設立記念イベント:薬害エイズ討論会 | ネットワーク医療と人権 (MERS)

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設立記念イベント:薬害エイズ討論会

ネットワーク医療と人権  設立記念イベント 第2部
薬害エイズ討論会


進行役 :花井十伍氏(大阪HIV薬害訴訟原告団  代表)
パネラ-:島本慈子氏(ノンフィクションライター)
     上田良弘氏(関西医科大学洛西ニュータウン病院  内科部長)
     塩野隆史氏(大阪HIV訴訟弁護団  弁護士)


左:花井十伍氏 右:塩野隆史氏

         上田 良弘 氏

花井
 「薬害エイズ討論会」進行役を務めさせていただきます、大阪HIV薬害訴訟原告団代表の花井といいます。もちろん、進行役としてうまく仕切りたいと思いますが、私も患者当事者ですので発言してしまうかもしれません。

 最初に、各パネラーに薬害エイズとの関わりを含めて、自己紹介をしていただきます。塩野先生の方からお願いします。

塩野
 大阪HIV訴訟弁護団の塩野です。私は大阪HIV訴訟で証言していただいた、当時関西医大の教授であった血友病医師、安永幸二郎さんの尋問を主として担当致しました。その他、広島大学の高田昇先生、元CDCのドン・フランシス氏、被告側申請のFDA職員アロンソン氏の尋問も担当致しました。原告の弁護団なのですから、本来は原告団の代理人であるべきですが、今日は一応その立場を離れ、一弁護士としてお話ししたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

上田
 関西医大洛西ニュータウン病院内科の上田です。私たちの病院は1982年の5月に開設され、私も大阪からその年着任しました。先ほどお話がありましたように、当時安永幸二郎先生が関西医大の第1内科教授で、京都と滋賀の血友病患者の方たちも診ておられたのですが、京都、滋賀の患者に便利の良い病院ができたということで、まず石田吉明さんを紹介されまして、以後、京都、滋賀の血友病患者の診療にあたってきました。1982年といえばアメリカで血友病患者にエイズの症例が初めて出たという時期です。私がこのHIVというのを初めて知ったのは、石田吉明さんが新聞記事を持ってきてくれたのが最初なのですが、「これは要注意項目だ」という話をしたことを覚えています。石田さんを始め、多くの血友病、HIV感染症に関わり続けてきました。

 少なくとも私は1982年から1983年の時期には間違いなく非加熱製剤を処方して、自らの手で注射していたことのある医者ですから、本来はこの場にいるのがふさわしくないのかもしれませんが、その時代からの流れを、現在に至るまでを知っている一人の語り部として、ここに引き出されたという認識を持って、この会に参加しています。本日はよろしくお願いします。


※島本氏は第1部にて講演をしていただいたので、自己紹介は省略。


花井

 島本さんのお話の中で問題提起されたことは、画期的であったと思います。薬害エイズは、世間では単純に、分かりやすい図式で理解されています。しかし、その状況は複雑で、いろいろな視点もあり、様々な状況が複合した状態であったわけです。その中で島本さんは医師、患者、弁護士という当事者の視線で取材をしてこの本を書かれたということから、ああいった問題提起ができたのだと思います。

 今回の、医師、弁護士、患者、ジャーナリストというメンバーでの討論会というのは、薬害エイズの歴史の中でもおそらく初めてではないかと思います。本日は限られた時間内ではありますが、当事者からの真実の告白などを期待しております。

 先ほど、島本氏が講演の中で、危険を認識する前と、認識した後の問題について触れられていましたが、まず1982年から1983年にかけての、リスクの認識が少なかった時期にスポットをあててみたいと思います。エイズの問題と血友病治療の関係で、当時はたいへんな問題に巻き込まれたというふうな雰囲気があったと思いますが、その時の体験について、上田先生のご意見をお聞かせ願いたいと思います。

上田
 当時血友病患者の血液をアメリカに送り、抗体検査を依頼するという便宜をメーカーがはかっていてくれました。その抗体の陽性率の高さに驚いたときが、最初この病気に衝撃を受けた時でした。

花井
 今先生がおっしゃられた時代というのは?

上田
 1984年か1985年です。日本でちゃんと抗体検査ができるようになったのは1985年ですから、その1年ほど前です。

花井
 患者の立場からお話しします。私は1982年、新聞記事でHIVの問題を知りました。その記事に「血友病」という文字があったので特に注目したのですが、その時は特別に意識することもなく、血液製剤の使用を拒否することもありませんでした。1982年、1983年のあたりは、患者の意識にも差があったと思います。島本さんはいろいろな患者さんに取材されたと思いますが、その中で早い時期に疑問を持たれた方はおられますか。

島本
 本の中で「アキラくん」という原告の一人を登場させていますが、1983年の夏ごろ、エイズに関する報道が集中して出ました。その報道を見て、主治医の先生に大丈夫だろうかと尋ねたそうです。その時先生に「大丈夫だ。交通事故に遭うくらいの確率だから」と言われ、彼はその言葉に安心して、その後は何も考えずにいたそうです。他に、危機感を持って医師に問いただしたという話は、患者さんからは聞いてないです。

花井
 その先生は確信を持って「安全である」とアキラくんに言ったのでしょうか。

島本
 たぶんその時はそうだったのではないでしょうか。ウイルスの知見というのは危険性が順々に分かってきました。徐々に全貌が明らかになっていったので、当時その医師はよく分かっていなかったのではないでしょうか。

花井
 アメリカでも薬害エイズは起こって、IOMレポートという詳細に調べられた報告書があるのですが、これによると、同じ情報を得ても、患者によって危険認識が違うのです。医師によっても認識は様々でした。

 現在では治療に於いてインフォームド・コンセントは常識となっていますが、1983年当時、医師は患者に対して、患者が判断できるだけの情報を提供していただろうか、もしくは医師は、提供できるだけの情報を持っていただろうか、このあたりを塩野先生はどのように評価されますか。

塩野
 1982年、1983年というのは確かに争点の時期だと思うのですが、これだけをみても2年間という、非常に長い期間です。1982年の7月に、アメリカでMMWR(米国防疫センター発行による疾病週報) に血友病患者のエイズ症例が報告されました。その時アメリカではこの問題でたいへんな騒ぎになっていたのです。ところがその状況が、日本にはほとんど正確に伝わってこなかったというのが事実です。もっとも、ミドリ十字の子会社のアルファ社や、日本の製薬企業の関連会社は全てアメリカにあるわけですから、そういう情報は、製薬会社にはほぼ正確に入っていただろうと思います。もちろんアメリカでも当時は、発症率や感染率については分からないという状況でした。「危険性はあるが、その程度は分からない」ということが当時の誠実な結論であったわけです。そのような状況で、日本の血友病担当医はどのように伝えるべきであったのか?

 日本の血友病治療医の製剤についての情報源は主に製薬企業です。製薬企業は、ミドリ十字の刑事判決の例を見ても分かるように、安全性を強調する宣伝、場合によっては虚偽の宣伝まで行っていました。そういう事からみると、1982年から1983年のなかごろまでは、医師が直ちに危険性について患者に十分な説明をしなかったからといって、直ちに説明義務違反の責任があるとは言えないと私は思います。

 ただ、血友病治療医といっても様々な立場や知識の違いがあります。例えば、私が尋問した関西医大の安永幸二郎先生は、医科大学の教授という立場にあるわけで、専門的知識は製薬会社に勝るとも劣らない。製薬会社から提供される原資料を分析すればできないこともないと言えるのです。このように問われる立場の医療機関、或いは医師によっては、やはり説明をするべきだったのではないかということも言えると思います。問題は、仮に当時、分かっている範囲の危険性を説明したところで、「では血液製剤の使用を止めよう」と言った患者は果たして何%いたか? 私は間違いなく居た、とは思いますが、多くはなかったかもしれません。

          島本 慈子 氏

島本
 1982年から1983年頃に、医師が患者に危険性を正確に伝えなかったということですが、今日聞きたかったのは、医師が情報を与えないというのは、この薬害エイズ問題に限ってのことではないですよね。日本の医療現場というのは「患者は寄らしむべし、知らしむべからず」という形で成されていたと思うのです。上田先生から反論があればお聞きしたいのですが、薬害エイズ問題が起きてから5年後の1987年に、私が医療の問題を取材したとき、まだ「インフォームド・コンセント」という言葉はありませんでした。そのとき「これはおかしい」と思うような医療の実態が読者からたくさん寄せられたこともあり、「医者に答える義務はないのか、患者に知る権利はないのか」ということをとにかく調べてみようと思いました。そのときの取材で、私も初めて「法的に見ても患者には知る権利があり、医師には説明する義務がある」ということを知りました。患者に情報を与えない、医師は一段高いところにいるという構図の中で、日本の医療は成されていたし、その一つとして、薬害エイズのきちんとした告知がされなかったことがあると思います。

花井
 一つ問題提起したいと思います。先ほど例に出しましたIOMレポートによると、アメリカではインフォームド・コンセントという概念について、おそらく日本より10年ないし20年進んでいると言われてきたのです。癌の告知に関しても遙かに進んでいるアメリカに於いて、薬害エイズに関してはどうだったのかというと、私はあのレポートを見る限りでは、血友病医師と患者の関係が、日本のそれと極めて酷似しているように読んだのです。血友病治療医と製薬会社との関係にも普遍的な共通性があると感じました。そういった視点からインフォームド・コンセントの問題について、そして先ほど塩野先生から指摘があったように、製薬会社が虚偽の情報を積極的に流したという例ですが、当時の情報をどのように感じたか。上田先生からお話していただけますか。

上田
 私は結果責任を決して免責してくれというわけではなく、私自身強く責任を感じています。この時代のことについて、私はいつも「裁判の功罪」という言い方をしています。裁判が始まる前、黒でも白でもない、灰色の部分がたくさんあった状況で、私たちは過ごしていたことを言っておきたいのです。

 1983年に私たちはサマーキャンプを行ったのですが、これは非常に詳細に記録され、ビデオも残っています。その時、石田さんと私と参加した会の仲間と、各製薬会社の担当者を全員呼んで、HIVの問題をどう考えるのか追及している場面があります。応答は各製薬会社によっていろいろなのですが、基本的には加熱製剤をしばらくは待ってくれということで、それまでは非加熱製剤の注射を使い続けないと仕方ないというのが患者、医師、製薬会社の結論でした。なおかつ、その午後に自己注射の練習会をやっているわけです。

 自己注射、濃縮製剤がどのような経過で出てきたかというと、それまで医師と患者が強く待ち望んで、早期承認を求めて運動した経緯があります。濃縮製剤やその情報が、早く全国に届くようにキャンペーンを行ったり、濃縮製剤の効果を友の会の幹部の方たちも一生懸命伝えておられた時代です。自己注射ということで、常に注射薬は患者の手元にあり、使用頻度は患者によっていろいろですが、特に効き目のある方は少しでも痛ければ打って楽になりたいというのが人情です。そういった診断と治療は自己申告として私のところに上がってきて、「月にこれくらいは使いすぎではないか」とか、「アメリカでややこしいことを言っているよ」と、危険性についての話は、その程度のものでした。その時、私たちにそれ以上の情報が届いていたのかといえば、加熱製剤がもうすぐ出るということだけでした。しかし、加熱製剤は1979年に ヘキスト社が開発している技術ですから、各メーカーともやろうと思えばやれた、けれどもなかなかやらなかったという事情は、おそらくいろいろ営業的事情があったのでしょう。たしかドン・フランシスが「何人の血友病患者が死んだら君たちは理解してくれるんだ」と言ったのが1983年です。そこまでアメリカでも分からない状態があったのです。

 当時の血友病患者はHIVだけでなく、ほとんどの患者は肝機能が悪かった。製剤を介してリスクを受けるということに対して、医者も患者も鈍感な時代があって、1982年当時は感染症という意識もできていなかったのです。加熱製剤というのは実は肝炎対策であってHIVのことなど全然考えていなかったのです。加熱処理技術、HIVの問題が起こってすぐに日本を含めて世界規模で加熱の治験が始められるわけがないのです。1985年に加熱製剤が供給されたとき、全ての患者がその日を待ちかねて病院へ薬を取りに来たかといえば、そういう状況は起こりませんでした。この数年間は、かなり灰色の部分があって、それを裁判というものが黒か白かに染め上げてしまったという面があると、当時を知る血友病医師としてひとこと言っておきたいと思うのです。

花井
 率直なお話をありがとうございます。

 薬害エイズ問題の初期にあたる1982年、1983年、この時期の問題をさらに緻密化していこうというのが、この組織の目的の一つです。自己注射というのは、製薬メーカーが金儲けのために製剤を大量に売るためのものだったという見方は完全に間違いです。家庭内治療というのは血友病患者の悲願であって、まさにそれが達成されたのが自己注射だったのです。一つの問題を分かりやすくさせるために、間違った整理がされていたということが、この時期にあったわけですが。

上田
 もう一ついいでしょうか。各メーカーが患者の家に、一度に大量の製剤を宅配で送り届けたという一部の報道がありましたが、あれは患者にとっても非常にメリットがあったわけです。悪い関節を引きずって、病院から10本20本の注射を持っては帰るに帰れないから、届けてもらえるのは非常にありがたいと言われていた側面もあって、それが販売促進の営業活動になったのかならないのか、これもやはり表の面と裏の面が存在するということを付け加えておきます。

花井
 この論点だけでも議論を闘わせると喧嘩になるかもしれませんが、確かにそういう側面があったことは事実です。届けてほしいと望んだ患者も多かった。しかし、必要のない患者の家にも大量に送られてくる、世間ではそちらの声の方が大きく報道されているというのはあります。しかし、患者が必要としていないものを送りつけて、過剰投与したというのは間違いだということは上田先生が言われたとおりです。

塩野
 一つ補足させていただきます。今の議論についてはよくわかるのですが、メーカーが患者の便宜をはかっていろいろ努力された面はあると思います。しかし基本的にはミドリ十字を見ても、少なくとも幹部は当初から確実に状況を把握していた、これは事実なのです。それを自分の会社の従業員にさえ正確に伝えずに騙して売っていた、これもまた事実として明らかになってきている。それがたまたま患者の利益と一致していたかもしれないけれど、結局そういう意味では、医師も騙されていた面があるのかもしれない。我々が問うたのは患者に対する製薬会社の責任で、裁判で和解したわけですね。医師対患者の関係も議論しなければならない。今、私の両脇で患者対医師が議論しているわけですが、これに加えて、あの当時の医師対製薬会社の関係が、もっと正確に議論されるべきではないでしょうか。医師は実際に濃縮製剤を使っていたわけで、それを供給していたメーカーが情報を提供してこないが故に、加害者にさせられている、それについてはどのような議論が可能でしょうか。

上田
 当時、もう一つ血友病患者が成し遂げたかったのは、医療体制の整備だったのです。基本的には、出血が起こったとき一番近い病院で製剤を投与してもらうのが楽なのですが、そういう病気のことをよく分かっている医師というのは都会の大病院に一人いるか二人いるかという状況で、地方の人は非常に苦労していたのです。そういう状況を大きく変えたのが自己注射と濃縮製剤です。メーカー側から「うちのは大丈夫です」という言い方を私はされたことがありません。現場のMRに「どうなのか」と聞いたときに、やはり「わからない」と答えました。むしろ地方のメーカー同士が競って売っていた状況がありました。その中には虚偽ともいえるコマーシャル活動もあったようです。血液製剤は非常に高価だったので売れば営業成績が上がる。ほとんど病院に顔を出さなくても、その先生さえつかまえておけば、会社の中でもランクが上がるわけです。そういうことを資本主義の営業活動にまかせておいて良いのかという問題が残りますが、現実にそういう状況であったことは事実です。メーカー側のコマーシャルを医師が鵜呑みにするということはありませんが、都会の病院から患者を紹介されて治療にあたっていた地方の医師には情報は伝わっていないし、メーカーから虚偽の宣伝がされていたかもしれません。要するに、ないことを積み上げて裁判がされたわけではないのだから、実際にそういうことはあったでしょう。ある人もあれば、なかった人もあった、そういう部分があると思います。

花井
 この時一番情報を持っていたのは紛れもなく製薬メーカーです。メーカーは今も昔も変わらず、極めてクール且つ非人間的に、常に利益を考えています。日本で売れなくなった非加熱製剤をいかに利益が得られるかを分析し、まだ売れるところに平気で売る。「金か安全か、安全にしたければいくらでも高く売る」と、そういうことを平気で患者に言うわけです。そういった資本の原理だけで、こういうことが行われているのは許せないことです。

島本
 企業のトップが、「自分の会社は何のために存在するのか」その哲学を持っていないことが、ものすごく問題だと思います。企業の存在目的は利益を上げることではないはずです。人間から離れた利益などあるわけがないのです。自分の会社、自分の仕事は何のためにあるのか、それを突き詰めて考えていくこと、特に企業には、そのことが要求されていると思います。

花井
 さて、会場の皆さんの中で質問等ないでしょうか。

会場の徳永弁護士
 当時の医師の状況に関してですが、実際裁判の中では、当時の医師と患者との関係についてはさしたる立証はしていないし、主張もしていません。医師と患者の関係は個々の患者の証言などでとれてはいますが、裁判の勝ち負けに関係する情報として収集した記憶はありません。もっぱらアメリカではどうであったかということを調べていたというのが実状です。その中で印象的な事柄で、1982年の早い時期に警鐘を鳴らした血友病医師がいました。クリーブランドのラタノフ医師は、1982年の12月ぐらいに「血友病治療は濃縮製剤を辞めて、クリオに戻るべきだ」と、公的な場で一人敢然と述べた医師です。治療は全てクリオでやるべきだと強く指導し、そこで若手の医師や血友病患者の中から強烈な反発が生じました。結局ラタノフ医師は自分が勝ったと言っておられましたが、ここはどちらが正しかったのか、単純には語れない。そういう状況が当時アメリカでもありました。あの時日本で「全てクリオに戻るべきだ」という発言をして、仮に安部氏がそういう指導をしていたら何が起こっただろうと、考えさせられる事例であると思っています。

花井
 次に1986年以降の騒ぎについて、入っていきたいと思います。

 先ほど、加熱製剤が認可されたとき、患者がそれを求めて並ぶということはなかったとありましたが、実際、私も加熱製剤を初めて使ったのが1985年の12月です。認可されたことは知らず、ある日病院に行くとそれを渡され、「まだ残っている以前の製剤は捨ててください。」と言われました。私が感染の告知を受けたのは1992年です。記録もなく記憶も曖昧なのですが、おそらく1986年か1987年に、主治医の先生が「君は感染の心配はない」と、ちょっとしたきっかけに少し話されて、そのままそれをずっと信じていました。その当時、世間ではエイズ騒動の最中でした。自分は血友病であるが感染していないことを、友人に自慢げに話した記憶があります。でも、信じていても曖昧であったのは、カルテに記録がなかったのです。それで不安になり、1992年に初めて自主的に検査をして、陽性ということでした。告知に関して、感染している事実を患者に知らせるべきであるというのは、医師にとって問題意識としてあったのでしょうか。

上田
 告知に関する騒動というのは、私にはよく理解できていないのですが、当時はかなり積極的に検査をして結果を知ろうと働きかけをしました。しかし、京都には石田さんがおられたので、石田さんに勧められて検査に来たと言う方も非常に多かったので、告知に関して私はあまり苦労したという経験はないのです。インフォームド・コンセントという概念は当時ほとんどなかったので、きちんと説明した上で検査をしたということはなかったことは告白しておきます。結果についての事実は、患者が聞きたいと言った場合にしか話していません。

花井
 治療についてですが、AZTという初の治療薬認可は1987年ですね。「どうせ治療しても死ぬんだ」という発想は患者にはあったと思うのですが...

上田
 いや、それまでに例の山田班の「免疫を高める治療法」というのは山のようにあって、ほとんど私の患者は試したのです。そういった治療を前向きに受けて行こうという姿勢と、日常生活に対する規制をきちんとしようと、告知についてはかなり積極的に京都、滋賀の「友の会」としては進められていました。例えば東北での有名な「集団告知事件」というのがありますが、あれも当事者の医師の話ではあれほど乱暴ではなかったと説明するのですが、受けた患者の方は非常に乱暴なことだったと言われます。それともう一つ、東京を中心に「君たちは(血友病患者なら)全員危ないと思って暮らしたまえ。」という説明があったという、これも理解に苦しむのですが。

花井
 「集団告知事件」というのが出ましたが、裁判以前に(血液製剤によりHIV感染した被害者が)救済を受けられるという制度がスタートしました。東北のある病院で、一定の血友病患者を集めて救済申し込みの説明会が行われました。その書類を見て、会場にいた患者は、それが感染者の救済事業であることがわかり、そこで自分の感染を知った、そう語られている事件です。それについて私は、その場にいた患者の何人かに話を聞きましたが、その通りであったと聞いています。それほど乱暴ではなかったと言う人もいますが、そういう状況下で自分の感染を知るというのは、あってはならないのではないでしょうか。

 告知に関しての問題は、例えば、治療を受ける機会が失われる、感染症の場合であれば、二次感染の恐れがあります。癌の告知やHIV告知の場合、患者の知る権利について、今後の予告編として塩野先生に整理していただきたいのですが、教えてくれないということは、医師が患者の知る権利を阻害することだというのは、欧米の患者からよく聞かされる論理なのですが、日本の場合も未告知によって阻害される権利という考え方はあるのですか。

塩野
 患者の知る権利あるいはプライバシー権ということで憲法に言及されることがあります。しかし、一般の私立病院や国立病院でもそうですが、診療契約というのは一般の契約に基づいたもので、直接憲法が適用されることにはならないでしょう。しかし基本的には憲法の幸福追求権の趣旨に基づいて、患者が自らの疾病についても知る権利ということが基礎づけられると思います。

上田
 あの当時、この病気は必ず死に至ると言われており、世間に知れたらすごい差別と偏見を受けるという社会的状況もありました。当時、癌の告知でさえ日本では定着していない中で、もし「HIVの告知は必ずすべきである、告知しないことは罪悪だ」ということであったとしたら、その現場の苦労はどれほどのものか。告知する医師も、それをサポートする看護婦も、第一、告知された患者たちの苦悩はものすごく大きいわけです。いろいろな問題が山のように渦巻いていました。今の時間軸で見れば、「何をやっているんだ」ということになりますが、告知の問題の見方についても、時間をかけてほしいと思います。

塩野
 上田先生が今お話しされたことは、当時としては、患者の苦労、医師の立場の苦労としてまったくその通りであると思います。ただ二次感染者という問題を考えると、やはり告知の必要性は否定できないと言えます。全てが告知が遅れたためではないかもしれませんが、大阪(訴訟)と東京(訴訟)で30名を越える二次感染者がHIV感染被害者として提訴され、和解しています。私は医師でもなく患者でもない、第三の無責任な立場と言われるかもしれませんが、やはり二次感染者を防ぐためにはどうすれば良いのかと考えたときには、当時としても、速やかに告知するしかなかった思うのです。

花井
 私自身が告知を受けたとき、自分が感染させたかもしれない人間には、それは言うしかないという結論しかなかったです。告知をしたせいでその患者が自殺し、それ以来告知をすることがこわくなったという医師の話も聞いていますし、告知に関しては様々な問題があります。

 今出ただけでも、これだけ薬害エイズというものが残した論点や問題点があり、法律で整理すればきれいに分かったと思えたことが、たちまち分からなくなっていくということが、今少し体験できたと思います。こうしたことを、やはり未来に生かさなければならない。それがこの「ネットワーク医療と人権」のコンセプトです。こうしたことをもっと突き詰め、また、広く新たな調査をして、薬害エイズの真実というものを教訓として残すという形になればすばらしいことであると思っております。

 最後にパネラーの方々に一言づつお願いいたします。

島本
 私は以前に、花井さんがおっしゃった言葉を思い出しました。組織の中でがんじがらめになったり、人間関係や、あらゆる問題が出てくる、そんなときは立ち戻って「命を守るためにはどうすれば良いか。そこから出発して考えたい。」と、そう言われた言葉を今改めて思い出し、この言葉を伝えたいと思います。

上田
 組織というのは目標を達成したところで、分解する可能性もあるのですが、HIV訴訟からがんばってこられて、これだけの大きな組織ができたのは、バラバラにしないためにも皆さんで考えられたのだろうと思います。そのためにも協力したいと思いますし、もっとたくさんのこの問題に関わった人たちに集まってほしいと思います。この問題に収まりきれない色々な行政、社会、また医療体制の問題など、まだまだ矛盾を抱えているものに少しでも解決の方向が提示できたらと思っています。

塩野
 話題が血友病患者とその医師との関係に集中してしまい、上田先生には非常にご苦労な座談会になってしまった気が致します。ただ、我々の思い・目的は、血友病治療医の責任を追及し、断罪するということではありません。責任の有無と範囲を出来る限り明らかにし、今後の同様の被害をできるだけ少なくしていこうというのが、我々の願いです。喧嘩になりかねないようなところもありますが、この点にも目をそらすことなく、私も法律家としてできることをさせていただきたいと思っております。

花井
 ありがとうございます。

 原告団としては、やはり行政に対して「この薬害エイズによって500人もの患者が亡くなったという事実があるのに何も学んでいないのか」という憤りが現在も進行しています。それを被害者だけが訴えるのではなく、専門家の方々に分析していただいて、客観的事実を皆で共有した形でスタートしなければ、なかなかこの教訓を活かすことはできないと思います。そういった意味で、今後この会の活動に期待したいと思います。

 本日は皆様、長い時間ありがとうございました。

 パネラーの皆様どうもありがとうございました。