそっぱちや。一方では排除しながら、一方では今いる障害者は認めるから一緒に闘いましょうという、こんな勝手な話はないと思うわ。」
オノ
「一生を捧げるっていうけど、一生を捧げなあかんような社会はおかしいと思わへんの?... 勝手に一生を捧げられた子供は幸せやと思うの?」
ヤマダ
「なんか混同していらっしゃるようなんですけれども、私は今生きている障害者の方々を否定している訳ではありません。でも、今のこの世の中で、子供が障害を持って生まれてしまったら、その子はとても可哀想じゃないですか。」
フルノ
「事故を起こさせないためにこそ、早く原発を止めなければならないんですよ。原発を作っている今の権力が障害者差別をしているんです。あおっているんです。そこに目を向けないとだめですよ。」
オノ
「差別してるのは権力だけやなしに、みんなじゃないの。」
タハラ
「今生きている障害者をね、差別しようとしているんじゃないんです。今の障害者の命ともども、私たちの命と同等に認めますし、一緒に運動しようということなんです。だけども、金儲けや権力のために、人為的に命を脅かされたり、障害者を産むことには、許せないという声をあげていきましょうということなんです。だから、なにも、あなた達を否定しているわけではないんです。」
イノウエ
「いや、否定してるんですよ。今いるのは認めるけど、これから以後は産まれんでいいというのが、ありありと伝わってくるんです。それにね、さっき言わはった人為的とか先天的とかね、そんなんどこで判断つけはるの?おなかにいる子をね、これは自然な形で障害を持ったとか、これは公害のためやとか、あなた達はどこで見分けるんですか?」
タハラ
「でも、放射能の影響で障害児が生まれるというデータははっきりしているんです。作られた障害に対しては、許せないということなんです。」
サカモト
「そこなんですよ、問題は。これまでの公害反対運動なんかでも、いつも、こんな恐ろしい障害が生まれるからという理由で反対してきた例がたくさんあるわけですよ。水俣病でも、合成洗剤の問題でも、みんな、こんな障害者が生まれるからあかんと…。要するに、僕等の障害者の運動と反公害の運動との接点が結べないという理由は、そこにあったのですよ。その問題に関して、どう思いますか?」


 正直言って、水俣病にここまで深く関わるには、かなりの時間・エネルギーを使います。その時々の反応を見て、出方を変えなければいけませんし、全く気が抜けません。しかし、こうして若い人たちが水俣病を知って、現地を訪れることにはかけがえのない意義があると思います。歴史の知識として水俣病を知ることと、自分でつながりを見つけて水俣病を考えることは全然違います。知識として水俣病を知っているので止まってしまうと、「他にもこういう現象は各地で起こっている、水俣だけが特別じゃない」と頭でっかちの知ったかぶりの人間になってしまう危険があるからです。

 ある意味、私達教師や専門職の人ほど、そういう傾向があるのかもしれません。他の例と比較して、物事を片づけてしまう技術だけを身につけてしまっています。でも、それは間違いだと今では思います。目の前に水俣病の現実がある。それに目を向けないというのは、目の前で転んで怪我をしている人がいるのに「転ぶこと、転んで怪我をすることなんていくらでもある、珍しくない」と言って無視するのと同じだと思います。それこそ「自分が手を差しのべられる」時に、転んで怪我している人を無視する人間に育ててはいけないと教師として思うようになりました。そして「怪我をしている人に手を差しのべる」と同時に、「薬害」、「アスベスト」など、その後も水俣病と同じ「転び方(あやまち)」をしている事実を真摯に受け止めて、「同じ転び方」をしないためにどうすればよいかを考えることのできる人間になってほしいと思っています。

 昨日の小林さんの基調講演にあった、「媒介」という言葉がとても印象に残っているのですが、私の立場は当事者である患者さんと、全く人ごとだと思っていた生徒たちの橋渡しをするという点で媒介の役割をしますが、専門家ではありません。しかし、ほとんどの生徒が大学進学する本校は未来の専門家を預かっているという立場でもあります。また、今後生活に密着した環境や食の安全について専門家だけではなくて、市民参加型の意志決定方式がなされる時代が到来するとしたら、これからの世界を担っていく若い人たちが、辛い体験をした患者さんの話を聞き、水俣病の教訓を知って、目の前の利便性や経済優先に惑わされることなく、状況判断のできる人間になってくれるように、そういう場をつくる学校の役割を意識して、今後もこの取り組みを続けていきたいと思っております。

左:藤田三奈子氏、右:山中由紀氏

 第3部 「水俣病から学ぶ生命を育む思想とは・・・」

木野:
 第1部、第2部を受けて、このフォーラムのテーマである「生命を育む思想」を考えていきたいと思います。

 まず私から、私が水俣病から学んだことということで口火を切らせていただきます。私自身は大学の教員で研究者ですから、1970年の大学闘争を経て公害や水俣病に関わる過程で、科学や科学者の責任、大学の問題といったことが常に意識にありました。私は学生たちが訴えたそれらの問題について、現地を訪ね、現場の人々の本当の気持ちを聞くことが大事だと考え、公害の現地を訪ねるなかで、水俣病の患者さんとも関わることになりました。私にとっては当初から「科学者の責任」がひとつのキーワードでした。しかしそのうち、科学者や専門家とは給料をもらって大学に職を持つ者だけなのだろうか、そして科学者にはどういう責任があるのかと考え始めました。

 公害事件で本当のプロは誰かと言えば、どう考えても一番よくわかっているのは被害者自身です。亡くなられた川本輝夫さんの話を聞けば、医師よりもよくわかっているわけです。いろんな反公害闘争のリーダーになられた人たちは皆、信じられないほど勉強して、法律も医学もいろいろな問題を極めているわけです。そういう意味では公害や環境問題からいえば、昨日、小林さんがトランスサイエンスという言い方をされましたが、「媒介の専門家」は、公害問題から考えればちょっと当てはまらないのではないかと思いました。むしろ現在「専門家」と言われる人たちが本当に現場を知ること、あるいは逆に現場の被害者の人たちが専門家と対等に関わること、その両方が必要なのです。

 つまり原田正純さんがよく言われますが、大学や研究者と社会や被害者との間の風通しをよくすることが専門家に科せられた責任であること、またそれが被害者にとっても自分たちの道を切り開く有力な突破口でもあると思います。そういう意味で誰かに期待するというのではなく、まずは自分自身に何ができるのかを考えましょうといつも授業では言っています。簡単ですが、私が水俣病をはじめ、公害問題とつきあう中で、学んだことの一端です。

藤田:
 最高裁判決の話で、小池元環境大臣の話が出ましたが、実は彼女は本校(甲南女子高等学校)の卒業生なのです。ですから生徒たちには良くも悪くも益々身近な問題でもありました。そんなこともあって水俣病にはいろんな問題が含まれていますので、どの進路に進もうと関わりがあると感じてくれたらと思います。できる限り多角的に「こういう視点もあるんだよ」という話に持って行けたらいいなと思い、いつもニュースに目を光らせ、何か関わりがあることを見つけるために山中さんのサイトでテレビ番組などを探しています。よく生徒に「そんな有名な人とどこで知り合ったの?」と聞かれ、インターネットで出会いましたので、「出会い系サイト」などと答えて笑わせたり、時にはひんしゅくを買ったりもしながら、新しい情報を次々提示して関心が薄れないように、また次に何かあるのじゃないかという意識を持たせていきたいと考えています。

山中由紀(「生命・環境系の週刊テレビ予報」発行者):
 最高裁の判決は一応勝訴と言ってもいいと思いますが、「原告の仲間で一部敗訴した人がいるから患者は敗訴だ」とそこまで言い切れる、「自分は勝訴していても友達が一人でも泣いていたら、それは自分も一緒に泣くんや」というそんな友達はいいなと思いました。坂本さんと小笹さんは今熊本県庁や環境省の部長とかに会いに行って直接交渉されています。その時に私は同行しています。けれど実際私は何もしていません。しゃべるのはこの二人だけで、そのおばさん二人が相手の隙をぬって、とにかく沢山溜まっているものですから自分が言いたいことを言います。端から見ていたら大変面白いのですが、自分で交渉できるのです。支援といっても、切符を買うこと、何時の時間帯の電車がいいかと意志を尋ねる、どういうところに泊まりたいか、泊まりたいときに条件があれば何か教えておいてもらうなど、補助的な作業だけで十分なのです。

  藤田さんは国語の先生で、しかもただの国語の先生ではなくて元々予備校の先生ですから受験国語のプロで教え込む能力に長けています。そして教え子は進学校の生徒ですから、もしかしたら上場の会社の社長さんの奥さんになるかもしれないし、官僚の奥さんになるかもしれない。藤田印の奥さんがいれば、旦那が変なことをしようとしたら、「ちょっと、あんた、何考えてんの」とひとこと言えるのではないかと思います。いい人と出会えたなと思っています。

坂本:
 私自身、「認容」という文字は要らないのです。必要なのは、あくまでも行政認定。そのために22年間という年月を命がけで闘ってきました。国・県・チッソに対して22年間の証が欲しい。「行政認定」という4文字は何がなんでも勝ち取りたい。私自身のためであり子ども・孫にも報告をしたい。真ん中の女の子で恵という子がいますが、「ちょっと頭痛いね」と言うと、仕事ほったらかしてでも飛んできてくれます。

 認容は誰でももらえますが、「行政認定」は到底私が生きている間にもらえるかどうかわからない4文字です。だから私が生きている間に行政認定を勝ち取って、子ども・孫たちに安心させてやりたい。東京行くにも熊本行くにも「ばあちゃん、こけんようにね」先にそれが出るんですよね。「こけたら、ばあちゃん、もう足がたたなくなるよ、だからこけんようにね、こけんようにね」と心配してくれるから、自分のためでもあるけれども、子ども・孫たちのために「行政認定」という4文字を私は生きている間に勝ち取りたい。今本当に命がけで県・環境省に立ち向かっています。喧嘩しているのと一緒です。勝つか負けるか。できたら勝ちたい。けれど相手はあまりにも壁が厚すぎます。とてもじゃないけど、私の力では鉄は壊せないかもしれません。生きている間に何らかの形で22年間の証を勝ち取りたいと考えています。

木野:
 今の話は、50年間水俣病の患者として生きてこられた坂本さんの思いだと思います。認容・認定という話が出てきましたが、認容というのは判決で司法認定されて、損害賠償が認められたことですが、認定は行政認定のことで補償協定の実行を意味します。先ほども言いましたが、関西訴訟ではまだ誰も認定されていません。

 その大きな違いはどこか、図7は二点識別覚という検査で、舌先にノギスのようなもので二点、何ミリか離して、目をつぶって触ったときに、どこまでが二点として感じる限界か、という感覚検査で、熊本大学医学部の浴野教授と二宮助手が始められた検査です。水俣群と対象群で明らかに差が見られます。この検査結果を採用したのが関西訴訟の判決ですが、現在の認定基準ではこれは採用されていません。

 ところで、この検査も図8にあるように、口唇は敏感なのですが、舌先で見ると認定患者でも普通の人と変わらないデータを出す人がいます。かなりの人が普通の人より異常値を示しても、何人かはその検査だけではわからない場合があるということです。メチル水銀の影響があるかどうかを判断するには一回限りのこの検査だけでも不十分で、いろんな検査結果を総合的に見ることが必要だと思うのですが、確定判決ではこの検査結果が正常だったという理由で棄却された人がいるのです。それが坂本さんの言われたお友達のことで、地裁判決ではいったん認められて1000万円以上の損害賠償があったにもかかわらず、これが逆転判決になって、今も1000万円返せという返却命令が出ているのです。関西訴訟でも決してみんながハッピーではないということがよくわかると思います。

増山ゆかり(財団法人いしずえ):
 水俣についてお話を伺って、私はそれほど詳しく深く知っている訳ではないですが、私自身が最近、全国薬害被害者団体連絡協議会(薬被連)を通じて、いろんな行政への働きかけに触れるようになって一つ思うところがあります。正直なところ、科学者が何故それを指摘できなかったのかとか、誰に責任があるかという犯人探しというのは、私達当事者自身、無意識に常に行ってしまうわけですが、やはり行政の責任はものすごく大きくて、メーカーや科学者の責任はあるかもしれないけれど、行政官にとって国民というものが行政の対象になりえないのではないかということを、審議会を傍聴しているとよく感じます。

 薬害や公害の経過を見ていると、何人かの人の過ちとか見落としで起きているのではないと、つくづく思います。被害者側から見ると、事件発生初期にはどこに因果関係があるのかとか、科学的根拠が得られていない不確実な状況で判断を迫られることは科学を超えているという話は納得できます。ただ一定の期間が経ったときは、犯罪の域に達していると思います。いろんな人の沈黙によって、人々がさらに被害を受けていくのを見て見ぬふりをする期間があるのです。どの薬害でも公害でも、原因がはっきりわかっているのに、きちんとした処置をとらない、政策として国がやっていかないという経過をたどることは許してはいけないと思います。本当に誰が悪かったのかを十分に行政が理解しないことには、また繰り返されてしまうというのが最近の私の実感です。

 ひとこと私の個人的な気持ちを申し上げたいです。被害を持った人が被害を語るというのは、被害を知っていただくことで何か解決に結びついて欲しいとか、現状をさらに改善して欲しいとか、なにかそういう思いだけで被害を語るわけです。けれど実はそこにはものすごく痛みがあって、障害問題もそうですし、薬害・公害問題みんな共通して言えると思うのですが、当事者が被害を語ることによって、さらに痛みを感じることを繰り返しているわけです。ですから、どうしてこんな理不尽なことが世の中増えているのだろうと、どうかその痛みを共有していただけたらと思います。

木野:
 ありがとうございました。時間がきてしまいましたので、フロアの皆さまとの交流もできませんでしたが、水俣病は公式確認から50年も経っているということで、患者さんの年齢も考えればゆっくりしていられる状況ではありません。今後ともご協力をお願いするとともに、これを何らかのきっかけにして交流の輪を広げていければ幸いです。

左:木野茂氏、中央:増山ゆかり氏、右:坂本美代子氏