設立記念イベント:講演 島本慈子氏 | ネットワーク医療と人権 (MERS)

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設立記念イベント:講演 島本慈子氏

ネットワーク医療と人権  設立記念イベント 第1部
島本慈子氏 講演「砂時計のなかで」

 

         島本 慈子 氏

 はじめまして。今ご紹介にあずかりました、島本です。私が今日、この場に呼んでいただきましたのは、ちょうど今から3年前の1997年に「砂時計のなかで」という本、これは大阪HIV訴訟の記録ですけれども、この本を出版したからです。それで、何故この本を書いたのかという経緯と、「砂時計のなかで」というタイトルに込めたものを、最初にお話ししたいと思います。その後で、未だ世間によく知られていないHIV訴訟の真実といったものについて、お話をしていきたいと思います。私、非常に今緊張しているのですけれども、一生懸命お話ししたいと思いますので、どうかよろしくお願いいたします。

 この「砂時計のなかで」という本ですが、これを出版した原点には、石田吉明さんとの出会いがあります。石田さんは既に故人ですけれども、京都市に住んでおられた血友病の患者さんでした。血友病と一口に言っても、いろいろその程度の差があるようですが、石田さんは大変重症の患者さんでした。そして、治療に使っていた血液製剤でHIVに感染してしまい、四国の赤瀬範保さんとともにHIV訴訟の原動力となって闘ってこられたという方です。

 私は1989年の8月、初めて石田さんにお会いしました。当時、情報誌の記者をしていまして、取材でお会いしたんですが、その石田さんとの出会いは、私にとって大変な衝撃でした。それは多重的な衝撃だった。

 まず第一に驚いたのは、血友病という病気の大変さでした。取材に行く前に、ある程度資料などを読んで行ったのですけど、そのとき私が読んだものの中には「血友病は痛い病気である」というようなことは、あまり書かれていなかったのです。ところが石田さんのお話を聞くと、関節の中で出血が起きたときの激痛というのは、言葉で表現できない、脂汗を流して、三日三晩のたうちまわることがあるのだと言われまして、それを初めて聞いて、私は本当に驚きました。しかも、その出血がいつ起きるかわからないというのです。いつ起きるかわからない激痛を待っている状態というのは、暗闇の中に閉じ込められて、どこから鉄砲で撃たれるのかわからないのを待っている、そんな状態ではないか。なんていう大変な病気なんだろうと、まず第一に驚いた。

 第二に驚いたのは高濃縮製剤、やがて問題になる高濃縮製剤ですけれども、この製剤の登場が、患者の生活を劇的に変えたということです。高濃縮製剤の効能というのは、患者さんによってずいぶん違っているようで、それ以前の低濃縮の「クリオ製剤」と効果は変わらなかったという方も非常に多くおられます。ですから、そういう方にまで不必要な高濃縮製剤が投与されていったという、その過剰治療というものに、ひとつ問題の大きな根本があると思うのですけれども、とりあえず石田さんの場合は、高濃縮製剤がドラマチックに効いた。まさに魔法の薬、奇跡の薬だったそうです。その魔法の薬を手にして、これから、この薬があれば病気をコントロールして、普通の人と変わらない社会生活を営んでいけるということで、石田さんは希望に胸をふくらませ、レコード店も開店されて、ほんとに生き生きと暮らし始められたのです。

 ところが、その幸せが瞬時にして暗転します。高濃縮製剤を使い始めて数年も経たないうちに、「実は、魔法の薬だったはずの高濃縮製剤にエイズウイルスが混入していた」という現実を突きつけられてしまったのです。高濃縮製剤の登場が、1970年代の終わり、そしてエイズの出現が1980年代の始めですから、これはもう、あまりにも短い幸福だった。本当にむごいというか、私はその話を聞いたときに、この世に不幸は数々あれど、悲劇とまで呼べる不幸はそんなに多くはない、だけど石田さんの見まわれた不幸というのは、まさに悲劇と呼ぶしかないものです。「こんなん、ありか!」という感じで、大変なショックを受けました。そしてその場で、取材者としての立場を忘れて泣いてしまったという、そんな出会いがありました。

 私がまず驚いたのは、石田さんを襲った運命のむごさでした。だけどそれ以上に驚いたのは、まさに運命に翻弄され、運命から「殴りかかる」ような仕打ちを受けているのに、石田さんが恨みに狂わないで、人を愛することをやめていないということでした。

 その日、石田さんはこう言いました。「この裁判は普通の裁判ではない。裁判が終わるとき、原告は誰も残っていないかもしれない。だからこれは、自分たちの世代じゃなくて、100年後の人たちへのおみやげなんだ。今ここで、行政に襟を正させることができれば、僕たちには無駄でも、100年後の人に役立つだろう」と。

 それは、「未来のために」起こされた裁判だった。少なくとも私は、そう受け止めた。その言葉が、姿勢が、私にとっては本当に衝撃で、石田吉明さんという方が忘れられない人として、心に刻まれたわけなんです。

 で、石田さんのそういう思いに触れて、それからずっと私がHIV訴訟の取材を続けたというのであれば、話が非常に格好良いのですけれども、現実はぜんぜん格好良いものではなくて、全く逆の展開をたどりました。私は石田さんを取材した後、HIV訴訟の取材から離れてしまったのです。石田さんのことを忘れたわけではないけれど、私の前には多忙な日常がありました。情報誌の記者だったので、毎月締め切りがあって、毎月新しい企画を立てて走りまわらなければならない。そういう状態の中で、HIV訴訟への関心というものを、私は継続させることができなかったのです。その後もう一度だけ石田さんを取材したことがありましたけれども、それっきり、何年もが通り過ぎていったというのが実態でした。

 そういう自分の脳天を一撃したのが、1995年4月の終わり、石田さんの死去のニュースでした。あの石田さんが死んだ、しかも予告したとおりに。石田さんが死んだとき、HIV訴訟はまだ終わっていませんでした。「裁判が終わる前に、僕は死ぬだろう」と、そう言ったとおりに石田さんはいなくなった。この事実が非常に私には辛かったです。まさに痛恨の極み。お会いしたときに、彼は「自分の死」を私に予告したわけです。その極めて具体的な予告を聞きながら、どうして彼が死に至るまでの日々を、私はきちんと追うことができなかったのか、見つめ通すことができなかったのか。自分は何のためにライターをしているのか、そもそもライターという職業は何のためにあるんだと、自分に問い直さざるを得なくなりまして、それで、決意したんです。「大阪HIV訴訟の記録を私は残す」と。石田さんたちが命をかけた、まさに命をかけたこの裁判の全体像を、必ずきちんと書いて、時の流れの中に、消えない杭として打ち込むと、そのように決めまして、石田さんが亡くなられた後で、関係者への取材を始めたというわけです。

 取材がひととおり終わり、原稿を書き始めたのが1997年の始めだったのですけれども、書き始めるときすぐに、「砂時計のなかで」というタイトルが浮かんできました。「これしかない」と私には思えた。「砂時計」というのは、石田さんが自分たちの置かれた状況を表すのに、よく使っておられた言葉です。HIV感染者の健康状態を表す数値としてCD4というものがあります。ご存じの方も多いと思いますが、免疫を司る、ヘルパーT細胞の数を示す数値です。通常であれば、それが1000~1500ぐらい。しかしHIVに感染すると、どんどんそれが減っていって、減っていくとともに免疫力が落ちていって、やがてエイズの前駆状態に達し、最後にはエイズを発症する。これは、ものすごくきつい状態です。自分の人生の「残り持ち時間」が、数字としてはっきり出てくるわけですから。これを直視していくことは非常に恐ろしい。恐ろしいけど、少しでも命長らえようと思ったら、適切な治療を受けなければならないし、適切な治療を受けるためには、CD4を見なければならない。CD4を見つめて、その数値がどんどんどんどん減少していく状態を、石田さんは「砂時計の砂がサラサラとこぼれ落ちていくようだ」と表現されました。石田さんはこの「砂時計」という言葉を多くの場面で使われたのですけれども、資料に当たっておりまして、大阪HIV訴訟が提起されるちょうど3日前、1989年5月5日、その日の文書に石田さんが「砂時計」という言葉を書いておられるのを見つけたとき、「ああやっぱり、砂時計という言葉がHIV訴訟を象徴しているんだ」と私は感じました。和解が成立した後で、エイズの薬剤療法というのは非常に大きく進展しております。現在では、死に隣接する恐怖というものが、以前よりはかなり和らいできている。だけど、石田さんたちが訴訟を起こしたときは、決してそうではなかったわけです。「CD4の減少=エイズの発症=死」この冷厳な等式がはっきりと成立していた。そんな状況で始まった裁判です。

 今日受付で、年表を配らせて頂いたのですけれども、これは裁判の進行とともに、どのように石田さんのCD4が落ちていったか、そして、どのように原告の方たちが亡くなっていったか、それを1枚の紙にしたものです。これを見ていただきますと、どれほど過酷な状況の裁判であったかというのを、分かっていただけると思うのですけれども。これは、プライバシーの問題がありますので、「砂時計のなかで」に既に書いて公表したものだけをピックアップしました。ですから事実のごく一部、本当に氷山の一角なのです。このように、砂時計の砂がこぼれ落ちるように自分の残り持ち時間は減っていく、そして砂時計の砂が1粒1粒消えるように、周囲で仲間が亡くなっていく。この状態の中で、「砂時計のなかで」進行した裁判だったということを、やっぱり忘れてはならないと、そのように思います。

 集団訴訟の中には、弁護士がその被害の大きさに着目して、被害者を説得し、訴訟を始めるというケースが多くあります。けれども、この大阪HIV訴訟はそうではありません。これは、患者たちが患者たちの意志で始めた、患者たちの裁判です。それがどれほど大変なことだったか、意志の力がどれほど要求されたかという1点においても、これは未曾有の裁判だったと思うのです。どうかその、原告の方たちの心情というものを、この場にいられる方々に思い遣って頂きたいのです。

 仲間が次から次へと亡くなっていく。その状態の中で、精神の安定を保つというのは、やはり並大抵のことではありません。しかもみんな、仲間の死ぬときを見ています。エイズの最期というのは、次から次へと波のように感染症が襲いかかってくる。息を詰まらせる、血を流す、失明する、脳症にやられてうわごとを言う、そんな最期を見ています。そしてその最期が、次は自分にくると分かっている。しかも、そのときが刻々と近づいているんだということを、CD4の数で知っている。そんな残酷きわまりない状態の中で、彼らは死ぬまで闘ったわけです。そのことを忘れてはならないし、それほどの裁判であったからこそ、HIV訴訟の真実をきちんと見つめて、未来に受け継いでいかなければならないと、そのように私は思っております。

 次に、薬害HIV訴訟の真実、そして今日のテーマである医療というものについて、取材を通じて私が感じたことをお話ししたいと思います。

 実際に取材を始めて、弁護士のお話も伺って、裁判の記録に目を通していく作業の中で、私はまた大変に驚くことになりました。今度は何に驚いたかというと、裁判の実状が一般のイメージとあまりにもかけ離れていることに驚いたのです。世間が抱いている薬害エイズのイメージというのは非常に単純です。国と企業が、エイズウイルスの危険性をはっきり察知していたにもかかわらず、何ら安全対策をとらず、そのために多くの人が亡くなった、と。もちろん、これはこの事件の本質ですから何の間違いもないのですけど、実体はそれほど簡単なものではなかった。

 ことの複雑さを端的に示すのは、患者のHIV感染時期の問題なのですけれども、いま日本で一番有名な医師であるだろう人に安部英さんがいらっしゃいます。非加熱製剤を、危険が分かりながら投与したということで、刑事裁判で責任を問われています。安部さんがあまりにも有名になってしまったので、世間には「安部が一人で血友病患者千数百人を感染させた。安部さえいなければ、一人も感染しなかった」と思いこんでいる方が、非常に多いです。ですが、この思いこみは事実ではありません。エイズ研究班が設けられ、安部さんがその班長になったのは1983年の6月でした。エイズ研究班が立ち上がったその時点で、すでに感染してしまっていた被害者の方は実際にはかなりおられたわけです。例えば厚生省研究班のナチュラルヒストリー委員会から、日本における血友病患者の抗体陽転の平均時期は「1983年3月中旬」というデータが発表されたことがあります。その時に「これは予測していたより遅い、これは原告にとって有利である」と弁護団は非常にほっとされたようなのですが、その、原告にとって有利であったデータでも、研究班ができる3ヶ月前なのです。

 誤解のないように申し上げますが、私は安部氏を免罪しようとしているのでは全くありません。彼が許されないことをしたのは歴然たる事実であって、自分のしたことに責任をとるのは当然のことです。ただ何もかもを安部に押しつけて、「安部のせいで全員が感染した」と言ってしまうことは、明らかな間違いです。

 それは、事実に反しているという意味において第一の間違い。そして、そういう単純な発想をすると大きな問題を見落とすという意味で第二の間違い。たとえば、大阪HIV訴訟の準備が始まったのは1989年の2月でした。その訴訟の準備のために、一番はじめに作られたリポートのテーマが何だったのかといえば、「エイズを予見できない時期に感染した人たちも裁判に勝たせるためには、どんな理屈を考えたら良いのか」ということだったのです。このリポートを最初に読んだときは、「HIV訴訟はこんなスタートラインから始まったのか」と、非常に驚きました。この感染時期の問題を法的にどうクリアしていくのかというのは、まさに裁判の最終ラウンドまで、ずっと尾を引いていました。これは「砂時計のなかで」に詳しく書いてありますので、ご参照ください。薬害エイズが、世間で考えられているほど単純な事件ではなかったというのは、確かなことです。

 エイズという病気が「謎の奇病」として最初に報告されたのが1981年の6月、そして血友病患者にもその謎の病気が出たと、世界で最初に報告されたのが1982年の7月。どう考えても、1982年7月以前に、血液製剤にHIVが混入しているということを予見するのは、まず不可能でした。後に、大阪訴訟の法廷に原告側証人として立たれた、ドン・フランシスという科学者がおられます。これは大阪の弁護団が、台所事情が非常に苦しい中、何度もアメリカへ調査に渡り、引っ張って来たという超重要証人なのですが、この方は米国防疫センターCDCの職員で、非常に早い時期から血液製剤の危険を察知し、警告を発し続けた方です。その方でさえ、弁護団に「1982年の段階で企業に責任を負わせることはフェアではない」という見解を述べられたそうです。そういった、予見できない時期に感染した被害者が存在するというのも、紛れもない事実なのです。では、そういう人たちを感染から救う方法が何にもなかったのかといえば、そうではなかった。アメリカから輸入した血液製剤にHIVが混入していたわけですから、海を越えて血液を売り買いするようなことをやっていなければ、血液事業というものについてきちんとした体制がつくられていれば、そもそも血友病患者がHIVに大量感染するようなことはほぼ起きていないといえるわけです。問題の根幹に、血液行政があります。血液という体の一部、臓器の一部を売り買いするという市場システムこそが、血友病患者の大量感染、その悲劇の母体になりました。石田さんはこの点を、非常に早い時期から強調し続けていた患者さんでした。訴訟の始まる前、1988年7月に、石田さんは自分の主宰する機関誌に「日米貿易摩擦の渦中で、血漿分画製剤の96%を輸入に依存していた日本の血液行政の根幹を問う作業は、法廷においてきっちり成されるべきと考えます」と書いておられます。

 世間でずっと取り沙汰されてきたことは、エイズの危険性が明らかになってきた1983年以降、国と企業は何をやらかしたのか、という問題です。もちろん、その追求が極めて重要であることは改めて言うまでもありません。大阪HIV訴訟の原告団の中にも、なんと1987年になってから非加熱製剤を投与されてHIVに感染した方がいらっしゃいます。1987年といえば非加熱製剤の危険性が歴然と明らかなのですから、これは言語道断というほかない。まして歴史を考えれば、さらに言語道断です。

 先ほど若生さんのお話の中でも、薬害というのは連続して起きている、というのがありました。特に、スモンという被害者1万人以上を出した薬害が、戦後日本で発生したのですが、その薬害スモンと薬害エイズが、連続する形で発生しました。その連続線に、私は読みとらなければならないものがあると考えますので、薬害スモンについて、少しお話ししたいと思います。スモンは1955年ごろ発生した病気です。発生当時は謎の病気でした。大きな症状として、痺れ感のつきまとう神経の障害があり、大人の小児麻痺とも言われました。私にはその痺れというのがよくわからず、周囲にスモン患者の方もいなかったので、手記などを読ませて頂いていると、一人の方が「長い時間正座をした後立ち上がろうとしたら、足がキリキリ痛んで立てない、あの感じが一日中下半身から取れないんだ」と書いておられました。そういう大変な病気が発生し、一時期はウイルスではないかという説も発表されました。ウイルス=伝染病ということです。世間はそのへんに非常に敏感なので、スモン=伝染病だということで、スモン患者の方たちが世間から排除され、薬害エイズのときと同じように辛い思いをされたということがありました。1970年になって、キノホルムという合成物質、これは石炭のタールから作ったものですが、これが原因だということがわかり、一気に裁判が起きていくわけです。全国31の地方裁判所に裁判が起こされ、1978年から1979年にかけて、8つの裁判所ですべて原告側が勝利しました。原告全面勝訴です。8つもその判例が積み重なった段階で和解交渉が始まりました。ここで作られた和解案は有名であり、非常に重要なので、簡単に読ませていただきます。

 1979年9月、スモン和解確認書。その中に、こう書いてあります。「被告国は、安全かつ有効な医薬品を国民に供給するという重大な責務をあらためて深く認識し、今後薬害を防止するために、新医薬品の承認の際の安全確認、医薬品の副作用情報の収集、医薬品の宣伝広告の監視、副作用のおそれのある医薬品の許可の取り消しなど、薬害を防止するために必要な手段をさらに徹底して講ずるなど行政上最善の努力を重ねることを確約する」。国は1979年、こう確約したのです。

 それなのに1980年代当初、薬害エイズの問題が出てきたとき、何もやっていなかったため、被害を拡大してしまったという事実があります。このことからひとつ教訓としてもたらされるのは、「国は約束したことを守りません」ということです。国民が、国に約束を守らせるよう監視する役割を持つということが、とても重要だということを改めて感じます。特にジャーナリズムの役割が重要だと思うのですが、国が確認書を交わしたら、確認した内容を本当に行っているのかを、ジャーナリズムが確認していく。この作業なくして、薬害の教訓を生かすことは絶対にできないと感じています。ですから、薬害エイズ事件において国と交わされた約束も、本当に守られていくかどうかを監視していかないと、必ずまた同じ事が繰り返されるだろうと、そのように思っています。

 要するに、国、企業に責任があり、それを追及するのは当たり前なのですが、ただ、前提に血液事業の問題が横たわっていたということもまた、決して忘れてはならないことです。それを言い換えれば、「この世には金に置き換えられないものがある」ということではないでしょうか。資本主義社会の中で、商売の道具にしていいものと悪いもののけじめをつけるということは、非常に難しいです。しかし、困難であればこそ、英知を集めてそのけじめをつけなければならない。血液を医療の中にしっかりと位置づけていく作業は、すなわち、金にしていいものと悪いもの、自由競争にまかせていいものと悪いもの、その峻別をしっかりするということであって、そういう哲学を構築していくことがいま社会に必要なのだと、亡くなった血友病患者の墓標が語りかけていると、私は思っております。

 次に、取材を通して感じた医療の問題についてお話ししたいと思います。

 「砂時計のなかで」の主人公は、原告と医師と弁護士の三者なんですが、実はこの原稿を書くとき、医師を主人公として登場させていいものかどうかという点について、私は非常に悩みました。というのは、血友病の医師というのは薬害エイズに関して、個人的にどんなに優れた方であっても、患者を感染させたという意味において、加害者の側面を持っているからです。患者さんの中には、厚生省や企業よりも、医師を恨んでいる方がいます。「あなたは医療のプロなのに、どうして危険を察知してくれなかったのか」と。被害者がそう考えるのは自然なことです。私であっても、そう考えると思います。そして実際、薬害エイズについて出版されてきた本のほとんどは、血友病の医師を「悪人」として描いていました。ですから、医師を単なる悪役としてではなく、被害者と同列の人間として描いていくということは、患者や原告の方たちの反発を招くのではないかと、その点を心配せざるを得なかったのです。だけど、悩みに悩んだ末、私はやはり医師のこともきちんと書きたいと思いました。というより、迷える医師の姿を描かない限り、薬害エイズの真相なんてわかるはずがないと思ったのです。もし、血友病の医師が全員悪人であったのなら、話は極めて単純です。だけど、真相はそんなに単純なものではないと、取材を続けるうちに感じずにはいられなかった。医師たちの話を聞く中で、とにかく私が感じたことは、彼らは大変な迷いの中にあったということです。少なくとも、私が取材をした方たちはそうでした。

 例えば、静岡県立こども病院に、三間屋純一さんという先生がおられます。この方は、白血病専門医なのですが、血友病エイズの症例が初めて報告された1982年の夏に、たまたまアメリカに出張されていました。そこでアメリカの医師に、「日本の血友病患者にエイズはないのか?」といきなり聞かれ、非常に驚いたそうです。帰国した先生は、翌年、自分の患者たちにT4T8比という免疫力をはかる検査を実施されました。その結果を見ると、健常者に比べて、明らかに血友病患者の数値は異常であった。けれど、その異常の意味するものをどう読み解けばよいかというところで、非常に悩んだということでした。今になってみれば、迷う方がおかしい。数値が異常だということは、HIVに感染しているということです。しかし重要なことは、1983年当時、T4T8比のリサーチは導入されたばかりの技術だったということです。新しい技術だから、過去の蓄積がなく、対比できるデータがない。対比できるデータがない中で、そのはらむ意味を正確に読み解くということは、やはり非常に難しい。

 また三間屋先生は、加熱製剤の効果にも迷いを持たれた。迷った理由は、加熱を投与した患者が、新たに肝炎ウイルスに感染してしまったからだということでした。ウイルスを不活化できるなら、どうして肝炎ウイルスに感染したのか。加熱製剤というのは、本当に安全なのか。そのような疑問を持たれたということです。これも今になってみれば、迷う方がおかしい。加熱製剤が安全であることははっきりしています。でも、それが登場した当時は、日本だけでなくアメリカでも、安全性に疑いが持たれていました。大阪訴訟弁護団がアメリカへ調査に渡ったとき、アメリカの血友病専門医がこう語ったそうです。アメリカで加熱製剤が認可されたのは1983年3月でしたけれど、「しかしその時点では、加熱によってエイズの原因因子を殺菌できるのかはわからない状態であった。ただ、そうであってほしいというホープがあったのみである。他方、加熱によって蛋白が変性し、それによって悪い影響の出る恐れもあった。いま振り返ればその恐れはなかったのだけれど、当時は、加熱製剤へ切り替えようとは思わなかった」と。

 薬害エイズについて流布している誤った伝説の一つがこの加熱製剤の問題で、「1983年3月にアメリカでは加熱に切り替わった、にもかかわらず日本では1985年7月まで使われた、この2年4ヶ月の遅れによって感染者が出たのだ」という言い方がずっとされてきたのですが、これは事実ではなく、アメリカにおいても医療現場は迷いの中にありました。実際には、発売から1年半以上経った1984年の秋以降になって、一般に使用されるようになったということです。そしてアメリカでも、1万人もの血友病患者がHIVに感染したという重い事実があります。

 誤解のないように申し上げたいのですが、私は医師に問題がなかったと言うのではありません。医療に問題があったのは動かない事実です。だって現実に、医師の治療を受けていた患者さんたちが、HIVに感染して亡くなってしまったのだから。ただ、医療の問題というのは、正確な時間軸に沿って考えていかないと、その本質は見えないと思います。時間軸に沿って言うならば、医療の問題は2段階に分かれると思います。

 一つは、エイズの危険がはっきりした後の医療です。ここに、感染者の治療を拒否する病院があったとか、告知がきっちりと成されなかったために妻や恋人に二次感染させてしまったとか、様々な問題が発生したわけですが、まず、感染のリスクがわかっているのに投与したということ、これはもう絶対に許されない犯罪であって、安部氏が刑事裁判で裁かれているのはこの問題です。

 そしてもう一つは、エイズの危険がはっきりしなかった時期の医療。この時期の問題について、「わかっていたくせに、あんたらは手を打たなかった」という責め方をしても、ほとんど意味がない。むしろ、よくわからなかったんだという事実を率直に認めて、「では、なぜわからなかったのか」「いま振り返れば、明らかに危険は忍び寄っていた。にもかかわらず、それを察知できなかったのはなぜか」「それは個々の医師の問題なのか、あるいはシステムに欠陥があるのか」といったことを徹底して議論すべきであって、それをしなければ、また薬害は起きる。だって自然界に、未知の現象というものは必ず存在するから。必ずまた、誰も知らない何かが、医療の場に忍び寄ってくるから。今後も想定外の事は起こり得る。それを前提に、考えていかなければならない。つまり薬害の再発防止のためには、医師の迷いをこそきちんと描かなければならない。そう思ったが故に、ひとりひとりのドクターを丸ごと、できる限りその迷いをそのまんま、本の中では描こうと決めたわけです。

 今日、ドクターも参加されて、こういった集まりが持てたということを、私は非常にうれしく思います。

 「砂時計のなかで」を発表した1997年の段階では、感染時期の問題を真っ正面から打ち出した点においても、医師の迷いを丸ごと描いたという点においても、また、法的論争の部分もかなり掘り下げたという点に於いても、新しい本だったと思うのですが、その新しさが正当に議論の発端にならなかったということがありました。それは1997年の時点では、出版の時期が早すぎたということがあったと思います。当時はまだ、被害者への救済さえも行き渡っていませんでした。そのような中では、責任追及のために分かりやすい構図を強調し、それを訴えていくということが原告のために必要であったと思います。しかし現在は和解成立から4年が経ち、ほぼ救済も行き渡ったと聞いております。このように一応の解決をみた今だからこそ、複雑であったHIV訴訟の全体像を見つめなければならない。これまで報道されてこなかった点もきちんと見つめて、議論を掘り起こしていかない限り、HIV訴訟の教訓を明日に生かすことはできないと、そのように思っています。

 最後に、原告の方についてもう一度お話ししたいと思います。

 「砂時計のなかで」には、たくさんの原告の方が登場します。現在、大阪原告団の代表を務めておられる花井十伍さんも取材でお話を聞かせていただいたお一人です。私は多くの方のお話を聞きました。その声というのは肉声だけでなく、既に亡くなられ、文書として残されているものを読ませて頂いたというものも含まれています。それらによって、私はとても多くのものを得ました。その中で、どうしても伝えたいことは、彼らは石田さんと同じく、運命から殴られながらも、人を愛することを最後までやめなかったということ。その事実に、私は圧倒されました。例えば、訴訟が終結する前に亡くなられた一人の原告は、3日で1つ、石鹸を使ってしまったそうです。手を洗い続けないと気がすまなくて。どうして手を洗うかというと、人にエイズをうつしたくないから。何故うつしたくないのかというと、HIV感染した日々が、心身共にあまりにも苦しいから。こんな苦しみ、絶対、ほかの人には体験させたくない。そう人を思いやるが故に、彼は手を洗い続け、そして死んでいった。その人のことを思うと、私は今でもたまらない気持ちになります。HIV訴訟の日々は、もう遠く過ぎた日々になりましたが、そんな苦しみがあったということを、覚えていて頂きたいと思います。

 そしてまた、彼らは大変な差別の中にいたわけです。病院で「エイズならよそへ行ってちょうだい」と言われたり、看護婦さんに体も触ってもらえなかったり、あるいは感染告知を受けて呆然とした状態で、信頼している上司にそのことを打ち明けたら、なんと「解雇」されてしまったとか。当時、患者さんたちが社会から受けた仕打ちというのは、本当にひどいものです。今だから言えますが、1993年、私が石田さんに2度目の取材を申し込んだとき、カメラマンに同行を拒否されるという事件がありました。「エイズの人の所に行くのは怖い」と言うのです。我々は報道という立場にあり、世間の差別、偏見をなくしていく役割を果たすべきであるのに、なんということを言うのかと、大喧嘩になりました。そのときは別のカメラマンが「僕が喜んで行かせてもらう」と言ってくれたので、ことなきを得たのですけれど、1993年といえば、HIV訴訟が始まってもう4年が経っていました。その時点で、マスコミの中にさえ取材を拒むカメラマンがいるというくらい、世間のエイズに対する恐怖と偏見は強烈なものだったのです。

 差別というものは常に、する側よりも、される側の方が、差別の存在に敏感です。ですから患者の方たちはそういう世間のエイズに対する冷たい目、エイズ患者を排除しようとする姿勢を、痛いほど感じておられたはずです。それを感じながら、彼らは裁判に打って出た。このこともまた、忘れてはいけないことだと思います。

 大阪HIV訴訟原告番号1番の赤瀬範保さんは、提訴のときに敢然と実名を公表し、巨大な国家権力、巨大な多国籍企業に闘いを挑まれた方です。その赤瀬さんが第1回公判の冒頭の意見陳述で、このように言っておられます。この社会の中では「無謀ともいえる覚悟なくして、この裁判を起こすことはできない」と。『無謀ともいえる覚悟』、この言葉に、赤瀬さんの万感の思いが込められていたと思います。

 そして、その闘いが何のためであったかと言えば、自分たちのためだけじゃない。それは「未来のための」裁判だった。私が石田吉明さんに初めてお会いしたのは、1989年8月3日でした。京都市のご自宅を訪ね、声をかけたら、背の高い男性が出てきた。少し、足を引きずりながら。そして彼は、「この裁判は、100年後の人たちへのおみやげ」と語った。その石田さんの言葉を私は忘れませんし、石田さんたちが命をかけて問いただそうとしたもの、未来へ手渡そうとしたものを、きちんと受け止め、受け継いでいかなければならないと考えています。