生命を育む思想:フォーラム1 生まれること、生むこと | ネットワーク医療と人権 (MERS)

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生命を育む思想:フォーラム1 生まれること、生むこと

フォーラム1

生まれること、生むこと 優生思想と当事者

 イントロダクション

 遺伝子治療や生殖技術など、医療における科学技術の発展は、発生段階における生命への関与を可能にした。こうした状況の下、「優生学」「遺伝学」的脈絡においても新たな論点を呼び込みつつある。「産む、産まない」「病気や障害」「健康」・・・、私たちは何を基準に何を選択しているのであろうか。また、当事者の実感と世間の価値観にはどのような乖離があるのだろうか。当事者と研究者である三人の女性が熟考の機会を提供する。


増山 ゆかり YUKARI MASUYAMA (財団法人いしずえ)


1963年、北海道生まれ。中国語の通訳専門学校を本科を卒業。通訳として北京に赴任。帰国後は退社し、ダスキンの障害者リーダー育成事業でアメリカに半年留学。自立生活プログラムなど障害者福祉を学びました。現在は財団法人いしずえの常務理事。薬害オンブズパースン会議のメンバー。全国薬害被害者団体連絡協議会の薬害根絶活動に参加。最近は、障害を持つ人のために料理教室を毎月4回開いています。今まであまり接点がなかった、視覚障害や精神障害、知的障害を持つ人たちと活動ができて、あらたに知ることが沢山あります。とても楽しい毎日です。

 

増山氏の本フォーラム参考資料は こちら


松原 洋子 YOUKO MATSUBARA  (立命館大学大学院)


1958年東京生まれ。お茶の水女子大学人間文化研究科博士課程修了後2003年より現職。専攻は生物学史・医学史。
1970年代の最初のバイテク・ブームの中で生物学・医学と社会の関係に興味を持ち、特に優生学の歴史に注目してきた。優生学の「<よい子>を産む科学」としての側面は、遺伝子技術や生殖技術を通して現代に生きている。生殖を管理する力と管理に収まらない生殖の力のせめぎ合いについて考えている。
著作に『優生学と人間社会』(講談社現代新書、共著)、『生命の臨界』(人文書院、共著)他。

 

松原氏の本フォーラム参考資料は こちら


早川 寿美代 SUMIYO HAYAKAWA  (大阪ヘモフィリア友の会)


1995年より大阪ヘモフィリア友の会の会員となる。
現在、重症血友病Aの息子2人、娘1人の母。長男が血友病であると診断を受け、自分も保因者であることが判明。
息子の保育園・小学校の入園・入学に際して、職員や教育委員会等と幾度となく話し合いながら、さまざまな偏見・差別を解消してきた。
子育てや出産に対する自分の考えと周囲の価値観に大きな違和感を覚えている。最近では、患者母親のネットワークを強化するための重要な役割を担っている。

 

 「ファシズム」後の優生思想

                  スライド1

松原:
 このフォーラムは「生まれること、生むこと」、優生思想と当事者というテーマで、増山ゆかりさんと早川寿美代さん、松原洋子で進めていきます。今日はお二人のお話を伺いますが、最初に松原が前座として、キーワードとしての「優生」を手がかりに話をさせていただきます。ただし、フォーラム全体としては、「優生」という言葉に囚われすぎずに行きたいと思います。

 日本において優生がキーワードになった問題が、現在どうなっているのかということから始めます。(スライド1)

優生保護法の経過

 「ファシズム」後の優生思想という、少し挑発的なタイトルを付けましたけれども、日本では1970年代に優生保護法の中に、いわゆる「胎児条項」、すなわち胎児の障害が分かったら合法的に中絶できるという項目を入れるという動きがあり、それに反対する運動がある中で、戦後の「優生」が問題として顕在化してきたという経緯があります。(スライド2)

スライド2

スライド3

 日本には1948年(昭和23年)から-これはGHQ占領下の頃ですが-1996年まで優生保護法という法律がありました。これは中絶を合法化する法律として知られていたのですが、実は「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」といった、明らかに優生学的な目的を謳った法律でもあったわけです。これが1996年に大幅に改正されました。優生思想に基づく規定が削除された結果、別表の疾患名を羅列したところまで含めると本文がだいたい6分の1ぐらいに圧縮されました。つまり、優生保護法の本文の6分の5は「優生」に関わるものであったというわけです。(スライド3)

 優生保護法は、戦前の「国民優生法」という断種法を継承していると言われてきました。国民優生法は、ナチスの断種法をモデルに作ったということになっており、戦後の優生保護法が批判されるときには、「ナチス同然」という言われ方がしばしばされてきたわけです。ただ、ここで気をつけておかなくてはならないのは、優生保護法が「ナチス的」という言葉から連想される軍国主義的なものに塗りつぶされていたというよりも、むしろ戦後、いわゆる文化国家、民主国家として再出発したときに、仕切り直しされたといえます。つまり戦後は「優生」の概念が拡大してしまったということがあります。

 スライド3の右の列は、当時の厚生省が1940年(昭和15年)に国民優生法を制定したときの流れです。戦後の優生保護法というのは、戦前からあった国民優生法とは別の優生法を作ろうという動き(左の列)の直系であったと思われます。戦前、当時の社会運動家とか産児制限運動家などが中心になって、優生を遺伝という概念に限定せず、かなり緩やかに範囲を広げて、優生政策をとり入れようという動きがありました。これが戦後、産児制限運動が戦争中弾圧されていたのが復活しました。また戦争中「生めよ、増やせよ政策」に協力していた産婦人科たちも、妊婦の生命に危険がある場合でもかなり厳しく中絶が取り締まられていて、医者としての裁量が非常に制限されたため不満をもっていました。

遺伝性概念と断種対象疾患

スライド4

 戦争が終わって、国民優生法は使いものにならないので、すぐにこれに替わるものを作ろうという運動がありました。最初は太田典礼など社会党の議員たちが「優生保護法案」を出しましたが、審議未了に終わって、新たに超党派で同じ名前の別の法案を保守系の議員が中心になって提出し、優生保護法になるわけです。

 優生保護法になったときには、断種対象疾患を「非遺伝性」という概念にまで拡大します。この遺伝性という概念自体は今の我々の概念とは違うのですが、ともかく遺伝という言葉に実質的にこだわらなくなり、対象を拡大してしまいました。(スライド4)

 実は戦争中、委員会が承認した者は本人の意図にかかわらず断種するという強制断種規定があったのですが、実施は凍結されていました。国民優生法を通すときに、帝国議会の議論において断種に反対する意見が多かったためです。結局、法案を通すときに強制断種規定は凍結すると宣言して、施行規則でもそのような扱いになり国民優生法が出来たという経緯がありました。このことが、戦後、国民優生法は「生ぬるかった」と同法の改廃を検討していた関係者は考え、強制断種をちゃんと断行して、優生的な効果をあげられるようにしようとしたのです。このように優生保護法は国民優生法と密接な関係があったわけですが、国民優生法の直系というより、むしろ別の戦前からある優生というものを広く解釈する流れの中で出てきたと考えられます。

             松原洋子氏

 少し具体的に比べてみます。スライド4の右の列が戦前の国民優生法の規定です。目的で謳っているのは「悪質なる遺伝性疾患」で、「精神分裂症」や「躁うつ病」といった精神疾患が、遺伝性であるという解釈のもとに、こうした病名をつけられた人たちを断種対象とみなしていました。国民優生法では「遺伝性」という概念を基本にしていたために、既に療養所で行われていたハンセン病の患者さんに対する不妊手術を合法化できなくなってしまいました。自分で手足を縛ってしまったようなことになって、結局、「らい」は断種の対象外になったわけです。さらに、先ほど言ったように強制断種は施行凍結となりました。

断種対象の拡大

 一方、戦後ですが、1947年の「優生保護法案」、これは社会党が出したのですが、ここで「不良な子孫」という言葉が初めて入ってきます。例えば、「遺伝性は明らかでなくとも根治しがたい梅毒」を持つ者が対象とされています。また「不良な環境のために劣悪化する恐れ」とは、栄養や教育の条件が悪いときに生むのは問題だという考え方に基づきます。

 それから、「常習性犯罪者の犯罪的性格が子に伝わる」とか、「らい収容所所長が子孫への遺伝を防ぐ」ために、強制断種をするといった文言があります。体質遺伝の議論があったにせよ、らいが感染症であることは当時の常識でした。しかも「優生保護法案」の提出者である太田典礼と福田昌子は医師でした。それにもかかわらず、このような表現が含まれていたわけです。要するに、遺伝という概念に留めず、優生的問題があるとみなされたものを断種対象にしたのです。そして実際、優生保護法として1948年に成立した超党派の案では、この「不良な子孫」という言葉が引き継がれまして、断種対象にはらい疾患が入りましたし、最初の頃には「著しい性欲異常」、「凶悪な常習性犯罪者」が、さまざまな遺伝性疾患とともに別表として列挙されるということになったわけです。これはもともと国民優生法の施行規則にあったものをGHQに疾患名を列挙せよと言われて、あわてて法律の本文に差し込んだという経緯がありました。このように戦後むしろ優生保護法の中で、網をかける対象が広がっていったというわけです。

経済的理由の廃止・胎児条項の導入阻止

スライド5

 優生保護法は何度か細かい改正がされたのですが、社会的に大きな注目を集めたのが1972年に政府が提出した改正案です。当時まず注目されたのが、「経済的理由」を削除するということでした。これは、女性が望む場合に、それまで妊娠初期であれば経済的理由の拡大解釈で中絶できてきたのができなくなるということで、女性団体や産婦人科団体を中心に非常に強い反対運動が展開されました。(スライド5)

 しかし、このとき同時に新たに胎児条項を導入することも改正案に含まれていました。これは「胎児が重度の精神的又は身体の障害の原因となる疾病又は欠陥を有しているおそれが著しいと認められるもの」は中絶を認めるという規定でした。旧来の優生保護法は、親の遺伝性疾患が子どもに伝達される可能性が高いという前提で親の断種、あるいは中絶を認めるという形になっていました。つまり、胎児そのものの条件は優生保護法が成立した当時、想定されていなかったのです。しかし、羊水検査が普及する一方、欧米諸国では1960年代終わりから1970年代にかけて、女性の生殖の権利、あるいは性の権利の一環として、中絶の権利の主張がなされ、合法化されていきました。その中に胎児の異常による中絶というものも取り込まれていきました。その枠組みとしては、女性、あるいはカップルが中絶する、しないを自分たちで決めるという形になっていたわけですが、日本の場合、「不良な子孫の出生を防止する」という優生保護法の枠組みの中にこの胎児条項を入れようとしました。政府提案では胎児条項導入の理由について、「優生上の見地からの人工妊娠中絶に関するものとして」と説明されました。ですから、日本の場合、胎児診断から中絶へという流れが、優生保護法において優生学という概念、キーワードと明らかに結びついたような形で提示されていたのです。ただ、このことを当時の人々はほとんど認識していませんでした。それを認識させたのが、青い芝の会という脳性麻痺の人たちのグループによる反対運動だったのです。(スライド6)

スライド6

 スライド6は反対運動のときの記事ですが、彼らは厚生省に車椅子でつめかけて、優生保護法の「胎児条項は障害者を抹殺する思想である」と強く抗議しました。最初の頃は胎児条項より経済的理由の削除が、もっぱらマスコミにも注目されていたし、優生保護法改正に対する反対運動をしていた女性たちの関心も経済的理由の削除にありました。しかし、青い芝の運動を通じて胎児条項の問題へ注目が集まるようになります。当時どのような動きがあったのかを確認しておきたいと思います。

1960年代、母子保健運動における障害児発生予防

スライド7

                  スライド8

 年表を示します。(スライド7、8)3つ並べましたが、真ん中が優生保護法の改正および母子保健・発生予防関連です。右列が安楽死運動・障害児殺害問題関係、左列が兵庫県の「不幸な子どもの生まれない運動」関連の項目です。「不幸な子どもの生まれない運動」では、兵庫県が母子保健や子どもの医療に力を入れるなかで、羊水検査を推進するなど障害をもった子どもが生まれないようにするために、いろいろな備えをしていくということがありました。

 1965年に母子保健法が公布され、地方自治体が事業の責任主体になります。そして、自治体ごとに母子保健に力を入れるという形になったわけです。兵庫県は、まじめに施策を行うことで「不幸な子どもが生まれない運動」を進めました。当時似たようなスローガンで、いろいろな自治体で母子保健運動が行われていたのですが、兵庫県の場合が特に非常に力を入れていたということです。

 一方で右の欄に書いたように、障害者とか障害児を持った親たちの無理心中事件、あるいは子どもを殺害する事件がよくありました。結局、充分な施設がないゆえの悲劇という形で、手をかけた親にむしろ同情が集まる形になっていったわけです。子どもの幸せを願う、だから「不幸な子ども」は生まれないようにすべきだ、あるいは障害をもって生まれた「不幸な子ども」を手にかけるのは、親にとってはやむをえない事だ、と唱えることに誰も疑問を持たないような風潮が一般的だったのです。一方で、1968年には日本でも羊水検査が始まることになりました。同じ年に母子保健対策懇話会が意見書を出すのですが、ここでは障害児の「発生予防」によって、家庭の悲劇と経済的負担を解消する、という言い方がされていました。

スライド9

 スライド9は、母子保健法が出来る直前、1963年に出た都立産院の医師たちが障害児の出生を防ぐ運動をするという記事で、冒頭に「近頃、脳性小児麻痺やサリドマイド奇形児など妊娠、出産時の条件が原因で起こる障害児が増える傾向にある」とあります。当時「奇形児」という言葉が新聞などマス・メディアでも使われていましたが、そういった子どもがなぜ生まれるのかの原因を究明し、生まれないようにするために頑張っていることが、歓迎すべき動きとして記事にされています。

 1970年代に入ると、障害児の「発生予防」が国やWHOなど国際機関において、母子保健対策の課題となり、厚生省が発生予防の研究班を立ち上げたりしました。また優生保護法への胎児条項の追加が医師会によって提言されました。

胎児条項、法案からの削除

スライド10

 一方、1970年に障害を持った子どもが母親に殺される事件が横浜市で起き、そのことが同情すべきことで、殺されてもやむを得ない状況だとして地域で嘆願運動が起きました。それに対して青い芝の会の神奈川県連合会は、その地域が「障害児は生まれてはいけない」という状況をつくる中で母親を追い詰めていったのではないかと抗議し、障害児を手にかける親への情動や、それに対する同情そのものを、障害者の抹殺につながるものとして問題化したわけです。(スライド10)

スライド11

 1972年には、青い芝の人々を映像化した「さようならCP」が完成し、その上映運動と、優生保護法の胎児条項反対運動が、シンクロしていきます。(スライド11)

スライド12

スライド13

スライド14

 青い芝が胎児条項の導入について反対する嘆願書(スライド12)を衆議院・参議院議長に対して出しているわけですが、ここでは胎児条項導入が、重度身体障害者の生存権を否定するものとして批判されました。いろいろな議論がなされ、運動がおこり、マスコミにも注目され、結果的には胎児条項は法案から削除されます。しかし同時に、例えば1974年の日本学術会議の中での人類遺伝学将来計画という報告書の中では、保因者診断、出生前診断、遺伝子相談の充実が提言されています。むしろ障害児の「発生予防」は科学者の社会的責任だと思われていた状況だったのです。しかし、結果として優生保護法改正案から胎児条項が削除されるという流れの中で、障害児が生きる、生まれることに対して、メディアの動きというのも変わってきました。(スライド13、14)

優生保護法撤廃運動への動き

スライド15

 スライド15は1975年の育児雑誌ですが、子どもが口蓋裂だったことを苦に子どもを殺してしまったという話を出しながら、それは「あってはならないことだ」という記事になっています。メディアの中では1970年代の胎児条項導入問題をめぐる動きの中で、表現の変化が起こり、このような記事が商業的な育児雑誌にも登場するようになりました。

スライド16

 1980年代以降も、優生思想を批判する障害者や女性の間で優生保護法の撤廃運動がずっとあったわけですが、1996年に、にわかに優生保護法の「優生思想」を削除するという動きが出たのです。それが自民党の社会部会から言い出されています。(スライド16)

 優生保護法の担当課が精神保健課から母子保健課に移されようとしていたとか、たまたま当時、自・社・さきがけ連立政権だったとか、いろいろな背景があるのですが、ともかく運動の中から立ち上がって十分問題が明らかにされ総括されたというのではなく、バタバタとした感じで、むしろ上からの改正の動きになってしまったわけです。だから優生思想が問題だと言われても、優生保護法のもとで何が行われていたのか、何が本当は問題だったのかが、ほとんど明らかにされなかったのです。

スライド17

 優生保護法から母体保護法になった翌年の1997年に、ノルウェーやスウェーデンなど北欧諸国で多くの人たちが断種法により強制的な不妊手術をされていたというニュースが流れました。スウェーデンのような福祉国家にして、このような事が行われていたとセンセーショナルな報道がなされました。この問題が注目された当初、1996年まで日本には優生保護法があり、戦後強制的な不妊手術が行われてきたことはほとんど話題にならず、あたかも対岸の火事のような扱いでした。しかし北欧の断種問題が注目されたことを受けて、ずっと長い間優生保護法の撤廃運動をしていた障害者を中心とした団体が、日本ではもっとひどい実態があり、きちっと調査しようと要求しました。(スライド17)

 ハンセン病の場合には、らい予防法を憲法違反と認めた熊本地裁判決後、厚生省の責任のもとで被害実態調査が行われ、患者に対する「優生手術」の状況や胎児標本が多く療養所に残されていたということがある程度わかりました。しかし、ハンセン病以外の優生保護法の対象になった人たちに関しては、ほとんど実態が分からない状態のままで現在に至っています。

修正優生学、強制から自主性へ

左:スライド18 右:スライド19

 最後に、優生学をめぐる経緯を全体的にみておきます。(スライド18)優生学の定義がなかなか難しいのは、いろいろな形態があるからなのですが、注目すべきことは「遺伝」に限らずに、親が望ましくない子どもを生み出そうとするという要因があれば、極端な場合には生育環境、貧困にまで注目して、その網をかけようとすることです。実際日本でも、貧しくてあまり学校にも行けず、「精神薄弱児施設」というところに行かされて、それで「精神薄弱者」だから手術をするという形で、本人が真の目的を知らされないまま10代で不妊手術をされたという人がいます。似たようなことが、カナダでもありました。精神薄弱という定義はなされているが、それと貧困の問題とが、分かちがたく結びついた形で網を掛けられていくということがあったわけです。

 1985年にケブルズという科学史家が、優生学について本を書いて、〝reform eugenics(修正優生学)〞という概念を提唱しました。優生学というとあからさまな人種差別、強制的、ファシズムといったナチスに代表されるイメージが強いのですが、同時にもう少しソフトな形の優生学というのがあって、強制ではなく、自主性を重視していた、というのです。例えばイギリスは優生運動の発祥地でありながら、断種法は成立しませんでしたが、それは強制することが適当ではないという議論が優生学の支持者の中にもあったためといわれています。(スライド19)

スライド20

 実は〝voluntary eugenics(自主的優生学)〞が、強制的な優生学の背景にずっとあり、1930年代以降のアメリカやイギリスではむしろこちらが主流となり、戦後につながったとみなされています。スライド21は、私なりに優生学の概念の変化というのを整理してみたのですが、要するに強制的であり、「集団のため」、「遺伝子プールの質の向上のため」と鼓舞するのが当たり前だった時代とは変わって、1970年以降は優生という言葉をタブー視しながらも、同時に自分で決めることであれば、出生前診断から中絶に至っても許容できるというのが建前になりました。

 1970年代、英語圏では出生前診断を優生学と結びつけて是非を論じる傾向はみられませんでした。しかし1990年代以降はそれを優生学だと認めつつも、非難することはできないのではないかと言い出す哲学者や生命倫理学者が出てきてきました。大部分の医者は、優生学と出生前診断をそこまではっきり結びつけたがりませんが。これは「新優生学の浮上」とみなされています。

自主的な優生学の許容

 「新優生学」を擁護する議論というのは、既に出生前の子どもの状態を知る技術があり、いろいろなことが分かるようになってきた、一方でカップルや本人が子どもの将来を思って決めることであれば、それは優生学と言えるけれども非難できないということなのです。

 結局、今まで優生学は批判されてきたようで、実は核心は批判されてこなかった。つまり優生学は過去のもの、優生学という言葉はタブー、出生前診断は優生学とは無縁、と言われてきたが、障害者とか病人の差別ということについて、きちっと踏み込んだ議論が広く共有されたうえでのことではなかった。正常さとか、幸福と優生学的な差別の関係がどうなのかということに踏み込まないできたのではないかということです。

 優生学的な選別とは、例えば出生前診断から中絶へということなのですが、その現場が今は個人医療化されている。個人主義や自由主義を原則とする医療倫理とか生命倫理の枠組みの中では、その患者が自分で決めることが第一ということになり、そうすると自分で決めたことであれば、それ以上文句はいえないということになります。要するに、自主的な優生学が昔からずっとあったのが、今技術と結びついて全面化していることになるわけですが、やはりきちっと議論しなくてはならないのではないかということです。

 ディスカッション

松原:
 さて、改めてご紹介させていただきます。大阪ヘモフィリア友の会の早川寿美代さんです。血友病のお子さんをお持ちでご自身が保因者です。それから、財団法人いしずえの増山ゆかりさんです。サリドマイドの問題について長らく取り組んでいます。これからお二人にご自身の今までの生活や、その中で考えてきたことから、いろいろと問題を提示していただきたいと思います。

早川:
 私は長男を産んで初めて血友病という病気に出会って、そして初めて自分がその保因者であることを知ったのです。その後、二人目、三人目と生んだのですが、やはり二人目を生むときは保因者であるがゆえに過剰な心配をされました。三人目の妊娠はみんなも半分あきれていたという状況なのですが、生んで育てて、「大変だね」とか、「かわいそうだね」とか言われても、私にとっては普通の子育てなのです。生みたいから生んで、生まれた子どもは、現在確かに2日に1度の注射をして、出血が起きたら歩けなくなったり、手が動かなくなったりしますが、普通に生活ができているし、生きていけるし、制限はあっても勉強や運動もしているのです。

 そんな中で、出生前診断が少し前に新聞で騒がれた時、すごい危機感を感じました。というのは生んでしまった私は子育てができますが、優生ということが騒がれてくると、一番下の娘が子どもを産む選択をしづらくなっていくのではないかという心配がすごくありました。ハンディのある子どもを育てていて大変だった事は、確かにありました。病院へ行くこと、素人が血管に注射をすること、時に介助、介護が要ることなどです。手間や時間がかかって、まず体力が奪われていきます。重たい子どもを、抱っこにおんぶして毎日歩いていると、体力がまいってくるのです。市の窓口とか保育所での受け入れ拒否、受け入れてもらえない病院が多かったこと、自分の中で何が困ったことかというと、周りの環境だったのではないかと思うのです。今回、この場に座らせていただくにあたって、自分と同じ立場、障害児を生むかもしれない立場の方、障害者として生まれてきた方にもお話を聞いたのですが、やっぱりぶち当たるものは環境と周囲の目だったような気がします。

 二人目の息子が生まれる時、頭蓋内で出血を起こしました。おなかの中にいるときに男の子だと分かっていたので、私は血友病の子が生まれるリスクを背負って生んでいるのです。生まれた後、ある医師が、ひと言、「次から次へと大変やなあ」と言ったのです。「次から次へ」ってどういう意味なんだろうって、こちらは頭の中で出血している子どもを救うことだけに気がいっているものですから、「次から次へと」と言うのは、「先生がその子を見るのが邪魔くさいの?」、「あたしをかわいそうやと思っているの?」、どこに先生の言葉の意図があったのかは、結局は確かめられてないのですが、いまだに疑問に残っているのです。

 子育てしている中では、正常さと幸福の壁にぶち当たりました。今、裕福がゆえに子どもを放っておいて親が遊んでいるというご家庭もたくさんあるように思います。その結果、学校崩壊といったことも起こっていると思うし、子どもが荒れているということに、「子どもたちは健常じゃない、出来ることがいっぱいあるじゃない?」、親も「何も子どもを放って遊ばなくても、見てあげる時間があるじゃない?」と思いました。子ども自身にも幸福感は見られなかったし、親の方も荒れているのではないかと思えました。

 私たちは病気という障害はあったけれども、たぶん幸せは親も子どもたちもそれなりに感じて生きてきたのだと思うのです。だから、この優生思想というものに疑問を持つし、その社会制度においても、嘘や偽装の下、楽をしている者もいれば、必至に生きながら必要としている援助が受けられていない者、この現実に理不尽さを感じずにはいられません。

 血友病であっても製剤を使えば、基本的に健常者と変わらない生活ができるし、障害がある方でも必要な支えをする体制を作れば、ちゃんとした社会生活をしていける可能性があると思います。それを優生の名のもとに排除していく発言がなされていくと、日本の経済を支えていく上でも、国は何を考えているのだろうと思ったことがあるのです。

 その反面、中には私と同じ立場のお母さんに遺伝カウンセリングを望むという方もいらっしゃるのです。やっぱり育てられないと実際に中絶された方もいらっしゃるのです。だから、何がいいのか悪いのか、私個人としては、必ずしも障害児や病児を生むことを反対はしないし、中絶することも否定的に考えていますが、逆に中絶したいと思うお母さんも否定はできないのです。私がしんどいとは思わなかった病院通いや子どもとの生活をしんどいと感じてしまう人がいれば、それはそれで仕方がないと思うのです。その人の幸せの位置とか、しんどいと感じる位置というのは千差万別です。実際私の近いところで、口唇口蓋裂で生まれた子どもを、家族が本当は守るべきであるのに、親やおじいちゃん、おばあちゃんが、誰が子供を殺して刑務所に入るかとみんなで喧嘩しあったということもあるのです。結果的にその子は生きていますが、それを聞いたときはすごくショックでした。私の立場としては、結論が出ません。でも私個人の意見としては、生みたいです。保因者であっても生みたい。だから、「生ませてください。」「医療費出してください。」「福祉的な環境を整えてください。」私の結論はこうだったのです。

増山:
 私自身、先天性の障害を持って生まれてきた一人です。もちろん薬害サリドマイド被害者の一人という重さもあるのですが、生まれながらに、肩から20㎝ほどの上腕しかないという奇形があるというのは、それほど多くなく、どちらかというと私が小さいときは重い障害を持って生きるということを正直身につまされました。

 サリドマイド事件が発生して、その被害のピークは1962年から1963年にかけてです。当時、日本は医療技術が他の先進国、北欧などと比べると低かったので、助けられる命が少なかったという人もいます。他の国に比べて日本の場合、多くのサリドマイドの親たちの証言では、「子どもの処分をどうしますか」と生まれた直後に尋ねられたりしています。実際にもともと日本は、サリドマイドに限らず重度な障害を持った子どもが生まれた場合に、間引きするという文化が日本にはずっとあったわけです。だから、こういった話を聞いても驚かないわけですが、中には本当に「はっきりと濡れ雑巾をかけて放置しますか。」と尋ねた医者もいると聞いています。

 私は小さいときに、社会から冷たい仕打ちを受けたのですが、それはどんな感じかと言うと、浦島太郎に出てくる亀のように皆に周りを囲まれてつつかれるような、あからさまないじめだったわけです。その中で自分がまだ小さかったし、唯一支えになったのは手が短いということが、人に危害を加えているわけでもないし、誰かを困らせているわけでもないのに、それが何故これだけ受け入れられないのかということが全く分かりませんでした。

 私が小学校に入るか入らないぐらいでしたが、幼いながら私が実感していたことは、自分はいじめる側にならない、少なくとも私は人を差別したりする人間にはならない、ということでした。善の人間でいられると思うことが、唯一自分を支えていました。それだけ障害を持って生きるということは過酷でした。さきほど障害者の避妊手術の話が出ましたが、私は今43才ですが、私より上の世代、5、6歳上で1950何年ぐらいまでの生まれの人の間では、小さいときに、あるいは何か盲腸とか病気をしたときに、子宮を本人の承諾なしに取るということを実際よく聞きました。10代後半になっても生理がこないというので、親に聞いてみると子宮・卵巣を取っているという話でした。また大人になって、障害者同士が結婚するといった場合にも、親たちの条件として避妊手術をすることが条件だったことも、少なからず先輩から聞いたこともありますし、実際手術を受けたという先輩もいました。

 1970年代後半だったと思うのですが、私が中学生1~2年ごろの話で、当時、私は北海道の養護学校に入っていました。そこで無理心中があって、お母さんが助かって、その娘さんが助からなかったという事件がおきたときに、学校関係者や、父母の会のなかで減刑してもらおうという運動が起きました。それに対抗して「青い芝の会」のグループの人たちがそんなことは許せないという活動をしていました。私にとっては悲劇的な話でしたが、その時になんでそういう活動をするのかというのを聞いて、普通の子どもを殺したときと障害を持った子どもを殺したときは、障害を持った子どもを殺すほうが罪は軽いのか、軽いということを要求するのであれば、障害を持った子どもを殺すということは減刑に値する理由になるのかと、同じ命の重さはないのかという主張をしていたのを、その時まだ中学生でしたが、そのやり取りを鮮明に覚えています。

 私自身は中学校・高校と、ものすごく多感なときに、この体で一生送らなければいけないのか、という恐さは正直ありました。特に私たちぐらいの世代になると、見た目とかいうのがものすごく重視する時代ですので、世の中ではアイドル全盛期でもありました。昔だったら誰かを評するときに「あの人見た目はちょっとあれだけど、人当たりがいいよね」という評価があったのです。ところが、その姿・形が端正であるとか、一定の価値を社会が容認し始めた時期で、だんだん私たちが育った時代ぐらいから「見た目」の美意識を、皆が共有するようになっていったところがあります。私自身は女性でもあって、友達に足の悪い子もいたし、いろんな障害の子もいたのですが、このままで一生を送ることに、何か恐さを感じていました。私たちは本当に結婚できるのかと真顔で真剣に話していました。

 私が声を大にして言いたいのは、「障害あることがそんなに悪いことなのか」ということに尽きるし、あとで考えてみると障害があることが悪いのではなくて、障害があるという人を受け入れられない社会が悪いのだというところに決着するわけです。けれども、本当に障害を持って生まれて、普通の人が持っているような悩みの他に、さらに障害があるということで、いろんなことに悩みながら生きています。しかも、私自身が何か社会に遠慮しながら申し訳なく生きているという実態は、今もそれほど変わってないと思うのです。障害を持っていること、そのものの不便さではなく、障害を持っている人が生きるということが前提になってない世の中のあり方を真剣に考えてほしいと思います。

 私にとって優生思想は論外で、これは優先される命かどうかということを、なぜ決めなければいけないのか?と思うのです。私は小さいときに心臓も悪くて全く寝たきりという時代もあったし、ベッドに横になっている時間のほうが一日の中で長かったという時期がありました。その時に世の中の役に立つから生きるべきなのかとか、人の迷惑にならないからいいのかとか、そういうことではなく、理屈なく自分の心の中から出てくる、生きたいという気持ちをどうすることもできないという思いがありました。

 実際、私も少しずつ歩けるようになり、自分で生活できるようになって、現在に至るわけです。私にとって寝たきりだろうが、こうして元気になろうが、やっぱり障害は個性だなんてとても薄っぺらな表現ではなくて、本当に寝たきりであっても、あるいは、すごく生命が危機を及ぼすような質の病気であっても、命そのものが、存在そのものが圧倒するという何かそういうものを私はずっと生きながら感じてきたのです。やっぱり理屈ではなく人を殺してはいけないのと同じくらいのレベルで、障害を持っても持たなくても生きるということが、まず前提である世の中でないといけないと思います。障害があることが問題なのではなく、障害を持っている人が生きにくい世の中が問題だと今思っています。

松原:
 お二人それぞれのご経験から、このセッションのテーマに関わるお話をしていただきました。制度をこうすれば良いとか、ここが悪いから改革すべきだという話ができなくはないですが、それ以前に、思わず立ちすくんでしまうような重い問いがたくさん目の前に見えてきて、今回限られた時間の中でどうしようかと思っています。

 出生前診断で中絶することが、一人一人の苦しみといった次元とは別に、医療のあり方や制度のなかで許容されうるという考え方があります。あからさまに優生と言わずとも、人々の選択の中でそういう流れが浸透していることがあると思うのです。そのときによく言われるのが、既に生まれて生活している障害を持った方は手厚く支援をしますという考え方です。けれど、限られた社会資源の分配、つまり障害を持った方は普通の人よりコストがかかるという考え方から、社会資源は有限なので支援をする人がどんどん増えるということは、全体として、社会のあり方として望ましくないということなのです。だからそういう意味で、手がかかる、お金がかかる、手間がかかると生まれながら思われる人が、生まれないようにするのは仕方ないのではないかという、よくある主張になります。その考え方に対して、障害を持った人やそのお母さんたちが批判するのですが、福祉国家においては「福祉はこうあるべきだ」という公共的なコンセンサスが形成される、そうすると、もしかしたら、こういった子が生まれる、生まれないというのは、公共の利益に関わることであると言われてしまうのです。

 昨日の基調講演でも、市民あるいは患者が公共的な場面でどのように関わっていくのかという話があったと思いますが、そういう意味で昔ながらの押付けとか強制とかファシズムとは別に、公共的なコンセンサスの結果として、やはり障害を持った人は生まれないほうがいいのではないか――そんな雰囲気がでてきたときに、それにどのように対するのか、関わっていくのかについて伺いたいと思います。

早川:
 10月1日の毎日新聞朝刊の一面に載っていた記事です。府内養護学級に在籍する子どもが過去最多だと、1989年をピークにいったん減少したものが、1997年から急に増加に転じて養護学級がパンクしているということが一面に載っていました。その記事に強い衝撃を受けたのですが、専門家によれば増加の理由は、専門教育を望む保護者の増加、医療水準の向上で重度障害児の生存率の高まり、軽度障害への認識の拡大、その3本の柱、その現状だけが載っていたので、どうするのか、どう持っていきたいのだろう、というところが私は疑問として残っているのです。

 出生前診断ということは、新聞を読んでいるとよく見ます。お母さんたちが大変な思いをしなくてもいいように、こういう選択もあるのだよと取れるニュアンスで書いてあるのを見ると、何となくマスコミからじわじわと、私たちは詰め寄られているような気がしてくるのです。やはり、マスコミが訴えるのは、まるで先生から教えてもらって「2+3は5よ」と言われたことのように、スッと頭に入ってしまうパターンって多いと思うのです。だから、そういうことで、私たちみたいに悩みに突き当たっている者はいいのですが、健常が当たり前と、それが基準なんだと思っている大多数の人が、それに対して否定的になった場合、私たちはそれに打ち勝っていけるのだろうか、やっぱりそこに不安は持っています。だからこそ私は今ここで話しをしているのだと思います。

増山:
 障害を持つ人のために社会コストのことを理由に挙げられたとき、よく分からなくなることがあります。人は皆生きてれば病気もする、ケガはする、事故にあうという、様々なことが起きるわけです。どの時点で障害を持ったかによって、生きることが本人の選択ではない中で決めていいということになるのかなと思います。つまりサリドマイドが先天性でなくて、例えば、もし9才ぐらいで発症する病気であったとしたら、生まれつきのサリドマイドは間引きとかの対象にはなるけれど、途中でサリドマイドになった人はいいのかと思いますし、生まれたときに何かその体に不調があったときにだけ問題視されるのはどうなのかと思います。

 命って何の不自由も感じないで常に人のためにだけ、世の中のためにだけ、一生続いている状況にある人はいないと思うのです。ちょっと誤解を生むかもしれませんが、普通に生まれてきてもいろいろ問題を抱えている人はたくさんいると思うのです。何かの加害者になるかもしれない、被害者になるかもしれない、あるいは大きな病気をして寝たきりになるかもしれない、ではその人たちを処分の対象にするのですかということを、私はいつも考えているわけです。

 また障害者が生きるべきだという議論の中で、当事者が話をしない場合、よくありがちなことは、例えば地域社会、あるいは学校教育の中において、障害を持っている人がいると他の子どもたちの道徳教育になるとか、人生経験になるということを普通におっしゃる方がたくさん教育者の中にいらっしゃるのです。私はそういう意見を聞くと、プツンと頭の中で何かが切れるような気がするのです。何で私たちは教材にならなければいけないのかと思うわけです。役に立つとか、立たないとかそういう視点でしか私たちを計ることはないのかという気持ちになって、障害を持っている人がどうあるべきか、その人たちの命がどうあるものか、差別を受けてきた歴史をおざなりにして、やっぱりこういう思想のことは語れないと思います。

 生まれた私も、生んだ早川さんも今の時点で何も悔いてないわけなのに、国家主導と思われる優良な子孫を残すことが、姿・形を変えながら脈々と続いてきて、日本であっても外国であっても文化の根底の中に優秀な人を残したいという思想が受け継がれていくことが、私は理解しがたいと思っているのです。

松原:
 優秀な血統を残そうだとか、能力の高い人だけで社会を埋め尽くそうとか、そういうことは、今はあからさまに言われることはありません。ただ医療は、私たち一人一人を支えてくれるものと思うのですが、一方で医療を政策的に支えるときに、また別の目的が出てきます。医療には、社会的な生産性を支えるために働ける人を再生産していこうとするところがあります。福祉にもそういう側面があると思うのです。

 胎児診断にしても、一人一人の苦悩に答えると見える部分もありますが、それが何故普及するのかというと、普及させるのに値するという判断が社会とか医療制度の背景にあるから、普及するのだと思います。自分の体や子どもということになると、一人一人の苦悩や選択とか、いわゆる個人的な問題として閉じてしまいがちですが、何故目の前にそういった技術が成立しているかということを考えると、それなりに社会的に有用だという理由があり、「それで助かる人がいる」という理由をくっつけながら進めているところがあると思います。一人一人の苦悩と制度がきれいに分かれていないので難しいのですが、少なくともそれぞれの苦悩に寄り添うことに、問題を落とし込み切ってしまうのは、やはり絶対いけないのです。

 しかし早川さんがおっしゃったように、マスコミなどは「皆さんにとっていいことでしょ」という装いで技術を提示するのです。私が今のお二人の話を聞いて感じたのは、人って「生もの」で、いろいろだということです。例えば、ある遺伝的な体質で生まれてくるのは、自分の責任ではない、自分で選んだわけではないのです。増山さんがいろいろな経緯の中で生まれてきたというのも別に自分で決めたことではなくて、人は生き物ですから、さまざまな偶然や条件の中でいろんなことが起きます。どう生まれて生きるかには、生き物としての揺らぎがあるのです。

 一方で先を見越して自分にとってよりよい生活、よりよい人生を目指したいということもあります。だから出たとこ勝負ということも、もちろん常にあるのですが、そこに何か不自由があったときに、本当のことは分からないけれど、おそらく先はこういう事だろうと見越して、それを技術で悪い条件を取り除けるならば、採用したいという考え方があります。社会や医療が、出生前診断を開発・普及させるのは、先を見越すための技術を受容したいという人間の気持ちの方向性というのがあって、それを支えるものとして登場してくるのではないでしょうか。ただ技術はエスカレートするというか、技術自体の論理で進むことがあるので、実際は望んでいなかったのに何かそこへ巻き込まれていくというところがあると思います。

 だから、はっきり言うのは難しいのですが、我々は強制なのか自主的なのかははっきり区別がつかないわけだし、自分たちが決めることは大事であるけれど、それはある条件の下でしか決められないのも事実です。ではその条件というものが何によって決まってくるかということに目を向けなくてはいけません。つまり制度、社会、技術、科学が、どういう動き方をするものなのかを見ざるを得ないと思うのです。やはり当事者と技術とは共犯的なところがあって、それをどうやって解きほぐして、こういうことだと思い込んでいる人たちと私たちが対立するということであれば、思い込んでいる人とどう関わっていくかということが出てくるのだろうと思います。

 1960年代に母子保健政策が重点化されましたが、母子保健政策はお母さんや子どもを支えるものである。しかし同時に、病気の人を作らないという医療の論理あるいは医療政策の論理が高じると、病人がでてはならない、病気の人が生まれてきてはならない、こうした問題を克服するために進んでいかなくてはいけないという発想になってしまう。そうすると、本来いろいろな人を支えるはずの医療が全く別の目的や論理で走っていってしまって、病人を支えられないどころか、生きられなくするということにまでなると思うのです。

 今回、優生というキーワードをあえて入れているのですが、これは実は危険なキーワードでもあります。というのも、優生と言ってしまうと、何か分かったような気になって、その名のもとにいろいろ整理してしまったり、断罪してしまったりするところがあります。物事を見ていく手がかりにもなるのですが、同時に思考停止にも陥ってしまうところがある。私が最初に話したことは、本当はそういう意味ではよくないことかもしれないのです。早川さんや増山さんのように、日々衝突をせざるを得ない、そういう中で生きてこられている方がどういう現場あるいは、どういう問題を突きつけられてきたのかをもっと丁寧に見ないといけないと思います。

増山:
 私たちサリドマイド被害者にとって、大きな懸念があって「サリドマイド」が再承認に向けて、今、書類審査を受けている段階に入っていて、あと1年以内には薬として再び医療現場で使われることが現実になっているのです。最初「サリドマイド」の復活が私たちは反対であるという意見表明をするべきかどうかということで、サリドマイドの当事者の中でものすごく議論になったわけです。しかしよく考えてみると、「サリドマイド被害者を生むな」と何げなく生まれてはいけないのだという話になると、「えっ。私たち、生まれているしなあ。」とか、ごちゃ混ぜになったわけです。自分たちの自己否定に繋がる話なのかとサッと頭をよぎったわけです。本来防げる・回避するための制度をきちんと作らないままに、サリドマイドの被害が出ることは容認しないけれど、でもサリドマイド被害を持って生きる人自身を否定しているわけでは全然ないのだという話になったわけです。

 多分それに尽きるのだと思うのですが、病気を治したり、痛みをとったり、そのものを軽減することで生きやすくすることと、障害があることを受け入れるかどうかというのは、やはり別に議論しなければいけないと、そこでハッと思ったわけです。とにかく、私はその優先される命があるかどうかという議論の前に、今こうして自分が生きている世の中から、生きて良いというメッセージが全然伝わってこないことが、ものすごく自分自身の生きていいことを不確かにしているし、いくら私自身が、手が不自由で何が悪いと開き直ったところで、歴然と世の中・文化の中に脈々と障害を持った人や病気の人を差別することが流れているわけです。そういう事をそのままにしている世の中で、優生思想云々というのは、とうてい無理な話なのかとさえ思うことも正直あります。本当にこの生きにくい今を何とかしてくれという気持ちは、たぶん障害を持っている人がどこかにいつも抱えているのではないかと思います。まず、生きていいかどうかという、そういうことに常に差し迫られて、小さい頃から今日まで、どこかで何度か節目節目でそれを身につまされるような世の中って、いかがなものかと私は思います。

松原:
 病気の話とは違いますが、終戦直後、混血児の人たちが、敗戦の屈辱の証ということで、生まれ育つこと自体を否定されました。その人の存在自身が、人々にとっての苦難とか災厄とか、不幸そのものの象徴のように見えてしまって、存在を見るのが耐えられない、そういうことがあったわけです。

 「サリドマイド児」も、あってはならない薬害の不幸の象徴のようにみなされ、そういう人が姿を現すこと自体が、不幸を見せ付けている、そういうメッセージとして受け取られてしまうところがあったのではないでしょうか。たまたま「サリドマイド児」と呼ばれてもいる、その人は、「サリドマイド」を象徴するだけの人では当然ながらない。様々に生きている人々のひとりにすぎません。でもその生きづらさの中で、どうしてもサリドマイドの問題に関わらざるをえない局面があり、その行きがかり上、薬害被害者として発言したり行動したりすることもある。難しいと思うのは、サリドマイドの使用を制限させるという理屈と、「サリドマイド問題」に回収されない、されてはならない増山さんご自身がいるということ、そのあたりをどのように整理できるのか、あるいは整理してはいけないこともあるのかもしれないけれど、そのあたりはいかがでしょうか。

増山:
 小さい時には全然今の自分を想像できないくらい、今は自由に動けるようになったのです。そこまで来るのに、本当に多くの奇跡を見たと思うのです。歩けないと思っていたのが、歩けるようになって、小学校まで生きられるのかと思っていたのが生きられたわけです。その中で医療の恩恵もたくさん受けて、持っている命の強さだけではもちろんないわけですが、今日まで来ると、もう理屈ぬきで何かこの命の輝きというか、誰かがどうのこうのという次元ではないことを肌身で感じています。そこに生命があって育つということを、どうにかするって事は誰の権限にも委ねられてないと思うし、命を育む思想が育んでいいものと育まないものを選別する思想があるのであれば、そんな思想で育まれる命ってなんだろうと思います。

早川:
 私の場合、広く問題を捉えていると思います。今、私たちは生むとか、生まないとか、本当に直面した位置で命を考えていると思うのです。児童養護施設もあふれるぐらい親が子どもを遺棄している状況であって、そういうことを聞くとすごく複雑、頭が混乱してくるのです。「生んだのに何で捨てんの。」と、すごくベタな位置でいうと、「それやったら中絶したらよかったのと違うの?」と、どこかでそういう言葉が出てしまうのです。しかし、すごく大きな迷いの中でも、この問題は、生む側である私の立場からすると、どこまでいっても平行線、いろんな意見があると思うのです。最後はシンプルに個人の気持ちであり、生まれてきたら生きるのが自然ですよね。女であって、妊娠できる体であって、結婚すれば子どもって自然の流れで生みたいと思うことも自然だと思うのです。だから、何がいいとも悪いとも、どこまでいっても平行線の中で、やっぱり自然に生きていきたいです。

松原:
 やはり幸福の条件はこれだと何か思い込んでいるところがあって、その条件を追求していくのが社会の責務だとされている。ただその幸福の条件は、実はすごくのっぺりした生産性とか、効率性とか、あるいは結果が何か指標で分かるとか、そういったところに基づいていたりするわけです。障害を持った方が、「私は不幸ではない、幸福だ」と言うことがありますが、それは「障害者は不幸でしょ」という世間の決めつけに対抗して言わざるをえない、ということではないでしょうか。障害という概念とは別に、誰しも不遇だったり不幸だったり、いろいろあるわけです。だから、それでも幸せだとか、それでも大丈夫とか、障害者としての立場であえて言わされる状況になっていること自体が変な話です。一般社会が気づいていない人生の面白さっていいますか、そういうことをやっぱり増山さん、早川さんが言っていくしかないと思います。私がハンセン病の元患者の方のお話を伺ったときに、圧倒されたのは目の前にこの方がいる、ということでした。その方が紆余曲折を経て、今この生に辿り着いているという、そのことだけで圧倒されるのです。贅沢なことは言っていられない、社会資源の分配をどうするのだという話にすぐなるし、実際それに絡まないと、私たちは医療や福祉に支えられていますから、生きられないということもあります。現場で何が起こってどうなのかということをリアルに伝えていくことで、例えばメディアが発信する一面的なのっぺりした紋切り型の通念を常に覆していくことをするしかないというのが感想です。

 いけないのは、結論を急ぐことです。是か非か、白黒を早くつける、落としどころを決める、政策的にはそういう要請がある場面もありますが、いろいろな生き物である人が今生きている、これまで生きてきたことの「判定」を急いではいけないのです。いろんな事があるということを襞に分け入って、語っていく、淡々とくどくどと、ときには大きな声で伝えていく、それが大事なのではないかと、お二人のお話をうかがって思いました。