生命を育む思想:ファイナルフォーラム 全体総括 | ネットワーク医療と人権 (MERS)

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生命を育む思想:ファイナルフォーラム 全体総括

ファイナルフォーラム 全体総括


座長:

 村上陽一郎(国際基督教大学大学院)
パネリスト:
 松原洋子(立命館大学大学院)、木野茂(立命館大学 大学教育開発・支援センター)、粂和彦(熊本大学 発生医学研究センター)、蘭由岐子(神戸市看護大学)、山崎喜比古(東京大学大学院)、横田恵子(神戸女学院大学)


村上 陽一郎 YOUICHIROU MURAKAMI
(国際基督教大学大学院)


1936年東京生まれ。
国際基督教大学大学院教授。東京大学名誉教授。
専門は科学史、科学哲学。東京大学教養学部卒。
同大学人文科学研究科比較文学・比較文化専攻博士課程修了。
東京大学先端科学技術研究センター長などを歴任。
主な著作に「生と死への眼差し」「科学者とは何か」「21世紀の「医」はどこに向かうか」「科学の現在を問う」「安全と安心の科学」などがある。

 


村上:
 
この全体総括では初めに各セッションの報告から始めたいと思います。本日各セッションを聞いていて医療と医学を区別する話が出てきましたが、基本的に医療はリスクマネジメントであると考えています。このような表現をすると、すぐに医療の方々は「そんなものではない」とおっしゃいます。私はかつて15年くらい前にも、医療の方々に「クォリティコントロール(QC、品質管理)ということが医療にも必要だ。」と言いましたら「医療とはそんな世界ではない」と、特に医師の方から言われました。

 いくつかの病院のインシデントレポート1)制度の立ち上げに協力したときも、最初のうちは「フールプルーフ2)などとんでもない、インシデントレポートの何が役に立つのだ」といったことばかりが医療者の口から出ました。現在でも、どちらかというと医師が非協力的で、インシデントレポートに協力して下さるのは看護師だけで、私の関係しているところでも97%までが看護師やコ・メディカルの方々からのレポートで、医師からのレポートはほとんどないのが現状です。

 しかし医療というのは、CBA(Cost Benefit Analysis)、つまりどれだけメリットがあるか、どれだけデメリットがあるか、というバランスの中で常に行われてきているのが本当のところだと思います。これについても医療者、特に医師は納得しないのです。

 昨日・今日の二日間、このような問題を集約していく雰囲気が感じられました。いかにして医療の中に望ましい形で実現していくかということが、今回の「生命を育む思想」のキーになるのではないかと感じております。


1)・・・施設などの組織において発生したインシデント(アクシデント)について、職員からの自発的な報告を待つ方法で、組織における事故の5~30%の出来事について把握可能であるといわれている。

2)・・・人間は「うっかりミス」をおかすものという前提にたって、誤った操作ができないようにしておくこと。

 フォーラム1 「生まれること、生むこと -優生思想と当事者-」

松原:
 このフォーラムは、財団法人いしずえの増山ゆかりさん、大阪ヘモフィリア友の会の早川寿美代さん、私の3人で進めました。病を負って、あるいは障害を持って生きること自体の中に、いろいろな苦難や困難があり、それが薬害や公害のような被害を受けて、ということでありますと、さらにいろいろと大変なことがあるわけです。このフォーラムでは、「生まれること」そのもの、あるいは「生むこと」そのものが、「あってはならないこと、なされてはならないこと」という、前提から否定されてしまう局面について光を当てました。これは昔から優生思想という形で、一部で推奨され、あるいは批判されてきました。

 早川さんは血友病の男のお子さんを2人お産みになり、3人目に女の子を産んだ方です。そして初めてのお子さんの時にご自分が保因者であることがわかったそうです。2人目3人目の出産時に、「何故産むの?」とか、産むこと自体を不思議がられ、非難めかされて見られました。また子供を育てていく上で様々な困難を経験してきました。出生前診断とか、遺伝カウンセリングが社会で注目されることに危機感を持ちながら、早川さんは「自分の考え方のどこがいけないか、何故生むことを妨げようとする力が働くのか」について自問してきました。

 増山さんは、サリドマイド被害を受けた方で、同じように生まれた他の方たちは、赤ちゃんの時に、事実上間引きされる、たとえば濡れ雑巾を顔にかぶせることを医療者から提案されたことを身近に聞いた経験を話されました。また女性の被害者の方で、月経の手当や子育てが大変だからという理由で子宮摘出手術をされることも珍しくないと話されました。そしてご自身も「浦島太郎の亀のようにいじめられた。」とのことでした。

 お二人は、生むこと・生まれてきたことについて、周囲から陰に陽に「あってはならないこと」として様々な形でメッセージを受け、実際に妨げられてもきました。お二人にとって生きていくことは、圧倒的に楽しいことや大変なこともありつつ絶対的な肯定感を持てるもの。それなのになぜ周囲にはそれを否定する思想があるのかについて話しました。

 私は優生学の歴史を調べてきた立場から、ナチを連想させる優生学の強制的なイメージの根底には五体満足が元気で幸せ、そうでない条件は元から断つべきという考え方があり、その実践が自主的なものとして受け入れられてきた、そして現在では、その価値観が、医療化された技術と共に個人の選択で実践されてきているという話をしました。

 要するに「病気や障害をもつと不幸だ」とか、「不幸になる条件を取り除くこと」が先見の明があり、当然手を打つべきということで医療や政策が進められていきますが、そもそもその前提がどれだけ根拠があることなのか分からないのです。一人一人の生きていく現場の細やかなひだをまともに見ようとせず、紋切り型で「幸せ」とか、「健康である」ことを価値として追求していくことが、いまここにある「生きる」幸せ、多様な生、生命を育んでいる現場を逆に見えなくしている。たとえば障害を持つことは不幸、と言っているその人たちに、何を根拠としてそういうのか問いただし、根拠とみなされてきたその内実を確かめていくこと。そして一人一人の生きていく現場に寄り添い、耳を傾けていくことから始めなければならないということを確認しました。

 フォーラム2 「水俣病と現在」

木野:
 私は1970年頃から、水俣病はじめ公害環境問題の被害者の方々と長い間つきあってきました。水俣病は、薬害エイズやBSE問題に比べると、最も古い公害問題の典型例です。今年の5月1日で水俣病公式確認からちょうど50年を迎えましたが、今回のフォーラム参加者の方々の多くは当時まだお生まれになっていませんでした。

 フォーラムでは最初に、水俣病50年間の歴史の概要を理解してもらうために、チッソ水俣病関西訴訟の原告患者である坂本美代子さんと私が対談しました。少なくとも未だに問題が終わっていないことを分かっていただけたかと思います。水俣病公式確認の1956年に、坂本さんとご家族も被害にあわれました。出身地の湯堂地域やご家族のこと、関西に来られてから現在までの様子を話していただきました。水俣ではその後も様々な事件が起こっていました。1959年の有機水銀説が、最初に水俣病を公害と認める機会だったのですが、政府が正式に公害と認めたのはそれから9年後の1968年でした。しかし、水俣病の被害を拡大させた国と県の行政責任は、2004年10月15日の関西訴訟の最高裁判決が出るまで認められませんでした。患者を切り捨ててきた国の認定基準についても最高裁は一顧だにせず、原告側の主張に沿った患者認定が司法で行われました。

 最高裁判決後の2年間で水俣病問題がどうなったのかを、もう一つの焦点にしました。この間、新たに患者として手を上げた方が1万人を突破し、うち約4300人が新たに認定を申請しました。また小泉政権による医療費のみの救済に申請した方が約5800人でした。しかし認定審査は現在止まっています。最高裁判決により、今までの認定基準では進められないということで認定審査会の委員が再任に同意していないからです。また小泉政権と小池環境大臣は一貫して認定基準は変えないと言い続け、混乱がむしろ広がっている状況です。したがって関西訴訟の患者は地裁・高裁・最高裁と3度も判決で水俣病と司法認定されているのに、いまだに行政からは水俣病であると行政認定されていないのです。

 次に、水俣病問題はどれだけ伝わっているのか、その具体的な事例として、若い人たちに水俣病をどう伝えるかで七転八倒された甲南女子高等学校の教諭である藤田三奈子さんに報告をお願いしました。高校の総合学習科目で水俣病をどう取り上げ、どう取り組んだかについて話していただきました。ご自身が水俣病をほとんど知らなかったための苦闘話、そして生徒たちの水俣訪問にあたり、水俣の魚に偏見を持っていた親御さんの意識を変えていく話など、貴重な体験を話していただきました。

 私は、水俣病事件の中で専門家・科学者が果たすべき役割が非常に大きかったことを話しました。水俣病に限らず、公害事件では常に専門家の責任が問われてきました。基調講演でのトランスサイエンス・媒介の専門家などは、公害事件に携わってきた者からみると非現実的で、むしろ科学者・専門家がどういう役割を果たしたかを被害者は問い続けてきたのです。結果として研究者や科学者が研究室に閉じこもっていては駄目だと分かったのです。公害や環境の現場では、研究者・科学者と被害者の風通しを良くしなければ一歩も先に進めないことが明らかになりました。

 また坂本さんは、水俣病事件について一番辛かったことや、自分たちの経験を自分の孫たちと同じ世代に伝えることが自分の役割であると語られました。これに対しサリドマイド被害者の増山さんは、被害者や患者が語ることは非常に大事であるが同時に痛みを伴うこと、そして、その語りが患者にどれだけ意味があるかも重要であることを指摘され、一般的に被害者としては公害も薬害も基本的には犯罪であり、その責任追及は当然であるとコメントされました。坂本さんたちと孫のような付き合いをしている山中由紀さんは人との出会いを大事にしたいとコメントしました。

 最後に、このフォーラムを契機に、横のつながりを広げていこうとまとめました。

 フォーラム3 「医療における医学と倫理」

粂:
 このセッションは、医療情報の公開開示を求める市民の会、陣痛促進剤被害を考える会の世話人、そして中央社会保険医療協議会委員の勝村久司さんとMERSの花井十伍さんと私で行いました。

 医師は医学的な視点は持っていますが、医療の中には倫理的な視点がまだ欠けています。それがこのセッションのタイトルで、情報の非対称性が大きな要因なので、医療現場にもトランスサイエンスの考え方を持ち込みたいと思いました。

 また倫理以前の犯罪ともいえる問題もあります。勝村さんは、奥さんが1990年に出産で入院したとき「陣痛促進剤を使って欲しくない」とお願いして、医療者が「使いません」と言いながら、点滴をされ、そして過強陣痛でお子さんを失い、なおかつほとんど人として扱われなかった経験を話しました。そこには患者を人として扱うという最低限の倫理が欠けていました。その後、勝村さんは民事訴訟を起こしますが、カルテ改ざんや証拠隠滅、当事者ではない医師が書く鑑定意見書に、同じ医師をかばうための嘘を書き連ねられるという、あからさまな嘘との戦いとなりました。

 昨日の基調講演で、養老さんがインターンのときに、医療事故をたくさん目撃して、こんなに医療が不確実なものなら、自分は何を信頼して科学的な目で何をすればいいのか分からなくなって、結局自分は医者にならなかったと言いましたが、ぼくも比較的同じような経験と気持ちから、現在医者としては最先端の診療はしていません。倫理面での問題を気にしだしたら、その場に居続けられないところが20年前の医療にはあって、「白い巨塔」的でした。今でも一部は続いていて、明らかに閉鎖社会における封建性が残っています。QCやCBAなどの考え方では、例えばトヨタなどが有名ですが、それはトヨタが徒弟制度を廃止する近代化の流れの中で出てきたわけで、医学部で採り入れられないのは医学部が近代化以前の状態だからなのです。

 医局内や各診療科間での壁があって、例えば産科と小児科というのは、しょっちゅう喧嘩していますから、お産に関して小児科は帝王切開を、産科は自然分娩を主張し、いつもそこには患者不在の医療しかありません。先ほど好井さんが医師としてのアイデンティティはどこにあるのかという問題提起をしましたが、封建社会の中にいる医師は、戦国時代の武士や武将と同じなのだと思います。僕はそんな医療社会から逃げ出したわけですが、20年間の経験の中で医療事故の被害者の方たちと出会ったり、知り合ったりしました。

 逃げ出したので医療界に何かものを言う資格はないかもしれませんが、現在メディアなどで問題となっているレベルでは無く、かなり低次元のことが世の中に数多くあることを出していかなければと思います。そして医師自身の中にパブリック(公共性)を持って欲しいと思います。

左から、松原洋子氏、木野茂氏、粂和彦氏、蘭由岐子氏、山崎喜比古氏

 フォーラム4 「医師と患者の語りから-EBMとNBM-」

蘭:
 兵庫医科大学総合内科の臨床医師である日笠さん、松山大学の山田さんと私が行いました。私から医療における語りへの注目について、医療人類学のクラインマンの書いた『病の語り』の中から事例をあげて話しました。診療現場で医師と患者のそれぞれの物語をすり合わせていくことで、臨床現場の質の改善を目指すNBMの重要性を紹介しました。

 日笠さんからは、医療現場ではNBMだけでは不十分で、他の手法と併せたEBM(証拠)の基本的な流れを説明しました。「物語」に対しては「問い」があり、「証拠」には「経験」があって、それぞれが影響しあいながら良い医療を目指していることを示しました。そして患者から聞き取って患者に返す部分がNBMであることを説明し、EBMとNBMは車の両輪であって対立しないことが示されました。

 山田さんからは、私たちの行っているHIV感染問題調査研究から出てきた医師と患者の語りを取り上げて、医師と患者の多様な語りを聞く場合にどういう可能性があるのかを話していただきました。具体的には包括医療に関わる医師の語りを取り上げ、カウンセリングの視点などによって医師が新たな患者の側面を捉えられるようになった経験を紹介しました。包括医療において患者の状況を聞き取る糸口を示しました。また患者の語りについては、特にピアカウンセリングをしている方の語りがとりあげられ、医者任せにしてきたことをリフレクシブ(自己言及的)に反省している語りが紹介されました。

 フロアとの議論では、医師と患者の語りの接点から対話へつなげていくことが、ナラティブアプローチの視点で社会学を行っている私たちにできることではないかと述べたところ、患者の語ることは臨床現場ではあくまで背景情報にすぎず、社会学のナラティヴ・アプローチではそれこそが研究対象となるという意見が出されました。

 さらにEBM・NBMを行うためには橋渡しとなる人間が必要ではないかという意見がフロアから出されました。それに対して日笠さんは、患者は話す相手を職種だけで選ぶのではないから、職種を拡げておくだけでなく、いろいろな人を配置しておくことが重要であろうと答えました。また患者の語りを聞くことを医師だけに要求をするのではなく、患者の方も自分が判断できるように勉強しておくことが必要であると話しました。

 チーム医療を提供している施設には橋渡しをする職種がいる可能性が高いが、一人で診療している開業医の場合には難しいかもしれないという意見が出され、山田さんから患者会とか支援団体などとの連携を模索したらどうかと答えました。

 EBM・NBM、そしてパターナリズムといったことが話題になりましたが、フロアからはEBMなしのNBMは危険ではないかという意見がでました。NBMだけでは医療は成り立たず、反対にEBMのみの医療は患者にとってマイナスであっても、結果としてはデメリットはそんなに大きくならないだろうということ、そして包括医療はNBMのためだけではないという指摘、NBM・EBMの両方に長けた医師がいれば患者は全てお任せになってしまい、パターナリズムの問題性がますます高くなるのではないかと指摘もありました。

 いずれにせよ、医師と患者の各々の語りを問題にするのではなく、対話をどのようにしていくかという語りの間のすり合わせを行うことが重要であり、それこそが大きな課題であると受け止めました。

 フォーラム5 「薬害エイズ調査からの報告」

薬害HIV感染被害者(患者・家族・遺族)生活実態調査から

山崎:
 山崎、伊藤、溝田という順番で報告させていただきましたが、被害を一つ捉えるにあたっても、持ってくる枠組みというのが非常に重要です。その枠組みに照らして、複雑にいろいろなものが絡み合った事象が解けてくるわけですから、調査を組むにあたって、どのような新しい理論、包括的な議論を持ってきたかということです。私たちの調査は、方法論的に、当事者参加型リサーチという、従来研究の対象となっていた方が、調査の主体としても共同研究者としても参加する形態をとっています。この方法が持っている可能性というのは、世界共通のキャッチフレーズにもなっていますが「エンパワメント」であると思います。質的な研究によって明らかにできるデータは一般化が難しいのですが、語りが量的研究によって明らかになった全体図の中で位置づけられる時に、語りは質的に燦然と輝いてきます。量的にも質的にも隅々にわたって見渡した研究というのは大変ですが、理想としてはあると思います。それを私たちは被害者研究に適用してきたのです。

 被害者研究というのは医療でいえば治療研究となるのですが、HIV感染問題調査研究は被害がいかにしてもたらされたかということ、つまり一種の病因論ですから予防研究になると思います。治療研究と予防研究の関係は何か。実際、私はこれまでトンネル坑夫の塵肺を調査する社会疫学研究を行ってきましたが、ある意味でそれは予防研究でした。重症塵肺になって労災を受給しながら生活をしている方々に調査を行っている時に、その方々から「この調査が何か俺たちのためになるのか」と言われました。熊本大学の原田さんが行っている水俣学のように、「薬害学」が必要ではないかと感じてきました。ですから健康社会学の持っている総合性とか、学際性とかを採り入れて欲しいと思いました。

輸入血液製剤によるHIV感染問題調査研究から

横田:
 私たちの調査の経緯を補足させていただきます。2001年の段階で当事者の方々からHIV感染問題に直接関わった医師たちへの聞き取りを行うことを目的に、私たちの調査チームは依頼を受けて開始されました。調査開始当時の状況というのは、和解後ある程度一段落をした時期でもあり、その当時定式化されていた言説というのは、マスコミによって定式化されていた構図だけではなくて、1985年から15年経った段階でも、医師の状況だけがよく分からない、患者や家族にとってもよく分からないということがありました。そのありようを知りたいのだという依頼でした。やはり直接にあのときどうだったのかということを聞き取ろうと考えました。実際の非加熱製剤投与に関して、またHIV抗体陽性告知についてどうだったのかという、一人一人のありようについて尋ねていくプロジェクトができました。聞かれた人のことはあくまでその人自身のことであるので、大きなマクロ的部分とどうつなげていくかという問題はありますが、ここからどのような知見を得ていくのか、どのような提言・問題提起へつなげていけるのかということについては、自分たちも問いかけながら話し合いながら実施しています。直面した大きな問題として、医師が語れないこと・語れることも一つ大きな課題です。

 質疑応答

フロア:
 医療とはどういうことなのか、大まかにいえば治療・治すという趣旨がメインだと思うのです。治す場合には、何か歪んでいるものを正す・矯正するというニュアンスが出てくると思います。病気であれば治すということは理解できますが、遺伝子とか生命操作などについては、いかがなものかという考え方もあります。もし治療・治すことを人間が放棄してしまえば、副作用もない、薬害も起きない、医療ミスもない、コストもかからない、その代わり寿命が短くなるかもしれない、では医療の本題的な意味は何なのだろうかということ、コストとかQCという面から考えてみても、医療のあり方としてもどこまで求めていくかということが問題だと思います。医療について誰がどのように考えるべきなのか教えて下さい。

粂:
 今の問題は、疾患とか病とかをどう捉えるかという問題に直結すると思います。それを答えられるほど僕は深く掘り下げていないのですが、例えばメタボリックシンドロームなどの話題がありますが、それを誰が作っているかということを考えてみるべきです。また医学部の封建的部分があることを問題提起しましたが、そこに資金を提供しているのは製薬企業なのです。「ビッグファーマ」や「科学の外観をまとったグローバル・ビジネス」など、薬害が起きていくことや、EBMが作られていく中で、実は根本的なところに、キャピタリズム(資本主義)が入ってきて、我々の気づかないところで一部の疾患が作られている訳です。こういう事実があるということを気づいて欲しいのです。

村上:
 生命操作(デザイナーズベイビー)についてどう考えるかという質問もありましたが、教育はどうなのでしょう。教育という概念は、両親の立場から、子供により良くなってもらうために授けるものということになると思いますが、そのために塾にやったり、家庭教師をつけたり、学校へ行かせたりするわけです。それが許されている以上、その基礎になる遺伝子に関して、より良いものを求めることが、果たして本当に悪いのかということは、私個人は、その両者を混同したくないと考えますが、少なくとも議論にはなりうると思います。

花井十伍(大阪HIV薬害訴訟原告団):
 今の議論の答えにならないと思いますが、生命操作を決めたいと思う人もいるし、決めたくない方もいます。最終的に何らかの価値観が形成されると思いますが、それは社会規範なのか、トレンド(はやり)なのか、世間なのか、それは分かりません。粂さんが言われたことは、経済的原理によって病気が作られるということだと思います。薬害の問題では、政治的に大きな力をもつ人が病理学をコントロールできることは事実だし、どこまでが病気かということになると思うのです。

 例えば頭の良い子を産みたいと思えば、頭の良い人から遺伝子をもらえば良いことになります。マドンナが良い精子を買ってきて自分のお腹で受精させて産んだりしています。サイエンスによって頭の良い遺伝子を作れば、その遺伝子を扱う企業の商品となるわけです。仮にその遺伝子を使って頭の良い子が生まれて、どんなことが頭の良いことかと条件を決めていくことになるのです。すると、養老さんのいう脳すらも自分でコントロールして、コントロールされた脳によって、新たな価値観を生み出すという、自己言及ループに陥ってしまいます。つまり力関係で決まってしまうことがあたかも正義とか、科学とか、とっても良いことのように健康なのだと言われていることが、本当にみんなで見える社会にすることが重要なのだと思います。その社会を作った上で、議論を始めないといけないと思ったことが、僕らが今回のフォーラムを企画したきっかけなのです。

 一般的な価値観が、本当はどのように決まっているかということを、なるべく多くの人が見えるようになって初めて、「医療について誰がどのように考えるべきなのか」の議論はその上で決めたいと思います。つまり誰かが「しめしめ儲かるから」とか「よかれ」と思ってやられるのは良くないと思いました。

フロア:
 遺族であり支援・啓発活動を行っている立場の人間です。後半のHIV感染問題調査に関してコメントおよび感想を述べさせていただきます。

 薬害の発生に関する原因究明なので、1985年7月までの時期を聞き取っておられる点は重要なのですが、1986年から1989年くらいまでのパニック報道で非常に心理的にトラウマを受けているという部分のことは、1985年までの調査にこだわると見えなくなってしまいます。

 医師も当事者であり、患者も何故当事者であるかということに「納得できない」葛藤があるわけです。1985年以前に感染が決定されたことで納得できないことと、社会的な大きな抑圧、差別、圧力によって二重に納得できない部分があったと思います。ですから、聞き取りが非常にコストのかかるものと聞いていますが、もしこのまま調査を続けられるのであれば、1980年代後半の部分も焦点化された方が良いと思います。

 この調査は、双方に非常に痛みを伴うということは同感ですし、この調査結果をどう使うのかということになると思います。その場合、社会をどう変えるかという点だと思います。HIV/AIDSは、やはりマスコミ報道による病のスティグマ化、スティグマの強化というものが大きかったと思います。私自身のその後の活動の中で、もう一回その意味を再定義するのが非常に困難なのです。かつ今の社会状況の中でも病のスティグマ化が反復的に行われています。明らかに1996年頃の薬害エイズの報道が盛んにおこなれていた時期に多感な思春期を過ごされた子供たちと、現在の子供たちとではエイズに持っているイメージやHIVに対する差別は明らかに後退しています。

 ですから、今後の私の活動に調査結果を活かせるのであれば、今後もそのあたりを解明していくようなナラティブアプローチを実施していただければと思います。

横田:
 1985年の7月までの聞き取りということでしたが、本日医師-患者関係で明らかにした知見が1985年7月までの結果を使ったということです。聞き取り自体は年月を限って行っているというわけではありませんし、包括的に実施しております。ですから本日明らかにしなかった1985年7月以降の調査結果もございます。

種田博之(産業医科大学):
 報告時間の制約上、時間軸を伸ばしてしまうと非常にトピックが増えてしまって焦点がぼけてしまうため、1985年7月までを今回の報告とさせていただきました。まさしく本日の他の調査結果からも告知の問題がでてきますが、現在告知の部分については分析している最中です。後日告知に関する部分の報告ができると思います。

フロア:
 このフロアに医師の方々が少ないのは分かっているのですが、できれば調査に協力いただけると、皆さんの痛みだけではなくて、将来的な感染予防にも役立つということを、感染予防活動をしている者の立場からも申し上げます。

横田:
 調査結果をどう使うのか、社会に資するためにどう活かすのかという指摘をいただきましたが、調査対象者双方にとって非常に深い部分の痛みを伴う形で調査を実施しているだけに、この点に関して非常に大事なことだと思っております。

養老孟司(養老研究所):
 ドクターの方からあまり意見がないのですが、本日全然使われなかった言葉に「権力」というものがあります。医師-患者関係の中で、やはり社会的に一つの大事なことがあって、それは前提として平たい言葉でいえば「医者はえらい」ということがあると思います。先ほど種田さんの短い要約ですが、不確実性のある時に医者が勝手にしない、要するに不確実性の存在する場合には医者だけで決めないと言われました。実は昨日、私は救急医療の例を出しましたが、その言葉だけ聞くと不可能な場合があります。医療といわれるものには、ある意味緊迫性を持っていて、その場その場で判断する必要があるのです。ここは民主的討議の場ですが、その立場からの考え方が出てきていないと思うのです。

 社会学的調査の場合に、「医師の信念の中に間違いなくありますよ」といって十分わかっておられてやっているなら良いのですが、社会的常識とは明らかに異なると思います。権力ということが良いか悪いかは別なのですが、つまり、あまり何も考えずにいる人の常識の中に、そういうものが医者の側に心理として存在するのです。権力ということについて、ある意味で触れない方が良いということで報告が出なかったのか、あるいは、そもそもそういう考え方ではないから、典型的に社会の人間が民主的で平等であるという視点から議論が進んでいるのか、私としては気になりました。粂さんも封建的という言葉を使われましたが、実態がよく分からないから私は使わないのですが、この社会がある種の権力関係・上下関係を基本にしているのは間違いないからなのです。こういう側面に触れない議論にすると抜け落ちる部分があると思います。

村上:
 医師はCBAできちんと答えのでないような時でも、答えを出して行動しなければならないという場面に常に立たされているわけです。この時のコストというのは、経済的にお金のかかるという意味だけではありません。手術をする時の患者の痛みとか苦しみ、動けない時間が何日かあるとか、ということも当然コストになります。そういうことがあっても手術をする方が、ベネフィットが大きいという時に、まさにCBAが働いているということになります。そういうアナリシスをしても科学的な答えが出ないときでも(エビデンスがない時でも)、判断しなければならない状況はいくらでもあると思います。ほとんどそうだといって良いと思います。

 それが真実だとすれば、そこに何らかの原理が働くという考え方もあり得るわけです。今国際社会の中でプリコーショナル・プリンシプル(precautional principle)という一つの概念が広がり始めています。通常の科学的合理性の中で判断したときに、いわば、やらないことの方が合理的である場合でさえ、万が一悪い方のシナリオを取ったときには今この処置を取っておくべきだという行動原理をいいます。けれど厚生労働省、つまり日本政府は「絶対にプリンシプル(原理)と言うな」というのです。しかし、これは現実には医療の世界でも行われているし、社会の中でも行われている一つの原則だと思うのです。そういうことも含めて考えていただくと、今後の予防に役立つと思います。本来の予防、つまりプロテクションとか、プリベンションは、かなり科学的合理性に傾いていますが、プリコーショナル・プリンシプルというのはまさに常識の世界であり(専門家と非専門家の関係が繰り返し問題になってきましたが)、この原理は特に非専門家が持っている常識の中の一つかもしれないのです。そういう視点もどこかに採り入れていただくと議論が整理できるのではないでしょうか。

 この二日間のフォーラムが単なるイベントで終わるわけではなく、これからみんなが問題を考え行動して判断し行動していくための一つの礎石として受け継がれていくことを祈ります。協力していただいた方々、フロアに参加していただいた方、に感謝申し上げて終わりとしたいと思います。